十七片「もどかしい距離」
ほんの数分の間に、周囲はすっかり水浸しだった。覆い茂る葉に雨粒が跳ね、ぬかるんだ山道で泥が躍る。一瞬で滝のように降り注ぐ雨量に、岩永姫は呆然と空を見上げた。そんな岩永姫の腕を、阿戸が引く。
「岩永姫、もっとこっちへ! はやく水気を取らないと!」
阿戸は岩永姫を雨粒の入らない洞の中心へ連れて行き、背負っていた荷から麻布を取り出していた。阿戸の全身も岩永姫と同じくらいぐっしょりと濡れている。
「阿戸よ、わたくしは平気――」
「平気なわけないだろう! このままじゃ君の身体が錆びる!」
布を広げるなり、阿戸は怒鳴った。岩永姫は阿戸が広げた布に捕われる。そのまま、阿戸の太い腕が素早く岩永姫の身体を拭いていった。
「阿戸よ、自分で拭けるから! そなたも体を拭かねば、病にかかるぞ!」
岩永姫は阿戸の手から逃れようと必死だった。あんな言い合いをした後である。岩永姫はどこか気まずい思いで、阿戸から距離を取りたかった。
そんな岩永姫の心境など知らない阿戸は、断固として退かなかった。
「俺より君の方が優先だ! 錆びたら取り換えが利かない!」
阿戸は自分の腕を振りほどこうとする岩永姫を押さえて、とにかく丁寧に髪や目元、首筋の水気を取っていった。壊れ物を扱うような、こちらを気遣う手つきだった。怒ったかと思えば、こうして優しい手つきで岩永姫に接してくる。
阿戸の言葉と行動の落差が、余計に岩永姫を困惑させた。
「くそっ、服も濡れている。いったん脱いで乾かすか。火を熾して……いや、今はとにかく急いで水気を――」
「阿戸! もういい!」
岩永姫は阿戸の指が服にかかったのを見て、渾身の力で阿戸を突き飛ばした。阿戸は驚いた様子で、数歩よろめく。呆気に取られた阿戸が、岩永姫を呆然と見つめていた。
「もういい、あとは自分で拭ける……」
岩永姫は肩を上下させ、阿戸から目を背けながら言った。濡れて肌に張り付いた衣服をはだけさせた岩永姫を見て、阿戸の顔がみるみる赤くなっていく。
「わ、悪い!」
阿戸も岩永姫から素早く視線をそらした。岩永姫は自分の身体を抱き込むように身を縮ませる。
「いや……いい。お主の心遣い、感謝する。だが、自分の身体くらい、自分で拭けるから。お主も風邪を引かぬうちに体を暖めたほうがいい」
岩永姫も何故だか非常に居心地が悪い。その辺の叢にすぐにでも身を隠したくなるような衝動が、絶えず岩永姫を蝕む。何故だか、阿戸の傍にいると土の身体がうずいて仕方がない。岩永姫はうずくまったまま、阿戸の顔を直視できなかった。
「わかった……ほら、布。体をしっかり拭いたら、これを体に巻き付けるといい」
阿戸は持っていた布を岩永姫へ手渡すと、踵を返した。
「阿戸? どこへ行くのじゃ?」
岩永姫が咄嗟に阿戸の背に声をかける。このまま、岩永姫の傍から立ち去ってしまうのではないか。岩永姫は不安と恐怖心から受け取った布を強く握りしめる。
「洞の入り口で火を熾すだけだ。服を乾かさなきゃならない。まぁ、冬場ではないからすぐに乾くさ。少しだけ、辛抱してくれ」
阿戸はそうして洞の中に散らばっていた木の葉やら木くず、細かい枝を集めて火を熾し始めた。阿戸が立ち去らないとわかり、岩永姫は内心ホッとした。
阿戸に指示された通り、いそいそと服を脱いで濡れた体をしっかりと拭いていく。それもほとんど阿戸が拭いてくれたおかげであまり手間はかからなかった。
「阿戸、濡れた服はどうすればよい?」
「こちらに持ってきてくれ」
