十八片「雨が上がるまで」
「阿戸……離してくれ。わたくしの土の身体を抱きしめていては、余計に体が冷えてしまう」
我に返った岩永姫は阿戸の胸に手を添え、そっと押し返す。岩永姫が押し返そうとすると、その分、阿戸の腕に力がこもった。そのせいで、余計に阿戸と身体が密着する。岩永姫はひどく慌てた。
「頼む……どうか、しばらくこのままでいさせてほしい」
岩永姫の肩口に顔を埋めたまま、阿戸が力なく呟いた。懇願する彼に、岩永姫は恥ずかしさのあまり、もう全身が破裂してしまいそうだった。
「し、しかし……阿戸……」
「嫌か?」
阿戸が僅かに顔を上げた。それはひどく泣き出しそうな、どこか切なそうな表情だった。阿戸のそんな表情を前に、岩永姫は何も言えなくなる。
「嫌……ではないが……この体勢ではお主が休まらぬだろう? それにこのようなところ、誰かに見られたら……」
岩永姫は言い訳するように視線を彷徨わせた。
洞の外では変わらず雨が降り続けている。いくつもの雨粒が天から地へとその雫を暗幕のように落としているせいで、岩永姫は世界から隔離されてしまったような錯覚を覚えた。
「雨が止むまででいいんだ……」
岩永姫と同じように外を眺めていた阿戸が、岩永姫の後頭部に手を回した。岩永姫の身体を壊さないように、それでも決して離しはしないと言わんばかりの絶妙な力加減である。岩永姫はそんな阿戸の気遣いに無性に泣きたくなった。
「君の嫌がることは絶対にしない。こうされているのが不快なら、いつでも抜け出してくれて構わない」
それでも……、と阿戸が静かに目を閉じた。
「今だけは、こうさせてほしい。雨が上がったら……ちゃんといつも通りに戻る。だから、今だけ……どうか、見逃してほしい」
「……こうして、じっとしておればいいのか?」
阿戸の懇願に、岩永姫は折れた。阿戸の腕の中でわずかに身じろぎする。岩永姫は阿戸の足の間に腰を落ち着けた。岩永姫が受け入れる姿勢を示したためか、阿戸は腕の力を緩めた。岩永姫が落ち着くと、阿戸は再び彼女を強く抱きしめる。
「ありがとう、岩永姫」
岩永姫の頭に頬を寄せ、阿戸が安心した様子で表情を緩めた。普段の阿戸らしからぬ行動に、岩永姫は恥ずかしさのあまり頬を染める。
「構わぬ。じっとしているのは得意だからな」
岩永姫が言うなり、阿戸が噴き出した。
「ふふっ……そうだな。君の忍耐力は知っているよ」
可笑しそうに阿戸が笑う度、岩永姫も込み上げてくる笑みをこぼす。ようやく、いつものようなやり取りに戻った気がする。それがひどくホッとした。
そこからは、雨音だけが二人を包み込んだ。
岩永姫は阿戸の胸に頭を預け、小さくなった火と、未だに降り続ける雨を眺めていた。雨音に混じって、阿戸の心音が聞こえる。阿戸の胸に耳を当てたまま、岩永姫は目を閉じた。阿戸の心臓の音が規則正しい律動を奏でている。己には存在しない、その命を刻む音に岩永姫はうっとりと聞き入った。ひどく落ち着く音だった。
ふと、阿戸の身体が傾いた。
「阿戸? どうし……」
驚いた岩永姫は顔を上げる。阿戸は目を閉じ、規則正しい寝息をたてていた。無防備な寝顔がそこにあった。岩永姫は寝入った阿戸を前に笑みをこぼす。
「わたくしのせいで、気苦労もたくさんかけたからな……」
岩永姫は手を伸ばし、阿戸の頬にそっと触れる。
「ん……」
小さく身じろぎした阿戸に、岩永姫は手を止めた。そのまま様子を見守るが、彼が起きる気配はなかった。岩永姫は阿戸の頬に触れたまま、じっと彼の寝顔を見つめる。ここ一か月近くの旅で、岩永姫が知った阿戸のあどけない表情が目の前にあった。
「ほんに……起きている時は、何をそこまで思い詰めておるのかと心配になるくらい顔を顰めておるのに……」
寝ている時の阿戸は、こちらの庇護欲を掻き立てるような可愛げのある表情をしている。どういうわけかこのまま胸に抱きしめてあげたいと思えるほどだ。
「ふふっ……わたくしも、今日は『らしくない』ようじゃ」
岩永姫は阿戸が寝ていることをいいことに、そっと彼の胸にすり寄った。阿戸の体温が、岩永姫には心地よかった。阿戸に身を委ねたまま、雨粒が跳ねる山の景色を見つめる。
この山を越えれば、もうすぐ豊稲国の都である。
阿戸との旅も、ここで終わる。
「急ぎ、都へ行かねばならぬ」
岩永姫は静かに呟いた。
――君のことを第一に、とても大切に思ってくれる男と一緒に暮らす。そういうことも……選択肢の一つとしてあってもいいんじゃないのか?
阿戸の言葉が、岩永姫の心を揺さぶる。岩永姫が固めた決意を、阿戸の言葉はあっさりひっくり返しにかかってきた。こんな感情は、生まれて初めてだった。
「わたくしは、照守王さまに嫁いだ身じゃ」
阿戸の体温を全身で感じながら、岩永姫は自分に言い聞かせる。
一刻も早く、豊稲国の都へ向かわなければならない。そうでなければ、岩永姫は自分の中で膨れ上がる阿戸への感情を押し込められなくなってしまう。
「照守王さまは、姿の変わったわたくしを受け入れてくださるだろうか」
正直、怖かった。またあの冷たい目を向けられたら、今度こそ、岩永姫は立ち直れない気がする。
――岩永姫、どうか胸を張ってくれ。
かつて阿戸がかけてくれた言葉が、岩永姫の不安を散らしてくれる。
――君は、この世で最も美しい女性だよ。
岩永姫は自分の全身が、熱くなるような心地だった。照守王に「醜い」と言われた時に感じた、全身を焼くような「怒り」の感情とは少し違う。それは炭火のように、いつまでも熱を帯びて冷めやらぬ感覚であった。阿戸の体温を意識すればするほど、岩永姫は自分の中に生まれた熱を持て余した。
このままではいけない。
岩永姫は必死に首を振った。それでも、どこか縋るように降りしきる雨を見つめる。
「このままではいけないのに……このまま雨が止まねばよいと思ってしまう。わたくしは、なんと愚かなのだろう……」
物憂げなため息とともに、岩永姫は誰にともなく呟いたのだった。
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