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農夫とへび

 リーズニングは、事件当日の劇作家の足取りをヒアリングしていた。証言をもとに行動の時系列を整理しながら、見逃した証拠がないかを探しているようだ。


 劇作家へのヒアリングが終わると、昼食の時間になった。

 満足いく情報を得られなかったようで、リーズニングは不機嫌そうだ。

 事件の証拠についてはひと通り証言を得ているので、僕はきっとミューズの絵に関する問題が残っているのだろうと考えた。


 食卓の重苦しい空気を破り、D.M伯爵がおもむろに話し始めた。

「そういえば、リーズニングのかつての友人に、芸術に詳しい方がいなかったかな? 彼には話を聞きに行かないのかい?」

 “友人”のことに触れられ、リーズニングとトゥルースの表情が強張った。二人は話し合いをした末、トゥルースが“友人”に会いに行くことになったようだ。


 一方の僕は、あまり余裕がなく、それ以上二人のことを気にかけていられなかった。なんたって、食後にD.M伯爵と話をする約束ができたため、そのことで頭がいっぱいだった──ついに伯爵に作品を読んでもらえることになったのだ。


 昼食後、リーズニングは当初の順番通りに執事のロジャースを呼び、ヒアリングを再開したようだった。一方の僕はというと、トランクいっぱいの原稿をすでに伯爵に渡しており、ドキドキしながら2階の書斎に向かった。


 階段のところで、僕はふたりのメイドに出くわした。デイジーがケガをしているルースに肩を貸しながら、部屋に戻ろうとしていたのだ。

 本来、メイドたちの部屋は最上階の屋根裏部屋だ。しかしルースが足をくじいて屋根裏に登ることが困難な状態だったため、伯爵のはからいで2階の客間に2人の部屋を設けていた。

 すれ違う時、僕は2人のメイドに軽く会釈をして、書斎へと入っていった。


 書斎の扉は閉じられていた。ノックをしたが反応がなかったため、少し待ってから、恐る恐る扉を開けた。

 中は薄暗く、豪華な展示ホールとは別世界のように、クラシカルで重厚な雰囲気が漂っている。

 入り口正面のデスクには、ランプの火が揺れている。

 D.M伯爵はランプの傍らに座って、静かに原稿を読んでいた。揺らめく灯りで、彼の姿には陰影がついて、体のラインが深く浮き彫りになっている。シャツのボタンは外れており、青白い肌があらわになっていた。


 僕はなんとなく目のやり場に困りながらも、大きな声で伯爵に挨拶をした。


 D.M伯爵は顔を上げると、僕を手招きしてくれる。


 その時初めて、伯爵がメガネをかけていることに気がついた。身にまとう雰囲気も、普段とはかなり違って見える。


「君のストーリーはどれもきれいごとばかりだ」

 D.M伯爵は手に持っていた原稿を机に置き、細長い指を上品に軽くそろえた。残念ながら、あまり気に入ってはもらえなかったようだ。

「行間に漂う人間賛美、人生哲学を説く多くの表現。血の匂いのする事件もなくはないが、最後にはいつも真善美……すなわち理想ばかりが追求される。最初の数冊と比べると、丸くなりすぎてしまったんじゃないかな?」

 僕は緊張気味に、慎重に尋ねた。

「やはり……ダメでしょうか?」

「そういうわけではないさ」 D.M伯爵はメガネを外して、眉間を揉んだ。

「ただ私が、こういう話が好みではないだけだ……だが、心配しないでくれたまえ。約束したからには、必ず出版を支援するよ。ましてや、今回は私が巻き込んでしまったからね、責任は取るつもりだよ」

 僕が何か言おうとするのを、伯爵は手を上げて遮った。

 そして、あごをさすりながら興味深げに言った。

「聞きたいことがあるんだ」

「どうぞ」 僕は即答する。

「君には身寄りがいるかい?」

 僕は一瞬、呆気にとられてしまった。質問の内容があまりにも予想外だったからだ。意図ははかりかねたが、とにかく答えるしかない。

「僕は祖父母に育てられました。幼い頃、両親は仕事が忙しくて、実際僕は親と数回しか会ったことがありませんでした。両親は事故で他界し、それからすぐに今度は祖父母が病死しました。それから、ずっと1人で生活しています。遠方の親戚については、もう数十年連絡を取っていませんから、よく分かりません」

