二十七片「醜きは誰か」
奥殿と大宮殿へ行き来することができる唯一の回廊がある。照守王の寝所である離れに向かう「渡り」と呼ばれる木造の廊下だ。
陽がすでに西の空へと没した刻限。岩永姫はいくつもの襞が揺れる長い下衣を引きずり、お付きの侍女たちと渡りを進んでいた。刺繍と彩色の施された上衣に、髪には薄い金の丸板をいくつも連ねた姫冠をかぶっている。歩を進める度、岩永姫の被った姫冠がしゃらりと乾いた音をたてた。
岩永姫は懐に隠し持った髪飾りに手を添え、その表情に影を落としていた。
……知らなければよかった。
岩永姫は心の内で呟く。阿戸の髪飾りに触れている手に自然と力がこもった。
阿戸を恋い慕う気持なんか、知らなければよかった。
そうすれば、岩永姫は何のためらいもなく、照守王のもとへ赴くことができただろう。
――君の末永い幸せを、誰よりも願っている。
贈られた髪飾りに込められた阿戸の願いに、岩永姫は胸を締め付けられる思いだった。
「王さま、御連れ致しました」
先頭を進んでいた侍女が、声を上げた。岩永姫は我に返り、顔を上げる。
照守王の寝所には、建物の四隅に槍や矛を持った衛兵たちが控えている。皆、被った甲から垂らした布で顔を覆っている。
王の寝所を守る者は、不祥事以外で見聞きしたことを外部へ漏らしてはならない。顔を覆うのは「影」に徹し、王の人権を守るための処置だった。
「入れ」
寝所の中から、男の声が厳かに告げた。
侍女たちが左右に分かれ、寝所の引き戸を開く。そうして垂れた布を手繰り寄せた。
「王の御前へ」
先導していた侍女が、立ち尽くす岩永姫を促した。
岩永姫はおずおずと歩を進める。
寝所の奥では、褥に胡坐をかいてすわる照守王の姿があった。三年前、岩永姫が妹と嫁いだ頃より歳を重ねたせいもあり、あどけなかった表情は鳴りを潜めていた。心なしか、少しやつれたようにも見受けられる。咲夜姫の死後、照守王はその死をひどく悲しんでいたと化蛇姫が言っていたのを思い出した。
妹を、本当に愛してくださったのだな……。
照守王の姿を見た岩永姫は胸が詰まる想いだった。照守王の傍に歩み寄ると、侍女から聞いた作法で照守王に一礼する。
照守王の顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「ああ、来たか。そなたの名は……」
「わ、わたくしは――」
岩永姫は震える声を上げた。それ以上、言葉が出てこない。
わたくしは、なんと名乗るべきなのか。
衣司の「永」か。それとも、本名である「岩永姫」か。
「確か、衣司の永と申したな。よくきた」
岩永姫が逡巡し、咄嗟に口ごもったのを緊張と受け取ったのだろう。
照守王は立ち上がると、かしずく岩永姫の腕を掴んで引き寄せた。
「あ……」
岩永姫は驚きのあまり、顔を上げて照守王を見上げる。
それは三年前、迷わず妹の手をとった照守王の姿と同じだった。愛しげに目元を緩め、口元を綻ばせて優しい視線を岩永姫へ注いでいる。岩永姫はその視線を受け、自分の中で凝り固まった感情が溶かされていくような心地だった。
ああ、わたくしをちゃんと見てくれた。
三年間、岩永姫を苦しめた記憶が解けていく。
照守王がうっとりとした表情で囁く。
「本当に、そなたは美しい。我が妻となったからには、そなたを幸せにすると約束しよう」
照守王の手が、岩永姫の頬を撫でた。岩永姫の頬が朱に染まる。
「咲夜姫と甲乙つけがたい美しい娘が、この世にいようとは……世界は広いということだな」
照守王は岩永姫を見つめたまま、その口元に浮かべた笑みを深めた。
「緊張することはない。余にすべてを委ねよ」
照守王の手が、岩永姫の上衣の隙間から肌を撫でた。
