十片「生まれ変わった女神」
「最後に体に破損個所がないか調べるから、まだじっとしていろよ」
阿戸がこちらを気遣うような声で話しかけてくる。しかし、おかしい。いつもならすぐに彼の顔が見えるはずだ。それなのに、岩永姫の目の前には暗闇が広がるばかりである。
阿戸、阿戸……どこにおる?
岩永姫は心の中で何度も呼びかける。すると、彼の腕が岩永姫の身体を抱き起した。
「よし、ひび割れも、欠けもないな。髪の溶接個所も問題ない。岩永姫、意識があるなら声を出してみてくれ」
「……あ、と……」
長らく声を出していなかったため、発した声はひどく嗄れていた。それでも、最初に出した声は、傍にいるはずの土師の青年の名をしっかりと呼んだ。
「ああ、気分はどうだ?」
阿戸の穏やかな声がたずねてくる。阿戸の手が岩永姫の体に触れている。それが岩永姫にとってひどく心地よく、安心できた。ただ阿戸に見られているのだと思うと、何故だかむずむずとして落ち着かない心地にもなった。
「体が、思うように動かぬ……。こう、ぎこちない感じじゃ」
岩永姫はゆっくりと腕を上げてみる。最初は、まるで自分の腕が棒にでもなってしまったかのようだった。ぎこちない動きで、腕を動かす。
「長いことじっとしていたからな。少しずつ慣らしていけばいい」
阿戸がどこか安堵した様子で息をついた。
「のぅ、阿戸……目の前が未だに真っ暗なのじゃ。何も見えぬ……」
岩永姫の不安そうな声に、阿戸がはっと息を呑んだ。
「見えない……?」
「うむ……普段ならば神気を感じ取って景色が見えるはずなのだが、目の前が真っ暗じゃ」
「……少し待ってろ。これをはめ込めば見えるようになるか?」
岩永姫の訴えに、阿戸の声が慌てている。直後、ひやりとした何かが両目に押し込められた。すると、出口から差し込む光が、はめ込まれた眼球の中で反射する。そうして、うっすらと像を形成していった。
目の前に、こちらを見下ろす青年の顔が映し出される。日に焼けた小麦色の肌に、短く切った黒髪が印象的な阿戸の顔だ。こちらの反応を真剣な面持ちで見守っている。
「岩永姫、どうだ?」
「ああ、見える……」
岩永姫は両手を伸ばして阿戸の頬に添えた。阿戸が目を丸くしている。
「岩永姫……」
「阿戸じゃ、阿戸の顔じゃ……」
心底から安堵した様子で、岩永姫が笑う。
「おかしいのぅ。それほど長い別れではなかったというのに、お主の顔を見るととても安心する」
岩永姫に頬を触れられた阿戸が、みるみるうちに顔を赤らめていく。
「君は……そういうこと、平然と言うなよな」
阿戸の顔がくしゃりと歪んだ。口元は怒ったようにへの字に、しかしその目元はどこか泣き出しそうであった。
「阿戸?」
「見えるようになったんなら、とりあえず服を着ろ」
ばさりと体に布をかけられる。麻で編まれた衣服は、ざらついた表面をしている。しかし、袖を通して腰布で縛ればとてもしっくりとした。丈の長い上衣にも袖を通す。岩永姫は着替え終えると、改めてまじまじと己の両手を見下ろした。雪のように白い滑らかな表面は、まさに人間の手と変わらない。表面が硬いというだけで、見た目だけなら十分人間のように見える。
「着替え終わったか?」
こちらに背を向けている阿戸が聞いてくる。
「うむ、これで正しいか?」
岩永姫の不安げな声に、阿戸が振り返る。岩永姫を一瞥すると、小さく頷いた。
「ああ、問題ない。岩永姫、起き抜けで申し訳ないが、今すぐ動けるか?」
「う、うむ。どこかへ行くのか?」
岩永姫が寝そべっていた台座から立ち上がろうとする。くらりと目の前が傾いた。
咄嗟に、太い腕がよろめいた岩永姫の背を支えた。阿戸の腕だ。
「すまぬ、少しふらついた」
「いや、歩けそうか? 厳しければ、俺が抱えていくが?」
「いや、自分で歩きたい……。これから向かうところは、ここから距離があるのか?」
阿戸が小さく首を横に振る。
「それほど離れた場所じゃない。ただ、君の生まれ変わった姿を見せたいと思ったんだ」
「っ! わたくしも見たい!」
岩永姫の表情が目に見えて輝いたのを、阿戸は嬉しそうに眺めていた。阿戸の手が岩永姫の腕をとる。そのまま、岩永姫の手を引いて歩き出した。どこか覚束ない足取りの岩永姫に、阿戸の歩調が緩む。阿戸が岩永姫の歩幅に合わせてくれたおかげで、岩永姫もどうにかついていくことができた。
