十六片「阿戸の胸中」
翌朝、岩永姫は険しい山道を早足で進んでいた。獣も通らないような急斜面を、呼吸を乱すことなく進んでいく様は非常に軽やかだ。阿戸も後ろから必死に追いかける。気が急いている岩永姫には、阿戸の歩みが遅れていることに気づいていないようだった。
「おい、岩永姫! 少し、待ってくれ!」
息を切らし、阿戸が根を上げたように声をかける。
「あ……すまぬ、阿戸」
岩永姫は我に返って足を止めた。しばしその場で立ち止まり、追いついた阿戸を見て謝罪する。
「阿戸よ、辛いか? 可能ならば、もう少し耐えてほしい。できる限り、距離を稼ぎたいのじゃ……」
阿戸の身体を気遣う反面、岩永姫は間近に迫った都へ辿り着きたくて気持ちが急く。阿戸は己の顔を覗き込んでくる岩永姫を、じっと見つめていた。
「その前に……聞いておきたいことが、あるんだが……いいか?」
呼吸を整えながら呟く阿戸に、岩永姫は首を傾げた。
「急に改まって、どうしたのじゃ? 聞きたいことというのは今、必要なことか? できるなら、豊稲国の都についてからでも――」
「とても重要なことだ」
岩永姫の言葉を遮り、阿戸が断固とした調子で言い切った。
「これからの、俺たちの行動にも関わってくる」
阿戸は大きく息を吐き出すと、姿勢を正して岩永姫を見下ろす。岩永姫は焦りを滲ませた表情のまま、大人しく阿戸を見上げていた。
「岩永姫……君はこのまま豊稲国へ入った後、どうするつもりなんだ?」
「何を今更な問いを……決まっておる! 咲夜姫の子を探し出し、照守王さまに働きかけて守っていただくのじゃ! もちろん妹を殺した輩は徹底的に探し出し、裁きを受けてもらう!」
体を前のめりに倒し、岩永姫が意気込む。
阿戸としては予想通りの回答だった。
「なら、その後は?」
阿戸は一歩踏み込んだ。
「え……その後、とは?」
戸惑う岩永姫に、阿戸は重ねて問う。
「妹さんの子どもたちを探して、保護した。妹を死に追いやった連中に裁きを与え、全てが丸く収まった。その後、君はどうするつもりだよ」
「そんなの、決まっておる……。わたくしは照守王さまに嫁いだ身。豊稲国を守護するよう、父神さまからも言われておる。妹の遺した子どもたちの世話もせねばなるまい」
「つまり、そのまま豊稲国に留まるってことか?」
阿戸の確認に、岩永姫は小さく頷いた。岩永姫には、阿戸がなぜこんなわかりきったことを尋ねてくるのかわからなかった。
「神としての力を失い、『常世』へ渡ることもできないのに? そんな身で国を守ると?」
阿戸が鋭く切り返してくる。岩永姫は思わず言葉に詰まった。
「た、確かに神としての力は失ったが……それは喜ばしいことだと阿戸も言っていたではないか! 人間として生きるなら、そちらの方がよいと!」
「ああ、言った。あくまで、普通の『人間』として生きるならなんら困ることではないからな」
阿戸の指摘に、岩永姫は顔を顰める。
「阿戸よ、何故そのようなひどいことを言う? 何を怒っているのだ? お主、昨日から様子がおかしいぞ?」
「俺は至って冷静だよ」
「嘘をつくな! ここ数年、共に過ごしてきてお主の機嫌の良し悪しくらい、わたくしでもある程度見分けはつくぞ! 今のお主の様子は、『れんず』とかいうものを作ろうとした時、思い通りにならなくて苛立っておったときと同じじゃ!」
「……っ!」
岩永姫の指摘に阿戸が息を呑んだ。すぐさま、くしゃりと顔を歪める。
「わたくしは人間の常識に疎いゆえ、はっきり言ってくれねばわからぬ! 阿戸、一体何が気に入らぬのだ!」
「ああ……そうだな。気に入らない。だから、はっきり言わせてもらう」
阿戸が小さく息をついた。彼の眉間のしわが深まる。
「岩永姫、君は何故そこまで豊稲国に固執するんだ?」
「何故って……わたくしは豊稲国の照守王さまに嫁いだ身だぞ!」
岩永姫は己の胸に手を置いて断言した。阿戸の顔が苦痛に歪む。
「その肝心の照守王は君を醜いと言って追い出したじゃないか! 今の君が豊稲国に縛られる理由にはならないだろう!」
耐え切れずといった様子で、阿戸が怒鳴った。岩永姫は身を縮ませる。阿戸はなおも言葉を続けた。
