十五片「妹の最期」
「のぅ、阿戸よ。妹の咲夜姫は……どのようにして隠れたのだ?」
夜の山中、パチパチっと爆ぜる焚火をぼんやりと眺めていた岩永姫が呟いた。
干し肉をかじっていた阿戸は驚きのあまり動きを止める。思わず岩永姫の横顔をまじまじと見つめた。岩永姫は阿戸の隣で、無心に燃え盛る焚火を見つめている。
「……いきなり、なんでそんなことを聞くんだよ」
阿戸は逡巡した結果、岩永姫の真意を探るように尋ねた。
まさか岩永姫から妹の最期について聞かれるとは思わなかった。
「阿戸とともに、土師の里を出て……そろそろ一か月くらいになるか」
呟く岩永姫は、どこか寂しげに微笑む。
「わたくしも、いい加減現実を受け入れるべきだと思ったのじゃ。辛くないと言えば嘘になるが……大事な妹だからこそ、その最期の様子を知るべきだとも思う」
それに……、と岩永姫はようやく阿戸の顔を見た。
「『咲夜姫は姉の岩永姫に呪い殺されたのだ』などと言われてしまうと、さすがに目を背け続けることが辛くなってくる」
「っ!? まさか、さっきの村での話を聞いて――」
阿戸が岩永姫の肩に手を置き、焦った様子で顔を覗き込んでくる。岩永姫は両腕で膝を抱えながら、静かに首を横に振った。
「いや、随分前に立ち寄った村だな。たまたま隠れていた場所の近くで、そのように噂しておった者がおったのじゃ」
「……悪い、もっと配慮するべきだった」
阿戸がひどく後悔した様子で項垂れる。岩永姫は苦笑を浮かべ、頭を振った。
「よいのだ……照守王や豊稲国の民たちは、以前のわたくしの姿しか知らぬ。ゆえに、わたくしの祟りを恐れている心境は理解しているつもりじゃ。それに……妹の美しさに、わたくしが嫉妬したのも事実。あながち、嘘とも言い切れぬ」
岩永姫は己の肩を掴む阿戸の手に、そっと左手を添えた。
「阿戸よ。お主が村に立ち寄った際に、わたくしの妹の最期を聞いて回っていたのは知っておる。わたくしのことを案じて、今まで話題にも上げずにいてくれたのであろう」
こちらを気遣うように見つめてくる阿戸に、岩永姫は無理やり笑いかけた。
「頼む、阿戸。わたくしにも、妹の最期を教えてほしい。妹は……幸せそうであったか?」
「……」
阿戸は唇を引き結ぶ。彼の視線が迷うように揺れた。そんな阿戸を、岩永姫は目をそらすことなく見つめ続けた。
「君には少し、酷な話なんだが……」
阿戸がひどく言いづらそうに口を開いた。その表情には、未だに葛藤が伺える。以前、岩永姫が「山の神は火を嫌う」と言ったときに浮かべた表情と似ていた。
「構わぬ。阿戸よ、ありのままを教えてほしい」
岩永姫は肩に乗った阿戸の手を握りしめ、体ごと彼に向き直る。
「阿戸の優しさに甘え続け、長らくお主を苦しめてしまった。わたくしはもう大丈夫じゃ。何より……こうしてお主が傍にいてくれる。わたくしはそれだけで、十分元気づけられた」
岩永姫が心からの感謝を込めて微笑む。
すると、阿戸の顔が燃え上がる焚火のように真っ赤になった。
「別に……俺は、それほど苦には感じていない。気にするな」
阿戸も覚悟を決めた様子で、顔を上げる。真剣な表情で己を見つめてくる岩永姫に、落ち着いた声音で語り始めた。
「まずは結論から先に言う」
阿戸の言葉に、岩永姫は静かに頷いた。
「咲夜姫は、何者かに殺されたんだと思う」
「……え?」
岩永姫は目を見開く。
「君が言ったように、俺は今までの旅の道中で、食料調達に立ち寄った村々で情報を集めた。豊稲国の都で何故、君の妹――咲夜姫が命を落としたのか。それについて聞いて回っていて……俺は一つの確信を得た」
阿戸が愕然として黙り込んだ岩永姫の両肩を掴む。言い聞かせるように、阿戸の唇が言葉を紡ぐ。
「咲夜姫は嫁いだ先の宮中で……何者かによって殺されたんだ」
「そんな……」
岩永姫は咄嗟に言葉が出なかった。
しかし次の瞬間、岩永姫は阿戸の服を力強く掴んだ。
「どこの誰がそんなことをする! 咲夜姫はわたくし同様、山主神の娘神じゃ! 山主神に乞い願い、わたくしたち姉妹を王の嫁にと言ってきたのは人間たちの方ではないか! それが何故、妹が殺されるようなことになる!」
岩永姫の悲鳴に、阿戸は暗い表情で黙り込んでいた。
「……まぁ、照守王の行動にも問題があったわけだけどな」
しばらくして、阿戸はため息まじりに呟いた。
