十一片「失われたもの」
「……気に入らなかっただろうか?」
阿戸が不安そうに岩永姫の顔を見つめる。黙り込んだまま動かない岩永姫の様子を、恐る恐る窺っていた。
土師として、依頼主の要望に反したことは信頼を失うに値する行為である。しかし、阿戸には、どうしても岩永姫の持つ美しさをそのまま容姿として表現したかった。彼女が生来持つ魅力を最大限生かした姿で、皆の前に立ってほしかった。
でも、それは俺の勝手なわがままだ……。
阿戸の目が、岩永姫を直視できずに地面へと吸い寄せられていく。怒鳴られることを覚悟の上で、阿戸は岩永姫が言葉を発するのを静かに待った。
「いや……気に入った」
岩永姫は小さく頭を振った。頬に触れる阿戸の手の上から、自身のそれを重ねる。一瞬、阿戸の手が震えた。手だけじゃない。心臓が、自分の耳に聞こえるほど脈打った。恐る恐る、岩永姫へ視線を戻す。彼女は阿戸の手を振り払う様子はない。それどころか、優しげに目を細めて頬をすり寄せてくる。
「美しいものを生み出してきたお主が言うのだ。間違いはなかろう」
岩永姫は花のつぼみが解けるような笑みを、阿戸に向けた。
「ありがとう、阿戸。わたくしのありのままを、この容姿として作り替えてくれて」
幸せそうに微笑む岩永姫を前に、阿戸は息を呑んだ。酒を飲んだ時以上に、自分の全身が火照る。阿戸は岩永姫の笑顔から目が離せなかった。永遠にも似た刹那の時間、岩永姫と阿戸の視線は正面から絡み合い、互いの姿をその双眸にしっかりと焼き付けていた。
やがて、岩永姫はそっと目を閉じる。彼女の唇が、夢見るようなため息をもらした。
「これで堂々と、照守王さまのもとへ参ることができる」
「……え?」
急に、真冬の冷水を頭からかけられたような心地だ。全身を包んでいた火照りが、急速に冷えていく。冬でもないのに、唇が震えた。
「本当に、心から礼を言うぞ。阿戸……これでわたくしは堂々と皆の前に、照守王さまの妻として立つことができる」
そうだ、と岩永姫の明るい声が続ける。
「阿戸はわたくしとの約束を果たしてくれた。ならば次は阿戸の願いをわたくしが叶える番じゃ!」
岩永姫の両手が、彼女の頬に触れる阿戸の手をしっかりと握りしめた。
「お主を腕のいい土師として国の偉いお方に紹介し、雇ってもらえるよう口添えをしてほしいということであったな! であれば、このままわたくしとともに豊稲国へ参ろう! 人間の国の規模についてはよくわからぬが、豊稲国はとても豊かな土地と多くの人々が住まう国じゃ! きっとお主ほどの腕前を持つ土師を、照守王さまも歓迎してくださるはずじゃ!」
岩永姫の唇から紡がれた言葉が、容赦なく阿戸を殴る。動けずにいる阿戸に構わず、岩永姫の唇がどんどん言葉を放ってきた。
「わたくしも、阿戸が傍にいてくれるのは心強い! きっと、阿戸ならば豊稲国一の土師と皆から称賛されよう! それはわたくしが身をもって保障するのじゃ!」
「あ……ああ。そう、か……それは……ありがたい、な」
阿戸はかすれた声で返事をすると、岩永姫の頬に触れていた手を離した。
それが、精いっぱいだった。
「よし、決まったな! ではこのまま行くとしよう!」
「行くって……そんな、旅支度がまだ――」
問題ない、と岩永姫が阿戸に手を差し伸べる。
「常世を通っていけばすぐじゃ! わたくしが豊稲国から阿戸の住む里へやってきたのも、常世を通ってきたからな! 瞬き一つの間にたどり着けるぞ!」
岩永姫は座り込んでいる阿戸の腕を引くと、嬉々として一歩足を踏み出した。
「……あれ?」
足を一歩踏み出した状態のまま、岩永姫が間の抜けた声を上げた。
「……? どうしたんだ?」
阿戸も困惑した様子で岩永姫の背を見つめる。
「……入れぬ」
岩永姫の手が、阿戸の手を離した。岩永姫は阿戸の手を離すと、周囲を歩き回り、時にその場で跳んでみたりと……奇妙な動きを繰り返している。
「岩永姫?」
「入れぬ! 常世へ!」
表情を強張らせた岩永姫が、阿戸を振り返って叫んだ。
「何故じゃ!? 山の宮から帰って来た時は確かに……」
そこまで言いかけて、はたっと岩永姫が動きを止めた。
――人と交わった時点で神はその身に宿す力を失う! そうなれば、この山の宮へ戻ってこられなくなるのだぞ!