「ご両親の事故については、知っているのかい?」

 僕は曖昧に首を振った。

「働いていた工場で火事があったようです。骨すら残らないほどのひどい火事で。でも、事故の原因はいまだに明らかになっていません。警察はとっくに捜査を終了してしまいましたし」

 D.M伯爵は少し考えてから、質問を不思議がる僕の前にティーカップを差し出してきた。

「伯爵様は、なぜこのようなご質問を?」

「ああ……」 伯爵はカップに紅茶を注ぎながら、少し笑う。

「なんとなく聞いてみただけさ。気にしないでくれたまえ」


 それから、僕たちは書斎で雑談を続けた。すぐ外では、みんなが事件で気が立っているはずなのに、この部屋の中だけは、別空間のように暖かく、そして落ち着いている。


 僕は、会話を通して徐々に理解した。伯爵は気前の良いお金持ちというだけではなく、文芸に対しても、普通の人間より圧倒的に造詣が深い。当初は、伯爵が適当に“摘んだ花”がたまたま自分だったのだと思っていた。気に入らない作家を支援するのも、ただ恰好をつけているだけだと。まさか伯爵のアドバイスから多くのインスピレーションを得ることができるなんて思ってもみなかった。彼の文学に対する知識は、僕より深いように思える。


 同時に、伯爵は幼い頃より英才教育を受けてきた人間なのだろうとも思った。先ほど伯爵に問われた自分の生い立ちと比べて、僕はある種、育ちの格差を覚えた。

「伯爵のように大きな一族にお生まれになるのは、本当にラッキーなことですね」

 そう口に出してしまってから、失礼だったのではないかと思って謝ろうとすると、意外にもD.M伯爵は大きな声で笑った。

「ラッキー? そうかもしれないね」

 だが、その口調からは喜びはまったく感じられない。僕は戸惑って、次に何を話せばよいかわからなくなってしまった。

 結局、伯爵が気まずい沈黙を破り、話を戻してくれた。


 いずれにしても、リーズニングの目下の調査対象に僕らは含まれていなかったので、たっぷりと話し合える時間があった。そのため、僕がこの書斎を出たのは、かなり時間が経ってからだった。部屋を出るとすぐに、劇作家が両ポケットに手を入れて廊下の壁に寄りかかっていた。僕を待っていたようだ。


 劇作家は、僕を見るなり顔をしかめた。だがすぐに、決意を固めた様子で、こちらに歩いてきた。そして、僕の手を軽く握り、一瞬口を開きかけたが……結局は何も言わず、きびすを返して行ってしまった。


 どうやら彼は、今朝の言動について謝りに来たのだ。ふたりとももう大人なのだから、本来であればこんな風に不器用なやり取りでなくてもよいはずだけれど……。


(まあ、とにかく謝りに来てくれて良かった。ということは、ジョナサンはリーズニングの推理を受け入れたのかな?)


 考えながら歩いていると、廊下にリーズニングが姿を現した。

 僕が部屋の前に到着した時、ちょうどリーズニングは「調査対象名簿」の最後のひとり、ルースを部屋に送り届けたところのようだった。僕は尋ねる。

「全員に話を聞き終わったんですか? 早いですね」

「ああ」

 リーズニングは軽く頷くと、懐中時計を確認し、指示を出した。

「15分後、展示ホールの前に集合だ。全員呼んでこい」

 そう言い残して、すぐに行ってしまった。

 僕は指示に従い、みんなを呼びに行った。その道中で思った。リーズニングは、人に上から指示を出すことに慣れているようだが、決して人を見下しているとは思えない。上も下もなく、ただ人は自分の命令に服従するものだと思っているフシがある。

(もしかすると、探偵さんはもともと軍人だったのかもしれないな?)