「人間の国なんて他にもたくさんあるのに、どうしてそこまで豊稲国にこだわるんだ? 豊稲国の照守王は山主神との契約を破り、その怒りを買った! 豊稲国の命運はすでに見えている!」
「そ、そのようなことはない! 豊稲国を守るのはわたくしの役目。それは妹亡き後も変わらぬ! ましてや、照守王さまと咲夜姫の子もおるのじゃ! 人間の子は脆いのじゃろう? わたくしが傍にいて守ってやらねばならぬ! それに見目も、こうして阿戸がわたくしの姿を生まれ変わらせてくれたではないか! 今のわたくしを、お主は『美しい』と言ってくれたではないか! この姿なら、きっと照守王さまも受け入れてくださる!」
必死に言いつのる岩永姫を前に、阿戸が舌打ちをした。ひどく苦々しい顔つきで岩永姫を睨む。
「たとえ外見が変わって受け入れられても、照守王が君に『神』さまとしての力を求めてきたらどうするつもりなんだ? 岩永姫、君は以前のような姿や能力を失ったんだ。このまま豊稲国に入ったところで、咲夜姫の二の舞になるだけだ!」
「し、しかし……そうじゃ! 巫覡たちの協力があれば、わたくしは豊稲国と父神さまの仲立ちができる。そうすれば、きっと父神さまも力を貸して――」
「確か外見を変えるって話して怒らせたって言っていたよな? 喧嘩別れ同然で宮飛び出してきたくせに、何で未だに父親が自分の話を聞いてくれると思っているんだよ」
阿戸の言葉は、岩永姫の反論をあっさりと両断する。岩永姫は呆然と阿戸の顔を見つめていた。指摘されて初めて、父が岩永姫の願いを拒絶する可能性に思い至ったのだろう。
阿戸は岩永姫の楽観的な思考に呆れ返った。
「そもそも……父親と喧嘩別れした時点で、父親の命令を真面目に聞く必要もなくなっただろう?」
「……」
阿戸の指摘は常に合理的で、正しかった。
岩永姫は言い返す言葉もなく黙り込む。
「な、ならば……わたくしは、どうすればよいのじゃ!」
岩永姫は震える声で絞り出す。
阿戸に対して、怒りよりも悲しみの感情が勝っていた。
「それを、俺は聞いているんだよ」
阿戸はどこまでも淡々とした口調だった。問いかける声が落ち着き過ぎていて、岩永姫は目の前の阿戸をひどく不気味だとさえ思う。
「わたくしは……阿戸の願いをまだ叶えておらぬ。都でお抱えの土師になるというそなたの願い……わたくしが口添えできる国といえば……豊稲国しか……照守王さまに直接、お頼みするしかないのじゃ……」
岩永姫が震える声で言った。口を開けば「照守王」である。
阿戸は苛立った表情のまま、岩永姫を睨んだ。
「別に俺は豊稲国でなくても構わない。土師として都で活躍できるなら、俺は国を選り好みしない。むしろ、豊稲国の現状を思えば、他所の国のほうがいいくらいだ」
「そ、そんな……!」
岩永姫は反射的に阿戸の腕を掴む。しかし、それ以上の言葉は出てきてくれない。岩永姫は視線を足元に落として沈黙した。
黙り込んだ岩永姫を見て、阿戸の表情が陰る。悲しみすら宿す双眸は、うつむく岩永姫を見据えていた。
「君の行動力はよく知っている。そしてそれを通すだけの意思の強さも、努力を惜しまない姿勢も、諦めない頑固さも……」
阿戸の表情が、苦しそうに歪んだ。切なそうに細められた両目が、ゆっくりと顔を上げた岩永姫へ注がれている。
「けどな、世の中にはどうにもできないことっていうのがあるんだ。今の君はかつてのような頑丈さを失い、むしろ俺たち人間以上に脆い。そんな体で、咲夜姫の子どもを庇い、咲夜姫を殺した連中と戦うつもりなのか? 照守王だって、味方になってくれるとも限らない。姿が変わっても、君が『岩永姫』と知れれば、咲夜姫を呪い殺しただのと難癖つけられて追い出される可能性だってある。最悪、殺されるかもしれない」
「照守王さまは、そのようなお方では……!」
「『ない』と言い切れるだけ、君は照守王の人となりを知っているのかよ! 咲夜姫が君に呪い殺されたのだと言い始めたのだって、照守王が周りにそう吹聴したのかもしれないだろ!」
「妹を大切に思ってくれたお方じゃ! そのような侮辱はいくら阿戸とて許さぬ!」
