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夜の殺人事件

 僕はまどろみの中で、荒れ狂う波に飲み込まれそうになっていた。


 意識が浮かび上がるたびに、波の合間から誰かの話し声がかすかに聞こえてくる。だが、すぐにまた別の波がやってきて、その声をかき消してしまう。


「何度でもやってくれ。目が覚めるなら、後で熱が出てもかまわない」

 ──探偵さんの声みたいだけど、言ってることがなんだかおかしくないか?


「そ……それはいかがなものかと……」

「確かに、他人が言うべきことじゃないな……」

 ──近くに、他にも誰かいるのか?


「チッ、では俺が代わりにやろう」

 ──声のする方を確認する間もなく、またザバーッという音が聞こえてきた。激しい荒波が、僕の身体を一気に飲み込んでいく。


 その瞬間、僕は驚いて飛び起きた。はぁはぁと息を切らし、何気なく額を拭うと、びっしょりと“冷や汗”をかいていた。

「悪い夢…だったのか? って、伯爵様!? それに、ど、どうして皆さんがここに?」


 ベッドの脇には、D.M伯爵と執事、それからリーズニングが並んで立っていた。リーズニングは水の入った洗面器を持っていたが、僕が目覚めたのを見て、それを無造作に放り投げた。洗面器はガンッと音を立て、床に転がった。

「起きたぞ」

「……」

 執事は黙ったままだったが、D.M伯爵はゆっくりと拍手をした。


 僕は自分の体がびっしょりと濡れているのを見て、ようやく気がついた。“冷や汗”なんかじゃない、リアルに水責めに遭っていたのだ。

「僕は長いこと眠っていたんでしょうか?」

 リーズニングは軽く舌打ちをすると、きびすを返して部屋を出ていってしまった。

 彼の代わりに、D.M伯爵が微笑んで答えた。

「いや、起きたらもうランチの時間だった、という程度ですよ」


 僕は服を着て顔を洗い、うがいをしてからダイニングへ向かった。警察の数が、昨日より増えている。それに劇作家とふたりのメイドの姿もない。僕は、リーズニングに尋ねた。

 探偵の回答は思わぬものだった。昨晩、デイジーがルースを毒殺しようとしたというのだ。デイジーはすでに警察に連行され、ルースは現在病院で生死の境を彷徨っている。劇作家は警察に必死に頼み込み、伯爵の口添えもあって今は病院でルースに付き添っている。僕については、どれだけ呼んでも起きなかったので、薬を飲まされたのだろう、ということだった。


「デイジーがルースを毒殺!?」

 僕は驚いて、パンを喉に詰まらせてしまった。波間で溺れる夢よりも、今聞いた話の方がもっと現実味がなかった。


 リーズニングとオークショニアもさすがに食欲がないようで、ふたりの皿はまったく減っていなかった。D.M伯爵だけが、執事の給仕の受けながらいつも通り優雅に食事をしている。


 昼食の後、D.M伯爵のホームドクターが僕の身体を簡単に診てくれた。特に問題がないことを確認した後、リーズニングが2階のルースの部屋を調べるというので、僕も一緒に行きたいと頼んだ。


「こんなことが起きてしまって心苦しいんです。もっと早く気づくべきでした。確かに、昨晩のルースの様子はちょっと変だった」

 リーズニングは自分の予定を崩され、爆発寸前の火山のようにふつふつと苛立っていたが、僕が昨晩ルースと話したと聞くと、仕方なくといった風に申し出を許可した。


 ルースの部屋へ行く途中、僕は探偵からデイジーが自首をしたのだと聞いた。逮捕後、彼女の持ち物から展示ホールの鍵が見つかった。それは彼女がこっそり複製したものだった。