 僕はそう結論付けた。


 15分後、すべてのメンバーが展示ホールの前に集まった。今から昼間の調査で知り得た情報をリーズニングが時系列順に整理して説明するという。嘘をついている者がいれば指摘してほしいと彼は言った。

「では、始めるぞ」


 事件当日──。

 午後5時に、僕こと小説家とD.M伯爵はメロディー荘園で会うことになっていた。しかし、道が渋滞していたため小説家は遅刻してしまった。そこで、D.M伯爵は先に劇作家のジョナサンと面談をした。この時、メイドのルースとデイジー、執事のロジャースは厨房で食事の準備をしていた。オークショニアのリチャードは部屋で休んでいた。


 この部分については、誰も異議を唱えなかった。オークショニアだけ証人がいないが、大した影響はないだろう。


 6時半、小説家が荘園に到着。D.M伯爵は劇作家との面談が終わっていなかったため、小説家を展示ホールで待たせるよう指示した。ロジャースとデイジーが小説家を案内し、ルースは引き続き食事の準備をしていた。オークショニアは、相変わらず部屋で寝ていた。執事のロジャースは、小説家を展示ホールに案内すると、パーティー会場の設営のため庭園に向かう。メイドのデイジーは、クロークに残って荷物を整理していた。

 午後7時、展示ホール向かいのクロークでボヤ騒ぎが発生。この時、小説家はうたた寝をしていたが、騒ぎを聞きつけ、原稿が心配になってすぐに見に行った。

 同時に、ちょうど伯爵との面談を終えた劇作家は、1階の東にあるテラスで休憩を取ろうと思っていた。だがクロークの騒ぎを聞きつけ、現場に駆けつける。すでに火は消された後だった。

 そして火災の原因について……これは2人のメイドの証言に食い違いはないようだった──。

 当時、デイジーはクロークの整理をしており、別行動をしていたルースと鉢合わせたらしい。ルースが地下室へ通じるドアから突然飛び出してきたようだ。デイジーは驚いてよろけてしまい、その拍子に、ルースが手に持っていた蝋燭がテーブルクロスに触れ、火が燃え移ってしまったのだ。


「ルース自身の証言によると、彼女が地下室に行っていたのは気分が悪かったから。薬品が保管してある倉庫に薬を取りに行ったとのことだ」

 リーズニングの話を聞いたルースは、単独行動だと誤解されないためか、慌てて付け加えた。

「あの時は、執事のロジャースさんにお伺いを立ててから地下室に行きました。ロジャースさんが証明してくださるはずです!」

「はい、私が許可を出しました。ルースは体が弱く、よく立ちくらみを起こします。食事の準備をしている時、彼女の体調が悪そうでしたので、薬を取りに行かせました」

「だが、お前が地下室で何をしていたかについては、誰も証明できない」

 リーズニングは容赦なく、痛いところをズバリと突いた。

「そ、それは……」

 まともな反論をすることはできなかったが、それでもルースは言った。

「私は本当に薬を取りに行っただけです!」

「まあいい。続けるぞ」

 リーズニングは、ルースの説明を冷ややかに打ち切った。


 事件発生後、劇作家は傷の手当てをするためにルースとともに屋根裏部屋へ。小説家は、デイジーにも手当てに行くよう促した。デイジーは、その場を離れると、まずロジャースにクロークのボヤ騒ぎについて報告に行った。ひとりその場に残って片付けをしていた小説家は、その時、廊下で物音を聞いた。


 リーズニングが、物音まで証言として扱っているとは思わなかった。僕は軽く笑って頭を掻いた。

「ははっ、あれは大したことではないと思いますよ。僕の聞き間違いだった可能性もありますから」

 それを聞いて、リーズニングは眉間にしわを寄せた。

「どんなに些細なことでも、疑わしい点があればないがしろにはしない。すべて俺が判断する」

 僕は一喝されてしまい、顔から火が出るほど恥ずかしかった。そして、二度と余計なことは言うまいと深く反省した。


「その物音についてだが……」

 リーズニングは、語りながら廊下の突き当たりまで歩くと、ガラス戸を開いた。戸の向こうは、劇作家が休もうと思っていた東側のテラスだ。

「このガラス戸が開いていたかどうか、覚えている者はいるか?」

 僕は、メイドたちと顔を見合わせた。そんな些細なこと、たとえ覚えていたとしても、うろ覚えが関の山だ。

 すると、執事がD.M伯爵に目配せをしてから、頷いた。

「私がクロークに到着した時には開いておりました」

「間違いないな?」

「間違いございません。暑かったので風を通してもよいかと思い、私は敢えて戸を閉めませんでしたから」

 執事は答えた。

「なるほど」 

 リーズニングは身を乗り出してテラスの下を覗くと、そこから体をそらして今度は上を確認した。

「よし、わかった」


 “わかった”……確信めいた響きだった。やましいことがある者にとっては、爆弾を投下されるほどショックな一言だろう。しかし、彼の表情から何かを読み取ろうとしても、彼は氷のような無表情を貫いている。一体何が“わかった”のかは、全くわからないままだった。


