十四片「自覚なき感情」
岩永姫は村の入り口近くの茂みに身を潜め、阿戸の帰りを待っていた。
土師の里を出て、早くも数週間が過ぎた。岩永姫と阿戸が立ち寄ったのは、豊稲国の都より一つか二つ山を越えた場所にあるヌバタ村である。
そこで阿戸は食料を分けてもらうために村人たちと交渉していた。
阿戸が手にしているのは、以前岩永姫が生み出した翡翠である。阿戸が綺麗に磨き上げ、朱色の紐を通して髪飾りなどに仕上げたものだ。
村の外からやってきた阿戸を見ると、若い娘たちが色めき立つ。こそこそと互いに囁き合い、熱のこもった視線を阿戸に向けていた。
「……むぅ」
岩永姫は苦い顔で小さく唸った。眉間にしわを寄せ、茂みの間からじっと阿戸と村娘たちの様子を見守っている。理由はわからないが、岩永姫は村娘たちの行動が気に入らなかった。
確かに、阿戸は逞しい体つきの精悍な顔立ちをした好青年である。口を開けば色々と細かいところがあって神経質な面もあるが、物作りに誇りと生涯を捧げている彼の性質を思えばむしろ好印象だ。
阿戸もいい歳である。きっと、そろそろ嫁を迎えてはどうか、などと里でも言われていたに違いない。
「阿戸に……嫁……」
岩永姫は眦を下げ、自分の中でもやもやと膨れ上がる気持ちに顔を伏せた。
「いやいや……何故わたくしは落ち込んでおる。わたくしだって、照守王さまに嫁いだ身……。阿戸が嫁を迎え、その素晴らしい技術と血筋を後世に残すことは喜ばしいことではないか」
岩永姫は頭を振り、自分に言い聞かせた。そうして顔を上げ、村長らしき人物と話し込んでいる阿戸の横顔を見つめる。
……これもいい機会かもしれぬ。
岩永姫は内心でぽつりとこぼした。
阿戸は、岩永姫にとってかけがえのない恩人である。彼には必ずや幸せになってもらいたい。あの村娘たちの中で阿戸が気に入りそうな女性を見極め、それとなくくっつけてやるのも恩返しになるのではないか。
「……よし! わたくしは阿戸のためにも、邪魔にならぬよう精一杯努めるぞ!」
茂みの中で拳を握りしめ、岩永姫は気合を入れる。
「ありがとう、助かりました」
そうこうしているうちに、阿戸が交渉を終えて食料の入った麻袋を手にこちらへ戻ってくる。
すると、村娘の一人が阿戸を引き留めた。頬を染め、上目遣いに阿戸を見やる。
「おお、さっそく誘われておるな!」
岩永姫は茂みの中からじっとその様子を窺う。
村娘は口元を綻ばせ、しきりに何やら囁きかけていた。阿戸が即座に首を横に振る。しかし、村娘もめげない。阿戸の腕に己の腕を絡ませると、その豊満な胸を押し付けていた。
「……ちと近すぎやしないか?」
岩永姫の眉間にだんだんとしわが寄る。
一人が話しかけたことで、他の村娘たちも便乗するように阿戸に駆け寄る。村娘たちがとっかえひっかえに阿戸の腕やら腰やらに腕を絡ませる。村娘たちに囲まれ、阿戸が心底迷惑そうに眉間にしわを寄せていた。娘たちの誘いに、絶えず首を横に振っている。
「ほ、ほれ! さすがに阿戸も出会って間もない娘に言い寄られては困るものじゃ! もう少し離れよ! 何事も、段取りというものが肝要ぞ!」
岩永姫は茂みの中でじれったい気持ちで見守る。村娘たちは数で阿戸を引き留めることにしたようだ。娘たちがさりげなく阿戸の逃げ道を塞ぎ、村長の家へと押し戻そうとしている。助けを求めるように振り返った阿戸に、村長も笑顔で何やら話しかけていた。阿戸の表情を見る限り、彼にとっては非常に好ましくない返答だったようだ。対して、阿戸を取り巻く村娘たちは歓声を上げている。
「ああ、もう……何なのじゃ! 皆、揃いも揃って阿戸の意思を無視するのか! 嫌がっているではないか!」
村の様子を見守っていた岩永姫の中で、何かが切れた。激しい衝動のまま、岩永姫は反射的に立ち上がる。