阿戸が一瞬だけ振り返ろうとして、慌てて正面を向き直した。阿戸は上衣だけを脱ぎ、焚火の近くで広げている。岩永姫が背後から服を差し出すと、阿戸は受け取って強く絞る。水がぼたぼたと地面に落ちた。木の洞の一部を小刀で削り、出っ張りを作る。阿戸は絞った服のしわを伸ばすと、小刀で作った出っ張りに服を引っ掛けた。
「服が乾くまで、その辺に座ってろ」
「う、うむ……」
岩永姫は布に包まりながら、阿戸の背から二歩下がった場所で腰を下ろす。
二人の間にぽっかりと開いた距離が、酷く空しい。沈黙が二人を包んだ。雨粒が地面を叩く音だけが、二人のいる空間を満たす。
阿戸は焚火に向き合い、岩永姫に背を向けている。決して、こちらを振り返ろうとはしない。岩永姫は、所在なさげにその背を見つめていた。
……わたくしは、いつも阿戸を怒らせてばかりだな。
岩永姫は眉間にしわを寄せ、包まった布に鼻を埋める。
今までの旅でも会話が途切れることはあった。だが、ここまで重苦しい沈黙は初めてだった。布に包まったまま、岩永姫は落ち着かない気持ちで手を握ったり、身体をそわそわと動かしていた。
「もう少し、こちらへ寄ったらどうだ?」
阿戸の声に、岩永姫は大きく肩を震わせた。
「い、いや……わたくしは、大丈夫じゃ」
ひどく強張った声が、岩永姫の口からもれた。
「……布で拭い切れなかった小さな水滴を、火にあたることで乾かしたほうがいい。場所を変わるから、岩永姫は焚火の傍にいろ」
そう言って阿戸が立ち上がろうとする。岩永姫は咄嗟に阿戸の腕を掴んで押し止めた。阿戸が驚いた様子で目を見開き、岩永姫を振り向く。
「ならば、阿戸も一緒に! わたくしにばかり気を遣わないでほしい! お主が病に倒れでもしたらと思うと、わたくしは心配じゃ!」
やっと二人の視線が真っ向から互いを見つめ合った。
「……わかった」
阿戸は浮かしかけた腰をそのまま元の場所に戻した。岩永姫は阿戸の傍らに腰を下ろす。二人の間に開いた拳二つ分の隙間に、水気を含んだ風が流れ込む。阿戸と岩永姫は互いに無言で、ぼんやりと爆ぜる火を見つめていた。
「さっきの話の続きだが……」
阿戸がぽつりと呟いた。彼の黒い瞳に、炎が穏やかに揺らいでいる。
「考えは、変わらないか?」
落ち着いた声音で、阿戸が岩永姫に問いかける。
岩永姫もまた、そっと首を縦に振った。
「……そうか」
予想はついていたのだろう。阿戸の声音は冷静だった。ただ少し、彼の眉間に刻まれたしわが深まっただけだった。
「まだうまく……自分の気持ちを言葉にできぬのだが……」
岩永姫も唇を動かす。阿戸は無言で頷いた。
「咲夜姫の遺した子どもたちについては、できれば傍で支えてやりたい。わたくしが傍にいなかったばかりに、咲夜姫は子どもたちの成長を見ることなく隠れてしまった。ならばわたくしが代わりに、妹の子らの成長を見守ってやりたいのだ」
本心であった。紛れもない、岩永姫の意思である。
「ああ」
阿戸も承知したように頷く。
「豊稲国は、わたくしが生まれて初めて目にした世界だった」
岩永姫は嫁入りの日、照守王の住む大宮殿へ向かう輿の中から見た外の景色を思い出した。懐かしい光景に、岩永姫の口元が僅かに綻ぶ。
「新しい世界、人、物……何もかもが輝いて見えた。あの時、わたくしの心は生まれて初めて叫んだのじゃ。この世界へ飛びこみたいと」
「そうか」
阿戸が小さく笑った。君らしい、と阿戸のかすれた声音が呟いた。
「そして何より……阿戸よ、お主がわたくしを変えてくれた」