岩永姫は阿戸を睨み据えると、よく通る声で言い切った。
阿戸がひるんだ様子で息を呑む。
「……っ、……すまん。言い過ぎた」
岩永姫の言葉に、阿戸は素直に謝罪した。岩永姫も無言で頷く。
「照守王への暴言については謝罪する。俺の失言だ。……だが、このまま豊稲国へ入ることについては反対だ」
阿戸も高ぶった感情を鎮めるように、小さく息を吐いた。
「いくら防水・腐食を押さえるための加工を施し、耐火性にも優れているとはいえ……器の耐久力はたかが知れている。いくら俺でも、粉々に砕けた土器や埴輪を元通りに直すことは無理だ。俺が何を言いたいか、わかるか? 今から君が飛び込もうとしているのは、そういう危険性が常に付きまとう環境なんだってことだ」
阿戸が岩永姫の手にそっと己の手を添えた。そのまま、握りしめる。
「岩永姫……君は女性としての美しさを手に入れた。それで十分じゃないのか? だいたい、見た目が気に入らないからって自分を追い出した男なんて、普通は顔も見たくないだろ。そんな奴、ほっとけよ」
阿戸の顔が険しい。それなのに、その目元は幼子が今にも泣き出しそうなほどの悲しみを湛えていた。
いつもの阿戸らしくない。
岩永姫は困惑するばかりだった。
「阿戸……どうして、そなたが苦しそうな顔をするのじゃ?」
岩永姫は沈んだ声で話す阿戸を呆然と見つめる。何故だか、岩永姫よりも阿戸の方がずっと傷ついているように見えた。
「なんで君が、君の身体が砕ける危険性を抱えて、無理してまで国を守る必要があるんだよ。それは王さまの役割だろ……。岩永姫、君は照守王のことも、山主神が君に課した使命も忘れて……ただ君自身が幸せになることを願えばいいじゃないか。それじゃあ、ダメなのかよ」
男だって、この世に照守王だけじゃない。
阿戸が深いため息とともに、空いた方の手で顔を覆った。くしゃりと前髪を鷲掴み、眉間に深いしわを刻んでいる。
「君のことを第一に、とても大切に思ってくれる男と一緒に暮らす。そういうことも……選択肢の一つとしてあってもいいんじゃないのか?」
阿戸が呟くと、岩永姫をじっと見つめた。先程までとは違った熱が、その双眸に宿っている。それは以前、岩永姫が山の宮から帰ってすぐ、失意のうちに沈んでいたところへ阿戸が向けてきた目だ。
まるで、相手をひどく慈しむような……それでいて激しく求めてくるような獰猛な目つきだ。
岩永姫は阿戸の双眸を前に、また岩の身体にでも戻ってしまったように動けなくなってしまった。阿戸に握られた手が熱い。岩永姫は阿戸の熱を意識すると、ひどく胸が締め付けられた。
「阿戸、わたくしは……」
「このまま、豊稲国を去ろう」
反論を許さないと言わんばかりに、阿戸の手が岩永姫の手を強く握りしめた。阿戸のもう一方の手が伸び、岩永姫の頬に触れる。自分でも情けないと思うほど、岩永姫の全身が跳ねた。その様子を、阿戸が悲しげな表情で見つめる。
「俺は……また傷つくとわかっているところへ君を送り出すつもりはない。君が苦しんでいる姿を見たくて、俺はここまで協力したんじゃない。岩永姫、悪い状況から逃げ出すことは決して恥ずかしいことじゃない」
阿戸の優しい声音が、岩永姫の全身をゆっくりと絡めとっていく。このまま、阿戸の言葉に頷けば、この胸中を締め付ける苦しみから解放されるのだろうか。
果たして、それが自分にも許されるのだろうか。
「わたくしは――」
岩永姫が口を開きかけた瞬間だった。岩永姫の鼻頭に水滴が落ちてきた。驚いて目を見開く岩永姫とは対照的に、阿戸は焦った様子で天を仰いだ。
それまで広がっていた青空は灰色の雲の影に隠れ見えなくなっている。そうこうしている間に、大粒の雨が大地に向けて降り注いできた。
「まずい! どこか……っ!」
阿戸が慌てた様子で周囲を見回す。彼の視線がある一点で止まった。
「あの木の洞まで走れ!」
阿戸が岩永姫の手を引いて走り出す。
二人は慌てて朽ちた巨大な杉の木の洞に逃げ込んだ。
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