 デイジーは警察の取り調べに対し、毒を盛ってルースを殺したのは自分だと罪を認めた。しかし、それ以降は一切語ろうとせず、沈黙を続けているらしい。

 警察は絵を盗んだのもデイジーだと考え、彼女の部屋を入念に捜査したが、まだ例の絵は見つかっていないそうだ。


「でも、どうしてデイジーが?」

 僕には到底信じられなかった。あの小柄で恥ずかしがり屋の可憐なメイドが窃盗犯とは、いや、それどころか殺人犯だなんてとても思えない。僕は、強い口調でもう一度尋ねた。

「探偵さん、本当にデイジーがやったんですか?」

 リーズニングは不機嫌な顔で何も答えず、目の前のドアを開けた。

「着いたぞ」


 ルースの部屋は、全体的にひどい荒れようだった。毛布は床に落ち、薬がその上に散乱していた。床の中心には、チョークで人型が描かれている。

 人型を見る限り、ルースはうつ伏せで倒れていたようだ。左手は胸の下、右手は前に伸び、人差し指がある場所を指している。

 僕はその方向を見た。そこには3冊の詩集が置かれた本棚があった。


 僕のためか、あるいは自身の情報整理のためか、リーズニングは昨晩の出来事について話し始めた──。

 昨日の夜、ルースの部屋の呼び鈴が突然鳴り止まなくなった。みんなが到着した時には、すでにオークショニアが扉を破って部屋の中に入っていて、昏睡状態に陥ったルースに大声で呼びかけていた。彼女の体勢に違和感を覚えたリーズニングは、劇作家がルースを抱きかかえようとするのを止め、急いで人型を書いて、部屋の情報を集めた。執事が手配した馬車と医者がすぐに到着し、ルースは病院に送られた。


「当時彼女の左手は胸元にあり、薔薇の花の刺繍が施されたハンカチを握っていた。右手は前方を指していて、さらに粉薬で“both”の文字が書かれていた」

 リーズニングはルースの指差していた本棚まで歩いていくと、1冊の詩集を取り出しパラパラとめくり始めた。


 僕はひらめき、口を開いた。

「もしかして毒を盛ったのはデイジーじゃなくて、彼女は何か訳があって自首したのでは? そしてルースは僕たちに犯人が誰かを教えようとしたのでは? “both”? 恐らく“2つの”という意味かな? そこにある本の中に、薔薇と数字の2に関係する一節がありませんか、そこに犯人の名前があるのかもしれません!」

 僕はリーズニングに自分なりの推理を伝えた。ところが、リーズニングは眉をつり上げ、疑問を投げかけてきた。

「お前らはどうして打ち合わせもなしに、同じ結論にたどり着けるんだ? それがマジョリティーの思考というものか?」

 どうやら、今述べた推理は僕だけが考えついたものではなかったようだ。

(そんなに的外れでもなさそうだけどなぁ……?)

 僕はばつが悪いのと同時に、納得できなかった。


「人を呼ぶ暇もなく発作が起こるような劇薬だぞ。彼女は犯人の名を残すために、一瞬でこんな壮大な謎解きを思いついたのか? 薔薇と数字を使ってヒントを作れるということは、本の内容を丸暗記しているということになるが?」

 リーズニングは呆れ顔でつぶやいた。

「俺がおかしいのか、それともお前らがおかしいのか」

 僕は最後のひと言については聞こえなかったふりをして、謙虚に教えを請うことにする。

「だったら、これは……」

 リーズニングはめくっていた本から目的のページを見つけ、僕に見せた。

「彼女は、あいつにある場所を伝えたかった」

「場所? あいつ? え、教えてくれないんですか?」 

 僕には、探偵の言葉の意味が理解できない。

 リーズニングはうんざりした様子で、眉間を軽く揉んだ。同じ質問をしたのは、僕だけではなかったようだ。

「お前らは、大脳をちょっと働かせることすらできないのか?」

 そこまで言われると、さすがに少し悔しくなってくる。


「偉大なる探偵さん、そんな風にすぐに苛立つのはよくないよ。今まで、君の性格に難があることは、誰も教えてくれなかったかな?」

 部屋の外から、からかうような声が聞こえてきた。


 振り返ると、伯爵が立っていた。僕はすぐに恭しくお辞儀をした。

 一方、相手がD.M伯爵だとわかっていたのだろう、リーズニングは振り返りもせずに調査を続けている。

「どうでもいい。他人からどう見られようと、何とも思わない」

「それで、何か新しい手掛かりは見つかったのかい?」


 僕ははっきりと感じた。伯爵の訪問は僕らと同じようにリーズニングを苛立たせたが、伯爵へのわずらわしさは、頭の回転が良くない一般人に対応する時の面倒くささとは、まるで種類が違うものなのだ。

「床下に隠し収納があった。中の物がなくなっている」

 リーズニングは暖炉のそばにひざまずいて、手袋をつける。それから僕の立つ場所を指差した。

 僕はさっと飛び退いて、足下をよく見た。すると確かに、一枚の床板の隙間が、他の場所とは少し異なっている。僕はその床板をめくりあげると、床下には四角い空間があった。深さは十分にあるが、残念ながら縦横の幅が盗まれた絵を入れるには小さすぎる。