 時系列の整理は続く。

 7時10分、執事がクロークに到着し、掃除を始めたそうだ。もう少しで原稿を失うところだった小説家は、トランクを展示ホールへ持っていき、その後しばらくはホールにこもっていた。

 同時刻、2階ではオークショニアがようやく起きて、中央の休憩室に来ていた。彼はルースに話があり、7時に待ち合わせをしていたはずだった。しかし、いくら待っても彼女は現れなかった。

 すると、劇作家がルースを連れて屋根裏部屋に上がるのを目撃して、2階の北東の角にある自分の寝室に戻った。


「昼間にオークショニアの部屋を見に行った。今はもう見る必要はない」

 リーズニングは話を中断して、なぜかみんなにそう伝えた。

 僕はオークショニアを盗み見た。彼は思いつめたように拳を握りしめ、暗い顔をしている。何を考えているのだろうか。


 劇作家はルースを部屋に送った後、それ以上の助けを遠慮されたため、1階のテラスに戻って紅茶を飲んでいた。7時半頃、2階で言い争う声が聞こえ急いで上がってみると、オークショニアとルースが揉めていた。ふたりはケンカ別れをしたらしい。ルースが泣いているのを見て、劇作家は執事が呼びに来るまで、ルースのそばで慰め続けた。

 オークショニアは、怒りに任せてドアを閉めて出て行き、先にひとりでパーティー会場へ向かった。

 一方で、傷の手当てが終わったデイジーは執事に呼ばれ、庭園で一緒にパーティーの準備をすることになった。2人の夜の行動については、互いが証人である。


「あの時、お前たちは何を言い争っていたんだ?」

 リーズニングが尋ねたが、このことについては、あの場にいた人には、ある程度の予想がつく。ふたりは恋愛のことでケンカをしていたのだ。リーズニングがわざわざ質問をした意図がわからなかった。

 オークショニアは「ふんっ」と悪態をついた。

 一方、ルースは頭を垂れ、口ごもる。

「プライベートな……ことで」

「俺に二度も同じことを言わせるな」

 リーズニングは無表情のまま言った。

 一同は、多かれ少なかれルースに同情した。痴話喧嘩の内容など、人前ではしにくいに決まっている。だが不運にも、リーズニングはその気持ちを慮ってくれるほど優しくはない。

 彼が何度か問い詰めると、ルースはついに嗚咽を漏らしながら泣き出してしまった。

 リーズニングはルースの顔をじっと見て、その涙が本物か偽物かを確かめている。

 すると、劇作家がルースの目の前に立ち、リーズニングに冷たく言い放った。

「探偵さん、女の子が言いたくないことを強制してはいけません。どのみち……恋愛で傷ついたに違いないんですから」

 リーズニングは馬鹿を見るような目で劇作家を見た。眉を寄せて辺りを見渡し、周りの人間たちも劇作家と同じ考えだということを確かめたのか、呆れたようなため息をついた。

 リーズニングの脳内では、すでにある推理が成り立っているようだった。彼は状況に見切りをつけたのか、ルースへの質問をいったん飛ばし、話を再開する。


 7時40分、執事が建物に戻って客人たちをパーティーへ誘った。会場を離れる際、庭園に到着したばかりのオークショニアと偶然出くわした。この点に矛盾はない。その後、執事はまず1階の展示ホールに僕……つまり小説家を呼びに行き、その後、2階の休憩室にいた劇作家とルースを、最後に書斎にいたD.M伯爵を呼びに行った。

 その後、一同は前後してパーティー会場を訪れた。


 8時10分、花火の途中で小説家は怪しい速達を受け取る。家が火事になったということで、小説家はみんなにろくに挨拶もしないまま、執事の鍵を借りて展示ホールのトランクを手に取り、荘園を後にした。