照守王が向ける咲夜姫への溺愛ぶりは近隣の村々を駆け抜け、阿戸が住んでいた国境付近の里にまで遠く聞こえていた。そして、照守王のもとに嫁いできた娘は、何も咲夜姫だけではない。
「咲夜姫は確かに山主神の娘。彼女自身、れっきとした神さまだ。だが、たとえ彼女の神格が高く、由緒正しい存在であろうと、人間世界では意味がない。なぜなら、咲夜姫には後ろ盾がいないからだ」
「うしろだて……?」
「後ろ盾っていうのは……その人の身に何かが起こった時、その危険を察知してすぐさま助けにきてくれる存在ってことだ」
いまいちぴんっときていない様子の岩永姫に、阿戸はしばし考え込むように黙った。
「考えてもみろ、岩永姫。もし君が嫁入りの日からずっと咲夜姫の傍に留まっていれば、咲夜姫がいじめられたり、悲しむようなことが起きた時……君ならどうする?」
しばらくして、阿戸が岩永姫に質問した。
「無論、父神さまに言いつけてやるわ! 契約違反じゃからな!」
阿戸の問いかけに、岩永姫は憤然と言い放った。
彼女の答えが予想通りだったので、阿戸は静かに頷く。
「そうだ。君が山主神へ報せて、照守王や悪意を持った人間たちを戒めることもできただろう。しかし、残念なことに、照守王が君を拒絶したため、咲夜姫は宮中で頼れる身よりがいなくなってしまった。彼女の存在を目障りに思う奴にとって、これほど好都合なことはない」
「好都合、だと?」
岩永姫が険しい表情になる。阿戸も目を細め、不快そうに顔を歪めた。
「照守王は君を拒絶した。それは結果として山主神との契約を反故したとも言える。そうなれば、豊稲国で何かが起こっても、豊稲国側から山主神へ助けを乞うことはできなくなる。それに君も言っていただろう? 人と交わることで神の力が失われる、と。ならば、咲夜姫は自力で自分の父親と連絡を取る手段を失っていた可能性がある」
阿戸の指摘に、岩永姫は息を呑んだ。その表情がみるみるうちに強張る。
「……父神さまがわたくしを咲夜姫の傍に置こうとしていたのは、こうなることを防ぐためであったのか……?」
「……たぶん、な」
阿戸は苦い顔のまま呟く。岩永姫が打ちひしがれた様子で項垂れた。
「ああ……わたくしは……父神さまのお考えを、今頃……」
山主神は岩永姫が王に「女」として受け入れてもらえないことを承知の上で、豊稲国へ嫁入りすることを命じた。そのように面倒な手続きを踏んだのは、宮中において妃たちが住む「奥殿」への出入りが厳重に制限されているからだという。嫁入りしなければ妃たちが出入りする「奥殿」へ他所の女が踏み入ることはまず不可能だ、と岩永姫は旅の道中で阿戸に教えてもらっていた。
――岩永姫よ、咲夜姫を頼んだぞ。
嫁入り前、山主神が岩永姫に告げた言葉の重みを、岩永姫はこの時ようやく理解した。
「わ、わたくしが……わたくしのせいで……わたくしが、妹を死なせ――」
「違う!」
阿戸の鋭い声に、岩永姫は弾かれたように顔を上げた。阿戸の真っ直ぐな目が、岩永姫をしっかりと見据えている。
「岩永姫、これだけははっきり言っておくぞ。妹さんが死んだのは、断じて君のせいじゃない」
阿戸の低い声が、岩永姫の脳裏に響く。先程まで全身が氷のように冷え切っていったのに、阿戸の励ます声を耳にした途端、強張っていた全身が熱を帯びていく。
岩永姫は震える手で、阿戸の服を握りしめた。
「阿戸……」
岩永姫が今にも泣きそうな顔で阿戸を見上げる。阿戸の目は真剣だった。
「山主神は人間界との縁を切って久しい。今回の婚姻の話も、豊稲国で力ある巫覡の尽力があったからこそ実現したものだって噂で聞いた。咲夜姫を目障りに思っている連中は、彼女を殺してしまっても山主神からは何も干渉してこないだろうと踏んだのだろう。現に最後の頼みの綱だった君も、照守王によって追い出されてしまっている。そのことで、豊稲国の巫覡たちは山主神からの信頼を失い、山主神へ助けを乞いたくてもできなくなってしまった」
要は、豊稲国側の自業自得だ。阿戸は冷めた目で吐き捨てた。
「しかし……そうじゃ、王さまは? 照守王さまはどうしておられたのじゃ! 妹の、咲夜姫のことを溺愛しておったのだろう!? ずっと傍におったのだろう!? わたくしにも、必ず妹を幸せにすると約束してくださったのだ!」