「阿戸!」
岩永姫の呼びかけに、村中の視線が彼女に向く。岩永姫は自分に集中する視線を前に怖気づいた。同時に後悔する。
しまった……隠れていろと言われたのに、つい……。
先程、阿戸の邪魔にはならないと決意したばかりである。
岩永姫はかかないはずの冷や汗を垂れ流していた。
村娘たちの顔からは笑みが消え、明らかな敵意のこもった視線を岩永姫に向けてくる。しかし、どういうわけか男たちはぼんやりとした様子で岩永姫を見つめていた。まるで心ここにあらずといった様子である。
「悪い、妹が待ちくたびれたらしい!」
阿戸が村の男たちの様子を見て、焦ったように駆け出す。阿戸は自分を取り巻く村娘たちを振り切り、立ち尽くす岩永姫の腕を掴んで引いた。
「ひとまず急いで離れるぞ」
「う、うむ!」
阿戸が囁き、岩永姫は大人しく腕を引かれてヌバタ村を後にした。
村を出て、山の麓に生えた一本杉の下で阿戸が立ち止まる。
「ふぅ……ここまでくれば平気か? さっきは助かった。ありがとう、岩永姫」
阿戸は岩永姫に向き直ると、柔らかく微笑んだ。岩永姫は黙り込んだまま、そんな阿戸の顔を凝視している。
「……岩永姫?」
「のぅ、阿戸よ……」
沈黙に耐え兼ねた阿戸が眉間にしわを寄せる。岩永姫は重い口を開いた。
「わたくしに、その……あまり、気を遣わなくてもよいのだぞ?」
「は? 何を?」
岩永姫の言葉に、阿戸は心底意味がわからないと困惑の表情を浮かべる。
「だから……その、お主とて年ごろの男子じゃ。わたくしがいては、思うように振舞えぬことも多かろう」
岩永姫は阿戸の視線から逃げるように顔を背けた。
土師たちの山里を出てから今までの道中、阿戸と岩永姫は基本的に野宿をして夜を過ごしていた。
村に泊めてもらう方が十分な休息を取れるのではないか。
岩永姫が阿戸にそう提案したことも一度や二度ではない。しかし、肝心の阿戸がそれを拒否したのである。
岩永姫が理由を尋ねると、阿戸は決まって罰が悪そうな顔をした。
「男女の旅人は目立つ」
阿戸はそう言って譲らない。どうしても村へ食料を分けてもらわなければならなくなった時は、阿戸は決まって一人で赴いた。
「いいか、何があっても出てくるなよ」
阿戸は村に赴く際、岩永姫に何度も身を隠しているよう念押しした。
岩永姫も今まで、阿戸の言葉に何の疑問も抱かなかった。しかし、先程のヌバタ村でのやり取りを見ていて、阿戸とて人肌恋しい時もあるのではないかと思い至ったのだ。
わたくしの身体は、あまりに冷たく……硬すぎる。
阿戸が握りしめる己の腕を見下ろし、岩永姫は泣きそうな気分だった。土の身体では涙など流れないが、ひどく胸が締め付けられる思いだった。
「おい、岩永姫……何か勘違いしてないか?」
「いや、皆まで言わずともよい!」
口を開いた阿戸の顔に、岩永姫は手のひらを突き出した。
努めて、明るい笑顔で阿戸に向き直る。
「阿戸よ、お主はちぃと真面目過ぎる。そう心配せずとも、わたくしは野外で夜を過ごすことには慣れておる! だからこちらの気遣いは無用じゃ! 安心してお主は気を引いた娘との逢瀬を楽しんでよいのだぞ!」
「はぁっ!? おい、ちょっと待て――」
「先程、お主に最初に声をかけてきた娘などどうじゃ? 見目も悪くないと思うぞ! まぁ、気は強そうじゃったが、女もそれくらいの気概があった方が何かと――」
「ふざけんなっ!」
阿戸が手近の杉の幹を殴った。岩永姫は驚いて小さく跳ねる。
「阿戸? 何を、そんな恐ろしい顔をしておる? わたくし、また何かおかしなことを言ったか?」
阿戸がどうして怒っているのか、岩永姫には理解できなかった。男女が互いを求め合うのは生物の本能のはずである。
「……はぁ」
