始まり。─忠人(ユウト)─
「あいつは、消えたんだ…」
2021年12月19日。
瞳は、俺の目の前から、一瞬にして、忽然と、姿を消した……。
今から、ちょうど20年前。
当時、俺は、高校2年生で。
それは、満月の夜だった。
あの日の出来事が、まるで、昨日のことのように想い出されて。
あいつの声が、まだ、耳の奥で幽かに響いてる……。
「忠人!助けて……!!」
「え……!?」
真夜中。
耳もとに、あの時の、あいつの声が、また、響いて、思わず俺は、声を出した。
振り返っては、見たが、瞳は、いない。
ここは、俺の実家近くのボロアパートの一室で。
年齢も年齢だから、いい加減俺は、最近になってから、やっとこさ、実家を出て独り暮らしを始めた。
俺一人の他は、誰もいない。
誰の引き取り手も無かった、形見でもある婆ちゃんの三面鏡台だけは、いつもピカピカに磨いていて、俺の部屋の片隅に置いてある。
婆ちゃんには、親より世話になった。
その婆ちゃんより譲り受けた三面鏡台の前に、今、俺は、立っている。
「いよいよ、あいつの幻聴まで聞こえるようになったか……」
婆ちゃんの三面鏡台に映し出される俺の部屋の暗闇は、デジタル時計の文字盤だけを、黄緑色に光らせる。
『- AM2:30 -』
薄気味悪い数字だ。
かと言って、何も起こらない。
昔から、この時間帯は、丑三つ時とか言って、特に前後の10分間は、『出る』とか……。
婆ちゃんが、よく言っていた。
事件発生後から20年の歳月が、経ち。
瞳の『失踪宣告』は、確定している。
法的な戸籍上の手続きが、済んでみても……。
俺は、瞳が、まだ、生きてるんだって心の何処かで信じている。
だから、何も瞳が、幽霊になって出て来てくれることを、俺は、これっぽっちも、願って期待してるわけじゃない。
ただ……。未だに、信じられなくて。
「瞳……」
あいつのことが、好きだった。
瞳が、好きだったツーブロックの前髪をかき分ける。
けれど、俺の髭は、伸び放題で。
真夜中だろうと、とても自分の顔は、見れたもんじゃない。
見たくもない。
20年前の『瞳失踪』のあの事件以来……。
ずっと、俺は、学者志望だったけど……。
瞳の家族と俺の家族が、裁判で揉めて、志望動機は、弁護士へと変わった。
けど、それも、今じゃ挫折して。
それでも、何とか、雇われ司法書士として細々と生きている。
「明日は、事務所……休み……か」
俯いた顔を再び上げる。
婆ちゃんの形見の三面鏡台越しに、映し出された俺の顔が、窓から入って来た月明かりに照らされ、合わせ鏡の中を反射し合う。
「婆ちゃん……。瞳……」
俺は、合わせ鏡になった三面鏡台の中を覗きこむ。
まるで、俺が、見つめた視線の先が、無限に続くかのように。
世界が、どこまでも、暗闇の中を月の明かりとともに、続いてゆく。
その先。
一番、奥の視線の先。
鏡に映し出された、幾重にも重なり合っている、俺の部屋の世界の端に、小さな白い人影が、揺れ動いているのが、見えた。
「瞳……!?」
やがて、その小さな白い後ろ姿が、腰まで伸びた長い髪の毛をかき上げて、闇の中……。
無限に続く三面鏡台の奥の中の鏡の世界へと、消えてゆく。
「ちょ……っ!瞳……っっ!!」
カツン……。
手を伸ばした先……。
俺の指先が、三面鏡台の鏡の表面に当たって、止まる。
『- AM3:33 -』
鏡に映し出された、デジタル時計の黄緑色の文字盤。
(──俺は、一時間もの間、鏡の前に立っていたのか……)
おまけに、最後は、瞳の幻視まで、視えて。
俺は、いよいよ、頭が、おかしくなったのか……?
「アハハハハハハハハ……!!」
ヤバい……。
笑えて来た……。
俺は、どうかしている。
そうだ。今から、行こう。
瞳のもとへ……。
ちょうど、20年前のあの日の夜は、満月だった。
俺は、柄にもなく、瞳を誘ったんだ……。
満月を見よう……って。
夜景を見よう……って。
その前日の学校の帰り道。博物館で、瞳と良い感じになれたのが、嬉しくて……。
俺は……。
俺と瞳の実家の近くの山には、歴史と由緒ある古い大きな仏閣群が、ある。
景勝地でもあるそこには、夜景の美しさもあって、夜遅くまでロープウェイが、運行されている。
大晦日の年越しの夜は、尚更で。
一晩中、参道と山頂の仏閣群が、ライトアップされている。
その日まで、待てず……。
俺は、2001年12月19日。日没後。瞳を誘ったんだ。
満月を見よう。夜景を見よう……って。
「アハ! アハハハハハハハハ……!!
今から、行くんだ。瞳……。待ってて……!!」
俺は、黒いジャージ姿のまま、ハンガーに掛けてあった厚手のジャンパーを、おもむろに手に取り、裸足にサンダルのまま、勢い良く玄関を飛び出した。
夜明け前の町内は、まだ、暗く。
年代ものの古い木製の外灯が、未だに頼り無くカチカチと、夜道を照らしている。
途中、どこかの民家の犬に吠えられたが、知ったこっちゃあ無い。
ライターの炎が、ポーっとタバコの先端に触れて、火を灯す。
煙が、俺の頭の上の夜の星空へと、白く浮かび上がり、まるで、吸い込まれるようにして、消えてゆく。
「瞳は、消えたんじゃない。待ってるんだ……」
俺は、歩みを止めない。
まだ、薄暗い山頂を目指して。
山の麓の最初の山門へと、裸足にサンダルのまま、足を踏み入れた……。
夜明けを待たずして。
瞳のもとへ…。
昨日の雨で、泥濘む土の参道に、裸足にサンダル履きの俺の左足が、ぐちゅりと、音を立てる。
滑りのある赤土に、足を取られまいとして、最初の山門をくぐり抜ける。
荒々しくも、山の斜面に、無造作に押し並べられた、石段の遥か先の暗闇を、滑り落ちないようにして、睨む。
「待ってて……。瞳……。今、行くから……」
あの夜。
ロープウェイに、ふたりで、乗って、どこまでも続いた幸せな時間……。
取り戻したくて……。