岩永姫は咄嗟に身を硬くする。
「王さま、おやめくだ――」
「ん? 何だ、これは?」
照守王が怪訝そうな顔で岩永姫の懐から袋を取り出した。
それを見た岩永姫はサッと表情を青ざめる。
「お返しください!」
岩永姫が腕を伸ばすより早く、照守王は袋の中に仕舞われた髪飾りを手にした。
髪飾りを見た照守王の双眸に不穏なものが過る。三年前、岩の姿をした岩永姫を見る目と同じだ。思わず、岩永姫は照守王を見つめたまま、全身を硬直させる。
「……そう言えば、お主に近寄った不埒な男がおったな」
照守王の声音が低くなる。
岩永姫はすぐさま首を横に振った。
「違うのです! その方はわたくしの恩人で、こうしてわたくしがここにいるのは、その方のおかげなのです!」
岩永姫は必死に言葉を継いだ。しかし、岩永姫が髪飾りの贈り主を擁護すればするほど、照守王の顔は険しさを増した。
「そなたに求婚した男はどこの豪族か?」
「……え?」
照守王の問いに、岩永姫は身を硬くする。髪飾りを握りしめる照守王の様子に、岩永姫は一歩後じさりした。
「我が妻に手を出した不届き者だ。ゆえにそれ相応の罰を受けてもらう必要がある」
「お、お待ちください! 何故、そのようなことになるのです!」
岩永姫は声を張り上げ、照守王の腕に縋った。
「この身は照守王さまの妻となったのです! それなのに、何故そのような恐ろしいことをなさるのですか!」
「黙れ!」
照守王は岩永姫の腕を振り払う。岩永姫は咄嗟に踏ん張れず、尻もちをついた。怯えた目で、怒りをあらわにする照守王を見上げる。
「余のものに近づくものは男だろうが女だろうが容赦はせぬ。余が出会う以前に、お主を慕う他の男がいたという事実が不快じゃ! 徹底的に消し去ってくれる!」
「そんな、そのようなこと……いくら王さまとて、外れてはならぬ道理というものがございます! ましてや王さまが治める国の民ではありませぬか! 罪なき民を手にかける王がどこにいるのです!」
岩永姫は照守王を睨むと、毅然とした態度で告げた。
その途端、照守王の表情がひどく歪む。
「お主も咲夜姫と同じことを申すのだな」
「咲夜姫と、同じこと……?」
思いがけず妹の名が上がり、岩永姫は困惑した。
照守王の冷めた目が、岩永姫を見下ろす。
「咲夜姫もそうであった。初夜を迎えてしばらくして、すぐに子を身ごもったと聞いた時は呆れ返ったものよ。どれだけ責め立てても、咲夜姫は子どもの父親は余であると譲ろうとしなかったからな。代わりに生まれてきた子を殺そうとすれば、咲夜姫は身を挺して子を守り、余を責めた。『我が子を手にかける親がどこにいるのか』とな」
「なんと、いう……」
岩永姫は照守王の言葉に衝撃を受けた。震える両手で口元を押さえる。
肩を震わせ、俯く岩永姫に、照守王はため息とともに軽く肩をすくめた。
「まったく、子どもなどまた作ればよいだけの話だろう。余が治める国の民も、そうして増えるのだ。一人や二人、根の国へ旅立とうが豊稲国は揺るぎはせぬ。それにも関わらず、長男との一件以来、咲夜姫は子どもの傍から離れようとしないばかりか、ことあるごとに実の姉を恋しがる始末……。あんな化け物の姿をした姉を恋しいなどと、どうかしている」
岩永姫は口元を覆っていた手を強く握りしめた。祈るように、目を閉じる。
「……よく耐えたな、咲夜姫」
岩永姫は俯いたまま、唇を引き結ぶ。
意外なほど、自分の心は落ち着き払っていた。
「さすがは我が妹……わたくしは誇りに思うぞ。さぞ、心細かったことであろう……」
「何か言ったか?」
照守王が眉間にしわを寄せ、岩永姫を見下ろす。
「さぁ、この髪飾りの贈り主の名を言え。さもなくば、お主が痛い思いをするだけぞ」