怒りで全身を震わせていた阿戸は、ややあって眉間にしわを刻んで深いため息をついた。
「人の気も知らないで……勝手なことを言うなよ……」
阿戸が空いた方の手で顔を覆うと、全身から空気を抜く勢いで再び息をついた。
「すまぬ、阿戸。わたくしはただ……わたくしのせいで阿戸にずっと我慢を強いているのではないかと思ったのじゃ。たまには同じ人間同士で、その……息抜きをしてほしかったのじゃ」
「だからってなんで女を勧めることになるんだよ!」
阿戸がギロリと岩永姫を睨んだ。岩永姫は身を縮こませる。
「いや……なんか、熱烈に歓迎されていたようだったので……」
「はっきり言って迷惑してたんだよ! もう二度と言うな!」
「う、うむ! すまぬ……」
全身でしょげ返る岩永姫を前に、阿戸もようやく溜飲を下げる。
「岩永姫……君の悪いところはそうやって他人の話を聞かないで、自分勝手に結論を出すところだ。少しは俺の言い分も最後まで聞いてくれ」
「う、うむ。黙って聞いておるから、続けてくれ」
岩永姫は何度も首を縦に振る。阿戸は腕を組むと、その表情を曇らせた。
「以前にも言っただろ。男女の旅人は目立つ。だから俺たちはできる限り、人目を忍ぶ必要がある」
「うむ。確かにそのように聞いたぞ……。もしや、先程のことを怒っているのか? すまぬ、隠れていろと言われたのに……」
しゅんっと項垂れる岩永姫の頭に、阿戸の手が乗った。
「いや、あれは俺が上手くかわし切れなかったのが悪い。君が出てきてくれたおかげで助かったよ」
阿戸が柔らかく微笑んだのを見て、岩永姫もようやく安心する。ホッとした表情で全身に入っていた力を抜いた。
「ただ……もうすぐ豊稲国の都だ。君にとって、俺と一緒にいるところを他の人に見られるのは色々とまずいだろ」
阿戸が気まずそうに視線をそらした。
「何故じゃ? わたくしは気にせぬぞ?」
顔を上げた岩永姫が、心底不思議そうに首を傾げる。阿戸は小さく息をついた。
「未婚の男女が連れ立って旅をしているっていうのは、人間の世界じゃ色々と勘ぐられるんだ。駆け落ちとか、略奪愛だなんだとか、色々とな……」
「かけおち……? りゃくだつあい……?」
阿戸の口から聞いたこともない言葉がでてきたため、岩永姫は首を傾げる。
「あー、まぁ、細かいことはいい……。とにかく、君は照守王の妻、なんだろう?」
阿戸がすぐにわざとらしい咳払いをする。
「……うむ、まぁ、そうじゃな」
嫁入りした日に公然と結婚拒否されたので、そう名乗っていいのかは甚だ疑問ではある。岩永姫はとりあえず頷いておいた。阿戸が眉間のしわを深める。心なしか、先程よりもずっと不機嫌になったように思えた。
「だったら、見知らぬ男と一緒に仲睦まじそうにしていた、なんて周囲から言われたら君の立場は今以上に苦しくなる。さっきは咄嗟に俺の妹って言い訳したが……君を知っている者が居合わせていたらすぐに嘘とわかる。特に、巫覡の目は誤魔化せないだろう」
国王の妃になる女性が、どこの馬の骨とも知れない男とともにいることは、恰好の標的になる。あることないことまくし立て上げられ、再び宮中を追い出されるようでは岩永姫と阿戸の苦労は水の泡だ。
「……そう、なのか」
岩永姫も阿戸から視線を外し、足元をじっと見つめる。
人間の世界は、なんと細かい決まり事が多いのだろう。信頼している相手が異性であるという理由だけで、何故後ろ指を差されなければならないのか。
「とにかく、これからは今まで以上に気をつけてくれ」
阿戸はそう言って、この話題を終わらせた。
岩永姫の腕を離すと、背を向けてさっさと山道を歩き出したのだった。
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