 僕は肩を落とした。

「ミューズの絵をここに隠したのかと思ったのに」

「額縁の話をしているなら、ここにある」

 顔を上げると、いきなり正面から黒い物体が飛んできた。

 僕はどうにかそれをキャッチした。その小さな欠片は、どこからどう見ても手が汚れるだけの黒炭だった。僕は少し考えてからようやくリーズニングの言葉の意味がわかり、驚きで飛び上がった。

「なんだって? これが額縁? 泥棒は伯爵の絵を燃やしてしまったというんですか!?」

 思わず叫んでしまい、耳障りだったのだろう。リーズニングは眉間にしわを寄せ、僕を落ち着かせるように話し始めた。

「騒ぐな。絵はまだある。焼かれたのは額縁だけだ。そうじゃなかったら、わざわざ仲間に暗号を残す必要もないだろう。今回の窃盗犯は、なかなか賢いようだ。いくつもの抜け道を作っている。絵を運搬せずに荘園内に隠すため、最初から絵と額縁を分け、捜査をかく乱しようとしたんだ」

 リーズニングはしゃがみ込むと、再びブツブツと独りごちた。

「あるいは、そこまで深くは考えていなかったかもしれない。ただ単に、たとえひとりが捕まっても、もうひとりのために逃げ道を残せると……」

 最後の方は聞き取れなかった。僕はめくった床板を元に戻しながら尋ねた。

「じゃあ、この隠し収納は何を隠すためのものだったんですか?」

「お前宛の手紙を偽造した時の証拠に決まってるだろう。ふたりのメイドは、本来は屋根裏部屋の住人だ。それが、部屋が変わってしまい、処分できなかった便せんと服も引っ越しの時に運ぶ必要があった。警察に見つからないように、そっとな」

 リーズニングの言うことが、僕にはいまいち理解できなかった。

「ですが、ルースは一時的にここへ越してきただけですよ。どうして、仮の部屋に物を隠せる場所があると知っていたんです?」

「いい質問だ」

 リーズニングは少し皮肉っぽく答えると、D.M伯爵を振り返って僕の言葉を繰り返した。

「どうしてルースは、ちょうど物を隠せる場所のある部屋に引っ越すことができたんだろうな?」

 D.M伯爵も神妙な面持ちで、同じ文言を繰り返した。

「そうだね。ロジャースは、どうしてルースにちょうど物を隠せる場所のある部屋を用意したのだろうね?」

 リーズニングは「はんっ」と冷ややかに笑った。


 彼はD.M伯爵の相手をするのが面倒になったのか、立ち上がって発見した物の観察を始めた。

 僕が覗き込むと、探偵の白手袋の中には、便せんの断片と、ボロボロになった藍色の麻布が握られていた。

「こんな暑い時に、夜、暖炉を焚く必要があると思うか?」

 僕は考えた。こんな蒸し暑い天気の中、暖炉を焚いたのは暖を取るためではない、証拠を隠滅するためだ。

 D.M伯爵も察したように笑った。

「どうやら、偉大なる探偵さんは答えにたどり着いたようだね」

「“解錠”までにはあと2つ“カギ”が足りないが、ミューズの絵の隠し場所と犯人はわかった」


 その時、ちょうど執事がやってきて、1通の電報をD.M伯爵に渡した。

 D.M伯爵は封筒を一瞥し、2本の指で挟んでリーズニングに見せた。

「病院からだ。どうやら君の言う“カギ”のひとつが届いたようだね」

 窃盗犯と絵画について慌てて追及しようとしないD.M伯爵を見て、リーズニングは皮肉った。

「やはり、お前は焦って探そうとはしないんだな……」

 まるで何も聞こえていないかように、D.M伯爵は電報を確認すると、目を細めた。

「ルースが危険を脱したよ。意識が戻ったそうだ」


 午後になって、僕はリーズニングと一緒に病院へ向かった。


 ルースの病室に入ると、彼女は大きめのパジャマを着て、ぼんやりと天井を見つめていた。顔は青白く、唇からも血の気が引いている。まだぼうっとはしていたが、心はずいぶん軽くなったように見えなくもなかった。