照守王は座り込んでいる岩永姫の腕を掴んで立ち上がらせる。すると、部屋中に乾いた音が響き渡った。
照守王は目を見開き、虚空を見つめる。その右頬が赤くなっていた。呆然と立ち尽くす照守王を、頬を張った岩永姫は静かに見据えていた。
「三年前、お主はわたくしに確かに約束した。『必ずや咲夜姫を幸せにする』とな」
「貴様、余を殴るとは不届きな!」
殴られた頬を押さえ、照守王が怒りを露わにする。さすがは国を統治する立場にある照守王である。その怒気のこもった声音は見る者を震え上がらせるには十分な威圧を含んでいた。
しかし、岩永姫の抱く怒りは、そんな照守王がまき散らす威圧すら凌駕した。
「礼儀を弁えぬ者に、こちらが尽くす義理はない!」
岩永姫は照守王を真っ直ぐ見据えると、毅然と言い放った。己の胸に手を置き、落ち着いた声音で続ける。
「わたくしの名は岩永姫。神格のいと高き、山々の神の統率者であり、黄泉と今世の境を示す存在――山主神が娘神の一柱じゃ」
岩永姫は息を呑んだ照守王を睨みつける。
「三年前、お主が『醜い』といって追い出した岩永姫とはわたくしのことじゃ!」
「な……お前が、岩永姫? 嘘を申すな! 岩永姫はそのような身なりではない……全身が岩でできた醜い化け物ぞ!」
照守王は引っ叩かれた頬を手で押さえたまま、驚きに目を見開いている。岩永姫は冷めた目で照守王を見つめ、その口元に乾いた笑みをこぼした。
「お忘れか? 三年前、王が求めた美しさを携えてこうして戻ってきたのじゃ。まさか、再びこのような屈辱を受けることになろうとは思わなかったがな」
岩永姫は頭にかぶっていた姫冠を乱暴に掴んだ。姫冠や付属の髪飾りを取り去る。糸が切れ、水晶や瑪瑙などの玉が床に散らばった。
「妹を大切にしてくださったお方だからと、周囲の者がなんと言おうと最後まで信じたのじゃ」
都に来るまで、立ち寄った村でも、宮中でも、照守王が妹を溺愛していたと散々耳にしてきた。
しかし、実際に本人から聞いた話はどうだ。
照守王は美しい咲夜姫の見た目ばかりを愛で、彼女の心に寄りそおうとはしなかった。岩永姫が今引きちぎった宝石たちと同じ、美しい「物」としてしか扱ってこなかったのだ。
「妹が産んだ子を殺そうとした? 妹を責め立てた? わたくしの大切な妹とその子どもを辱めるなど、たとえ王と言えど許すことなどできぬ! わたくしや妹だけでなく、父である山主神すらも軽んじるその傲慢さ、態度……もはや化け物とはどちらの方か!」
岩永姫は被っていた姫冠を照守王へ投げつけた。照守王は冠でぶつけた額を押さえ、数歩よろめく。褥に尻もちをつき、己を見下ろす岩永姫を見上げた。
「無礼な! 余を化け物呼ばわりとは! 余は豊稲国を治める王――照守王であるぞ! 余の願いはすなわち国の願い! 国の意思! 何人も犯すことは許されぬ!」
怒りに顔を真っ赤にさせた照守王を見て、岩永姫は唇を開いた。
「醜い……」
岩永姫は照守王を見下ろしたまま、その双眸を悲しげに伏せた。
「お主は以前のわたくしなどよりも、ずっと醜い」
こんな男のために、必死になって……なんと愚かであったか。
こんな男のせいで、妹は炎の中で、苦しみながら逝ったのか。
岩永姫は堪らず、照守王から背を向けると走り出した。照守王の寝所を飛び出す。こんな場所、一秒たりともとどまっていたくはなかった。
背後から照守王の怒声が追ってくる。それでも、岩永姫は走り続けた。
「阿戸! 阿戸!」
岩永姫は腕に巻き付けて袖下に隠し持っていた笛を唇に当てる。夜空に星がまたたく地上で、静寂を裂く笛の音が鋭く響き渡った。
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