山主神の言葉が、吹き抜ける風と共に岩永姫の頭の中に浮かんだ。
「ああ……まさか……」
「おい、岩永姫! どうしたんだ!」
頭を抱えて呻く岩永姫の肩を、阿戸が掴んだ。強い力で掴んだ後、我に返った様子で阿戸の手から力が抜ける。まるで割れ物を扱うような手つきで岩永姫の両肩に手を置くと、阿戸は落ち着いた声音で岩永姫の瞳を覗き込んだ。
「なぁ、説明してくれ。一体、君は何をそんなにうろたえているんだよ……。俺が作り変えた体、何かおかしいところがあったか?」
「……いいや、違う。違うのじゃ、阿戸……お主のせいではない」
岩永姫は悲しそうに表情を歪ませ、顔を覗き込んできた阿戸を見上げた。
「わたくしは……神として常世へ入れぬようになってしまったのじゃ」
「……それは、どうまずいことなんだ?」
阿戸の問いに、岩永姫は俯く。両手を力なくだらりと下げ、唇を震わせた。
「わたくしは……神として、力の大半を失ったようじゃ。もう……守り神として国を守護するだけの力が、わたくしにはない……」
「それは……つまり、人間とほとんど変わらなくなったってことか?」
阿戸が恐る恐る尋ねる。岩永姫は弱々しく頷いた。
「何だよ……驚かせないでくれ!」
阿戸がどこか大げさな仕草で項垂れ、大きくため息をついた。
岩永姫が怪訝そうに阿戸を見つめる。
「それ、岩永姫にとっては喜ばしいことじゃないか」
「喜ばしいこと、じゃと! 神としての力が使えなくなったのだぞ!」
「だからだよ。その神さまとしての力や姿が、照守王が君を遠ざけた理由だろ?」
阿戸はどこか引きつった笑みで、岩永姫に言い聞かせるように続ける。
「以前にも言ったが、人間っていう生き物はな……自分の理解の範疇を超えた存在を見つけたら、自衛のために咄嗟に攻撃してくることもある。それは裏を返せば、自分たちと同じような存在には比較的、寛容な態度をとるってことだ」
阿戸の言葉が、岩永姫の中へそよ風の囁きのように入ってくる。それまで焦りと恐怖で乱れた岩永姫の心が、次第に落ち着いてきた。
「岩永姫、君の望みは……照守王の妻として皆の前に立つことなんだろう? だったら、いつまでも『神さま』でいるわけにはいかないんじゃないか?」
「……そうか。いや、そうだな」
岩永姫はそっと頷く。まだ自分の気持ちに整理がつかず、納得しきれていない様子だが、先程よりはずっと落ち着いたようだ。
「ありがとう、阿戸。また、お主の言葉はわたくしを救ってくれた」
穏やかに微笑む岩永姫に、阿戸はどこか表情を陰らせた。阿戸の両手が岩永姫の肩からそっと離れる。
「さ、落ち着いたならさっそく旅支度だ。人間は普通、地上を歩いて移動する。豊稲国へ行くなら、それなりの日数もかかるだろう。そのためには色々と準備が必要なんだよ」
阿戸は気を取り直すように明るい声を出した。岩永姫も力強く頷く。
「うむ、わかった。正直、気持ちは急くが……これも必要な経験なのだろう? 阿戸よ、豊稲国へ向かう道すがら、わたくしにも人間の生活について色々教えてくれ」
岩永姫が笑うと、阿戸もどこか安堵した様子で笑った。
不意に、阿戸の名を呼ぶ声が叢を掻き分けてくる。岩永姫と阿戸は弾かれたように声の近づいてくる方向を振り返った。
「まずい、里の仲間だ。急いで隠れろ!」
「う、うむ! わかった!」
「おい、何やっているんだ!」
「何って、こうして隠れて……」
「ただその場に座り込むんじゃなくて、その辺の岩陰に隠れろ! 岩永姫、君はもうその辺の岩と同じ姿じゃないんだ!」
「むっ、そうだった!」
咄嗟にその場に座り込んだ岩永姫を、呆れた阿戸が立たせる。池の傍にあった大岩の影に岩永姫を押し込むと、阿戸は何食わぬ顔で叢から姿を現した仲間へ手を振った。
「やっと見つけた。阿戸、なんでこんな場所に突っ立っていたんだ?」
「悪い悪い。考え事をしていたらここにたどり着いてな。それで、何かあったのか?」
阿戸が誤魔化すように笑うと、仲間へ用件を尋ねた。すると、里の仲間は思い出した様子で、早口に話し出した。
「豊稲国全土にお触れが出たんだ! 近々大規模な陵墓が建設されるらしい! 豊稲国内の村々にいる土師が都へ招集されるんだと! 俺たちの里にも埴輪制作の依頼がたくさん来たんだ! 忙しくなるぞ!」
「陵墓の建設? ということは、王族か、有力な豪族の誰かが隠れたのか?」
阿戸は首を捻った。すると、里の仲間が笑う。
「お前、その辺の話はとんっと疎いもんな! ほら、三年前くらいだったか? 豊稲国を治める照守王さまのもとに山の神さまの娘が嫁いできただろう? そのお妃さまがお隠れになったらしい」
「えっ!?」
阿戸が驚きの声を上げると同時に、近くの茂みが大きく揺れた。
里の仲間が不審そうに大岩へ目を向ける。
「誰かいるのか?」
「あ、いや……」
里の仲間が一歩、足を踏み出したところで大岩の影から兎が一羽飛び出した。そのまま、叢の中へ身を隠し、走り去っていく。
「何だ、兎か」
里の仲間は足を止め、立ち尽くす阿戸の肩を軽く叩いた。
「じゃ、そういうわけで里長が皆を集めている。俺は先に行ってるから、お前も早く来いよ」
「あ、ああ、わかった!」
立ち去っていく仲間を見送り、阿戸は慌てて大岩の影へ駆け寄った。腰の辺りに衝撃が走る。見れば岩の影から飛び出してきた岩永姫が、目を見開いていた。その震える唇が、か細い声を上げる。
「嘘じゃ……何かの間違いであろう!」
「岩永姫、落ち着け!」
表情を強張らせる岩永姫に、阿戸も落ち着かせようと声をかける。しかし、岩永姫の見開かれた目は、阿戸を見ていなかった。
「妹が……咲夜姫が死んだなどと、何かの間違いじゃ!」
岩永姫の悲壮な叫びが、若葉の茂る森に鋭く響いた。
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