岩永姫は苦しそうに叫んだ。阿戸は眉間に深いしわを刻んでいる。岩永姫の口から「照守王」の名が出るたびに、彼の表情はどこか苦しそうに歪んでいった。
「……王を庇うつもりじゃないが、咲夜姫が亡くなった時、すぐには駆け付けられない状況だったみたいだ」
阿戸は吐き出すように続ける。
「咲夜姫は死ぬ直前、産気づいていたそうだ。出産のために、彼女は宮中から離れた産屋に移動していた。王を含め、男は全員、彼女の周囲に出入りすらできなかったらしい」
「ああ……何ということじゃ……」
岩永姫は阿戸にしがみついたまま、肩を震わせる。全身から力が抜けていった。傾く岩永姫の身体を、阿戸が慌てて支えた。
古来より、血は「穢れ」であった。「死」を忌み嫌う人間にとって、「血」とは「死」を連想させるものであったからだ。そのため、人間の世界では女は子を身ごもると村外れに建てられた「産屋」へと移される。そこで子を産み、しばしの時を村から隔離された産屋で過ごすのだ。世話をするのは子を取り上げる者と、女家族くらいである。役目を終えた産屋は焼かれ、徹底的に「穢れ」を払う。
それが人間世界での常識であった。
「ヌバタ村で聞いた話によると、どうも咲夜姫のいる産屋に火がかけられたらしい。当初、宮中の者は皆、咲夜姫が無事に出産を終えて、産屋もその役目を終えたのだろうと思ったらしい」
咲夜姫の場合、宮中に身内がいなかったこともあり、彼女の世話は照守王から命じられた侍女と乳母辺りが焼いていたことだろう。すでに二人の子どもを出産している咲夜姫である。三人目の子も無事に生まれるだろうと、照守王も楽しみにしていたという。
「翌朝、焼け跡から女性の死体が見つかった。焼け残った簪から、咲夜姫だとわかったらしい。そしてその日を境に、咲夜姫がすでに産み落とした息子二人が、乳母とともに宮中から姿を消している。侍女も自害してしまったため、乳母と子どもたちの足取りは途絶えたまま……」
「では、その乳母殿が咲夜姫を……?」
阿戸にしがみついたまま、岩永姫が眉間にしわを刻む。しかし、阿戸はあっさり首を横に振った。
「そう結論付けるのはまだ早い」
「乳母殿ではない、と?」
困惑する岩永姫が、阿戸を見上げた。
「あくまで俺の推測だが……もしも咲夜姫を殺したのが乳母なら、そのまま一人で逃げればいい話だ。咲夜姫の子どもまで連れ去ったら、むしろ身を隠しづらくなる。子連れの旅は、かなり目立つからな」
阿戸はどうやらそこに引っかかったらしい。岩永姫も何とか冷静さを取り戻し、阿戸の言葉を何度も頭の中で繰り返す。
「つまり……乳母殿は咲夜姫の子を守るために、身を隠しているということか?」
岩永姫は己の中で導き出した可能性を口にする。
「その可能性は高い。もしかしたら、君のことを探しているかもしれない」
「わたくしを? 何故じゃ?」
岩永姫が意外そうに声を上げる。豊稲国で岩永姫は実の妹を呪い殺したと噂されているのだ。そんな噂が飛び交う中、咲夜姫が産み落とした大事な子どもたちの命運を母親を呪い殺したと噂される伯母に託そうとするだろうか。
「山主神と連絡を取るには、君に頼った方が確実だからだ。そもそも巫術を扱えない乳母では、山主神を含めた神さまと連絡を取る手段がない。そして、豊稲国の巫覡相手では山主神は耳も貸さないだろう。宮中では誰が味方かもわからないから、下手な行動は取れない。そうなると、乳母に残された手段は咲夜姫の子どもたちとともに一時身を隠すことだけだ。それも、見つかるのも時間の問題だろう」
巫術とは神と契約を結んだ人間がその身体、あるいは偶像などの術具に霊を憑依、ないし乖離させることでこの世に満ちる神気でもって様々な現象を引き起こす技である。その巫術を扱える者を人々は「巫覡」と呼び、人間たちの国を、あるいは神々の住まう「常世」への境を守護する役目を担っていた。巫術を扱えぬ者が山主神と連絡を取るためには、巫覡の助力を得なければならない。
「急ぎ、豊稲国へ向かわねば……」
岩永姫は決意を込めた視線を、闇に沈む山中へと投げた。山向こうに広がっているはずの豊稲国の都を見つめる。
「妹が遺した子らを……わたくしが、守ってやらねばなりませぬ」
「……」
硬く決意した様子の岩永姫を、複雑な表情の阿戸がじっと見つめていた。
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