窯を出ると、山々は若葉に包まれていた。所々に白くて小さな花をつけた木も見える。どうやら季節は田植えを初める頃のようだ。
「わたくしは、あれからどれくらいの時を窯の中で過ごしていたのじゃ?」
「半年と少し、くらいだな」
阿戸は虚空を見つめ、思い出すように続ける。
「体はすぐに完成したんだ。ただ、はめ込む目玉や髪など……そういったものを作るのに手間取った」
「そうか……狼たちは、どうした?」
岩永姫は森の中へ警戒の目を向ける。
「ああ……あの狼たち、いつの間にいなくなったんだ?」
岩永姫を窯に入れた後も、阿戸は絶えず火の傍で狼たちを警戒したという。群れで取り囲まれたのは最初の時だけで、それからは一、二匹が木々の影から阿戸を監視するように佇んでいることが多かったという。とはいえ、いきなり襲ってくるとも限らない。阿戸は常に狼たちを警戒して火を絶やさずに窯の傍で冬を越したという。
「岩永姫、こっちだ」
阿戸は岩永姫を山の中にある池へと案内した。
そこで自分の姿を池に映して確認しろということだった。
岩永姫は恐る恐る池の水面を覗き込む。
「っ……!? これ、は……」
水面には見知らぬ女性が映っていた。
白い肌に、長い黒髪、そして黒曜石のように磨き上げられた双眸を持つ女性が目を見開いている。桜色の唇が、戸惑った様子で何度も開閉していた。そっと水面の方に腕を伸ばせば、そこに映った女性も同じような動作をした。紛れもない。水面に映った女性は岩永姫自身であった。
「わたくし……なのか?」
戸惑った表情で、岩永姫は阿戸を振り返った。
「阿戸よ、この姿は……」
目の前に映る女性は、岩永姫が阿戸に頼んだ妹の「咲夜姫」の容姿とはまったくの別人だった。
水面に映った己の姿は、どこか意思の強さを見る者に与える凛々しさがあり、一方でほっそりとした顔や体の線は咲夜姫よりも細く儚い。人間の女性に特徴的な、胸のふくらみがないことも違和感があった。
「妹の咲夜姫とは、似ても似つかぬ姿じゃ……」
岩永姫の声は震えていた。困惑と不安、そして予想外の容姿になった戸惑いが一気に押し寄せ、押し寄せてきた感情の波をすぐに受け止めることができなかった。
「俺は君の妹さんに直接会ったことがない」
阿戸は腕を組み、真面目な口調で続ける。
「君に記憶を見せられた際の、外見的な特徴でしか妹さんの『姿』はわからなかった。普段、どんな風に笑うのか。どんな癖があるのか。そして、どんなことを嫌い、どういったことで悲しむのか……そんな妹さんを、俺は知らない。だが、岩永姫……君のことはここ数年でよく理解したつもりだ」
阿戸は腕を解くと、右手の拳で己の胸を叩いた。
「俺は、自分の作る物にいつだって誇りを持っている。そして、物の『美しさ』っていうのはその素材が持っている性質で決まるものだ」
阿戸は自分を見上げる岩永姫を真っ直ぐ見据え、静かな声音で続けた。
「岩永姫、俺は君に約束した。必ず、君を妹さんにも負けない美しい姿にしてみせる、と」
「あ、ああ……」
頷く岩永姫の前で膝を折ると、阿戸はその指先で岩永姫の頬をそっと撫でた。岩永姫は己に柔らかい笑みを向けてくる阿戸から目を離すことができなかった。
「だから俺は、君が他人から最も美しく見られる姿にしたつもりだ」
阿戸は穏やかな声のまま続ける。
「妹さんに負けない美しさを求めるなら、妹さんと同じような容姿であってはならない。それに……君は妹さんのような華やかな美しさより、その芯の通った性格が外見に現れている様がよく似合う。俺はそう思った」
阿戸の手のひらが、岩永姫の頬を滑る。阿戸のどこかはにかむような微笑を前に、岩永姫は何の言葉も発せなかった。まるで岩のように、体が固まってしまって言うことを聞いてくれない。今すぐにでもその辺の草むらに逃げ込んで隠れたいのに、阿戸の目を前にすると体が思うように動いてくれなかった。
「岩永姫、どうか胸を張ってくれ」
阿戸の言葉が、岩永姫の止まっていた時をゆっくりと動かしていった。
「君は、この世で最も美しい女性だよ」
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