「ん? ああ……外見を、な」
阿戸は苦笑した。しかし、岩永姫はあっさり首を横に振った。
「それだけではない。お主がわたくしの心を変えてくれた」
「……え?」
岩永姫が続けた言葉に、阿戸は岩永姫を振り向いた。彼の見開かれた双眸を、岩永姫は穏やかな心地で見つめ返す。
「照守王から『醜い』と拒絶され、父神さまのことも……わたくしの誤解だったとはいえ、見放されたと思った。わたくしには、この世界に居場所がないのだとさえ思えた。そんな絶望に沈む中で、阿戸は変わらずわたくしに接してくれた」
それにどれほど救われたか、阿戸にはわからないだろう。
岩永姫は小さく笑い声をもらした。
「それに阿戸は几帳面じゃからなぁ。この姿に生まれ変わる前から、わたくしが興味を引いたものを阿戸は面倒がることなく丁寧に教えてくれただろう?」
今思えば、放っておけばいいものを……阿戸はわざわざ作業の手を止めて岩永姫に使い方を実演して見せたりもしてくれた。だからこそ、岩永姫にとって、阿戸の教えてくれること一つひとつが確実に自分の中の世界を広げていったのである。
「わたくしが初めて見る世界に、阿戸が手を引いて導いてくれたからこそ、わたくしはこの世界で生きていこうと決心したのじゃ」
「岩永姫……」
岩永姫は阿戸に微笑みかける。
「阿戸、お主に改めて礼を言いたい。阿戸……わたくしはお主に感謝しておる。先程の言葉も、わたくしを心配してのことだとちゃんとわかっておる。……とても、嬉しかった」
岩永姫は己の胸に手を置くと、静かに続けた。
「だからこそ、わたくしは諦めることを止めたのじゃ。豊稲国のことも、照守王さまのことも、父神さまのことも……。道のりは険しいかもしれぬ。じゃが、このまま全てに背を向けて豊稲国を出ていったとしたら、わたくしはきっと後悔する。後悔して長い時をずっと苦しむくらいなら……たとえ傷ついたとしても、自分なりに現実を受け止めたいと思うのだ」
岩永姫は目を閉じる。すると、もはや手の届かないところへ旅立ってしまった妹の姿が瞼の裏に浮かんだ。離してしまった妹の手はもう掴めないが、彼女が遺していったものを拾い上げることはできる。
岩永姫は再び目を開くと、蕾が綻ぶような笑みを阿戸に向けた。
「わたくしがそう思えるようになったのは、阿戸……お主がわたくしを生まれ変わらせるために、必死になっていた姿を傍で見てきたからじゃ」
阿戸にそう笑いかけた瞬間、岩永姫は強い力で腕を引かれた。声を上げる間もなく、硬い何かに顔をぶつける。しばらくして、阿戸に抱きしめられたのだと理解した。
「あ、と……?」
「君は本当に……ずるいな」
阿戸が苦しそうにかすれた声をこぼす。
「そんな風に言われたら……君を無理やり連れ出せないじゃないか」
そのまま、阿戸は岩永姫の肩口に顔を埋めた。彼の熱い吐息が首筋にかかる。布越しに伝わる阿戸の体温に、岩永姫は大きく体を震わせた。窯で全身を火で焼かれた時のような熱が、岩永姫に襲い掛かってきた。しかし、それを怖いとも、不快だとも思わなかった。熱いのに、逃げ出せない。そのまま、阿戸の熱に捕らわれていく心地であった。
ああ……わたくしは、一体どうしてしまったのだろう。
岩永姫はひどく混乱する。己の気持ちをどう受け止めればいいのかわからず、岩永姫は無意識に、己を抱きしめる阿戸にしがみついていた。
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