 ドアの音を聞いて、彼女はまつ毛を震わせながら弱々しくこちらを見た。


 僕はベッド脇のテーブルにフルーツを置き、水を1杯注いだ。

「ルースさん、よくなってよかったよ──」

「絵はお前が盗んだんだろう?」

 リーズニングは単刀直入に聞いた。


 その言葉の直後、パリンッ! と、何かが割れる音がした。


 一瞬、時が止まったみたいに室内は静まり返った。


 僕は手に持っているコップを確認した──僕も探偵の唐突な言葉にショックを受けはしたが、コップを落としてはいない。予感があって振り返ると、入口のところに劇作家が立っていた。陶器の破片とこぼれたミートスープで、足元はぐちゃぐちゃだ。


 劇作家の顔には疲労の色がにじんでいた。しかしリーズニングの言葉を聞いた途端に、それは怒りの表情に変わった。彼は足早にやってくると、ルースのベッドの前に立ちはだかった。

「何を言ってるんです!? 絵画を盗んだことはデイジーが認めたんじゃないですか?」

 それを聞いた僕は、急にデイジーのことが可哀想になった。


 リーズニングは劇作家の怒りなど気にも留めず、椅子に座るといつも通りの冷たい声で続けた。

「今朝、郵便局がガイ・フォークス・デイの晩に手紙を配達した担当者を見つけ出したんだ。その配達人によると、事件の前日、メロディー荘園の方から顔を隠した人物がやってきた。その人物は金を出して、花火が始まった後に荘園に手紙を届けるよう指示したそうだ。相手は身元が分からないよう注意を払ってはいたが、配達人はその人物が藍色の麻コートを着ていたこと、女性の声だったことを覚えていた」

 探偵は、藍色の衣服の切れ端と便せんの断片、額縁の燃えかす等の証拠品が入った袋をルースのベッドの上に放った。

「これはお前の部屋の暖炉から見つけた物だ。服と額縁だけじゃない。便せんの燃えかすを偽の手紙と照合した結果、同じ紙だと判明した」

 リーズニングは足を組み、話を続ける。

「もし昨日の晩、お前がひと晩中暖炉に薪をくべ続けることができていれば、これらの証拠品はすべて灰になっていたかもしれないな。だが運悪く、お前は毒を盛られ倒れてしまった」

「何を言ってるんですか?」

 劇作家はかすかに唇を震わせながら、信じられないという表情で無意識にルースの方を振り返った。

「嘘だよね、ルース?」

 ルースはうなだれたまま、何も答えようとはしなかった。


 リーズニングは、さらにもうひとつ、証拠品の入った小さな袋を出した。中には1本の白い木綿糸が入っていた。

「盗まれたミューズの絵の真下にあったコンソールテーブル、そこに、展示ホールの物ではない糸が引っかかっていた。木綿でよれも少ない。つまり素朴で簡素な服の一部だろう。今朝、執事がお前の服をすべて確認し、花火の時に着ていたメイド服の裾にほつれを発見した。素材はこの糸と一致した」

 劇作家は何度か口を挟もうとしたが、結局、顔を背け黙り込んでしまった。

 ルースは目の前に置かれたふたつの証拠品の袋をぼんやりと眺めていたが、突然、何かにとり憑かれたようにそれらを掴み取ろうとした。しかし間一髪、リーズニングがさっと取り上げた。

 彼は立ち上がってドアの方に向かうと、ルースにひと言だけ残して去っていった。

「お前が認めなくても構わない。後で、もうひとりが認めるだけだ」

 ルースは脱力し、証拠品が置いてあった場所をそっと撫でた。その手にだんだん力がこもり、頭は掛け布団の中へ埋もれていった。

 話が長引くと思って僕が腰かけた途端に、リーズニングは部屋を出て行ってしまった。僕は慌てて立ち上がると、言葉を失っている劇作家とルースに急いで別れを告げ、リーズニングを追った。


「探偵さん、これからどこへ行くの?」

 病院を出て、僕がそう尋ねようとした時、他の声に先を越されてしまった。


「最後の“カギ”を取りに行く」

 リーズニングは答えた後に、僕の声ではないことに気づいて振り返った。すると、例の少女が僕の横で満面の笑みを浮かべていた。


「使命は果たしたの。エマ、あいつのところですっごい情報をもらってきたの~!」

 トゥルースは、9枚の写真をひらひらとさせた。


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