 事件当夜のいきさつをすべて共有し、一同はひと息ついた。するとリーズニングが突然あることを言い放ち、みんなを驚愕させた。

「だが犯人の本当の行動は、ここから始まったんだ」


「小説家……つまり、犯人のスケープゴートが去った後のお前たちの証言をまとめようか。メイドと執事は食事を片付け、客は各自の部屋に戻ったとなっている」

 そう言いながらリーズニングはルースの方を見た。

「どうして足をケガしたんだ?」

 ルースは泣き止み、か細い声で答えた。

「さっきも言ったはずです。あの夜は具合が悪くて、夜、部屋に上がろうとした時にめまいがして、階段から落ちてしまったんです。皆さんが見ていました」


 リーズニングが、いよいよ推理を展開するのだろうとみんなは思ったことだろう。しかし、彼は推理の代わりに、予想外のひと言を言った。

「今日はここまでだ。解散していいぞ」


「え?」突然の解散命令に、劇作家は戸惑いの声をあげた。

「これで終わりですか? 続きは? 探偵さん、さっき“始まったばかりだ”って言いませんでしたか?」

「それは事実だ。だが全員の前で問い詰めたところで、犯人が白状すると思うか?」

 リーズニングは手袋を取ると、閉店の合図のように軽くはたいた。

「ですが──」

 僕も問いかけようとしたが、すぐに遮られた。

「くどいぞ。今日はお開きだ」


「偉大なる探偵さん、休憩かな?」 

 そこへD.M伯爵が悠々とやってきた。

 リーズニングは、「無駄話はごめんだ」とでも言いたげに、うんざりした顔を見せた。

「フッ。しかし、せっかくあれだけお調べになったのに、このまま続けなくてよいのかな。今晩にでも、もし何か予想外のことが起きたら、どうするつもりだい?」

 リーズニングは動きを止めた。

 彼は伯爵を見た。D.M伯爵はあごをさすりながら眉を寄せ、いかにも心配そうな顔をしている。だが、それ以上は何も言わず、少し笑って去って行った。

 執事はその後すぐに、リーズニングに言った。

「寝室は3階でございます。私がご案内申し上げます」


 3階だって……? 少し気になることがあり、僕は口を挟んだ。

「全員が2階に泊まるわけではないのですか?」

 執事は落ち着いた声で答えた。

「旦那様のご指示でございます。探偵様は特別なお客様ですので」


 その夜、僕はなかなか寝付けなかった。いっそ、起きてもう一度原稿を修正しようと思い立ち、休憩室でコーヒーをいれることにした。すると偶然、足を引きずっているルースに遭遇し、いくらか話をした

 ルースと個人的に話すのは初めてだったが、なかなか性格のいい子のようだ。優しくおおらかで、デイジーと比べると明るい。それに確かに美人だ。劇作家が惚れ込むのも無理はない。


 ルースはホットコーヒーをいれ、僕に差し出してきた。


 おいしい! 僕は、コーヒーを飲んで大絶賛した。すると、ルースは、少し切なそうな顔をした。心労が重なっているのだろう、心配だ。僕は、彼女とオークショニアの恋愛問題を思い出し、おずおずと口を開いた。

「君、大丈夫? もし何か辛いことがあるなら、誰かにしゃべっちゃうといいよ。口に出せば少し楽になるかもしれないし。こんな遅くにひとりで考えていたら、それこそ行き詰ってしまうよ」

 ルースは僕の話を聞いているのかいないのか、ぼんやりと僕のコーヒーを見つめている。そして、少し表情を緩ませたかと思うと、まったく訳のわからないことを言い始める。

「ええ、わかっています……夜のテンションというか、白黒の分別がつかなくなってしまって……どのみちもう逃げることもできませんし」


 僕はルースが何を言っているのかわからなかったが、特に追及しようとも思わなかった。お互いよく知る仲ではないのに、根掘り葉掘り聞くのも思いやりとは言えないからだ。


 もしかしてコーヒーの飲み過ぎで耐性がついてしまったのだろうか。1杯飲み干したのに、その後すっかり眠くなってしまった。

 僕は床についた。この24時間の混乱を思い起こすと、思わずため息が漏れる。

 それにしても僕は運が悪すぎる。1日1日をなんとか乗り切っているけれど、自分の期待通りになったことなど一度もない。


 ……そして、この夜も、ついには僕が期待するような平和な夜にはならなかった。まさかD.M伯爵の冗談が不吉な予言になってしまうなんて、一体誰が予想しただろう──。

 その鍵はルース。彼女は不幸にも「今晩の予想外」をもたらしたのだ。


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