虚言
D.M伯爵は階段を下りてきて、視線をリーズニングから僕へと移した。途端、礼儀正しいスマートな笑顔は、心配そうに相手を気遣う表情に変わる。
「君が無事でよかった! 昨夜、警察は突然証拠がそろったと言って、君に逮捕状を出したんだ。私には有力な証言があるわけではなく……止めることもできず、ひと晩中とても心配していたんだよ」
伯爵の予想外の態度に、僕は目を見開いた。
「伯爵様は……僕が絵画泥棒ではないと信じてくださっているのですか?」
「もちろんさ」 D.M伯爵は即答した。
「私は君の作品を読んだことがある。あのような文章を書ける人間が、どうして物を盗んだりすることができよう? もちろん、私はあの場にいた全員を固く信じている。皆、私が“選んだ”お客様なのだからね」
D.M伯爵は、ホールにいた他の人たちにも目を向けた。
「絵を盗んだのはきっと、夜に紛れて外部から侵入した泥棒だろう」
“あの場にいた全員”は、それぞれ異なる表情を見せた。
リーズニングはあり得ない冗談でも聞いたかのように、冷ややかに鼻を鳴らして顔を背けている。
一方、僕は感動していた。伯爵に向かって何度も頷き、強く拳を握った。
「伯爵様、信じてくださってありがとうございます。ぼ、僕は……僕の命を懸けてミューズの絵を取り戻してみせます!」
リーズニングは、更にうんざりした表情となった。
「ふんっ。お前たちはせいぜい“命を懸けて”いればいい。じゃあな」
吐き捨てて出て行こうとする探偵に、D.M伯爵は無言で目尻を下げた。早足で彼に追いつき、声をかける。
「もちろん、それには偉大なる探偵さんの迅速な調査が必要だ。事件にもパーティーにも、君は欠かせない存在だからね」
リーズニングはまっすぐ前を見たまま、冷静に返した。
「何をすべきかは、よくわかっている。お前の助言は不要だ」
「それはよかった。ともかく……」
D.M伯爵は愉しげな表情で、リーズニングの顔を覗き込んだ。そして、明るく言った。
「……結末を、楽しみにしているよ」
リーズニングは足を止める。そしてまるで挑戦に応じるように、D.M伯爵を見据えた。
「夜明けは必ず訪れる。夜が終わり、空が明るくなった時、お前が泣いているか笑っているか、俺も楽しみにしている」
言葉の裏に隠された意味は、当事者たちにしかわからないものだ。
ふたりの大物の謎めいた会話は、僕にはさっぱりわからなかった。
一方は絵画を盗まれた被害者で、もう一方は犯人を捕まえようとしている名探偵。普通なら、ふたりは味方同士のはずだ。だが、僕の目には、今のところ彼らは敵対しているように見える。ふたりが交わしたやり取りについても、真意は別のところにあるような気がした。
(もしかして伯爵様には、何か秘密でもあるのだろうか?)
僕が考えを整理する間もなく、一同は展示ホールに到着した。
見張りを担当していた警官が、昨日から誰も展示ホールへは入っていないことを告げる。それから、執事が鍵を取り出して、扉を開けた。
リーズニングは執事の手中にある鍵を見て、唐突に言った。
「事件当日の施錠について確認したい」
「かしこまりました。昨日、小説家様がお越しになる前まで、展示ホールはずっと施錠されておりました。午後6時半、小説家様がご到着され、旦那様より展示ホールにお通しするよう申しつかりまして、解錠いたしました。その後はずっと鍵は開いておりました。8時に花火が開始される予定でしたので、私は7時40分にお客様方を呼びに向かいました。そして、小説家様に声をかけた後、展示ホールを施錠致しました。小説家様には先に会場に行って頂き、私は他のお客様を呼びに参りました」
執事はよどみなく答えた。リーズニングが確認する。
「7時40分に施錠した時、絵はまだあったのか?」
「ございました」 執事は肯定した。
「花火の途中、8時10分頃でございましょうか。小説家様は手紙をお受け取りになり、急いで帰宅されることになりました。しかし、トランクを展示ホールに置いておられたので、私は彼に鍵をお渡しして、トランクを取りに行くようお伝えしてから、馬車の手配に向かいました」
僕は執事の話に補足する。
「僕はトランクを取ってすぐに帰ったんです! あの時、確かに展示ホールを施錠しました。急いでいたから、鍵をかけるのに時間を取られてイライラして……だから、はっきり覚えています! でもその時、絵があったかどうかについては、火事のことばかり考えていたので、その、気に留めませんでした」
執事は僕の話に頷いた。
「展示ホールは確かに施錠されておりました。小説家様に馬車を手配した後、私も戻って確認致しましたので」
すると、リーズニングが話に割り込んだ。
「鍵がかかっているかどうかは確認したが、開けて室内を見たわけじゃないということか?」
執事は、後悔しているようだった。
「ええ。私は室内には入っておりません。ですので、その時点で絵があったかどうかはわからないのです。花火のショーが終わった後、旦那様は書斎に戻ってお仕事をされておりました。午後10時近くになり、夜も遅いのでお休みになるようお伝えしましたところ、寝る前に絵をご覧になりたいとのことで、ふたりでホールに降りて参りました。その際に、絵がなくなっていることに気づいたのでございます」
リーズニングは、話をまとめた。
「つまり、小説家がホールにトランクを取りに戻った時か、あるいは小説家の帰宅後から午後10時までの間に、誰かが絵を盗んだ……ということだな」
トゥルースが、僕の方を見てくる。
「話を聞く限り、本当にあなたが盗ったみたいなの、小説家さん」
僕は泣くにも泣けず、笑うにも笑えずに複雑な顔をするしかない。
「お嬢さん、こんな時に冗談はやめてくれよ……」
「──だけど、後者の仮説は絶対に成立しない」
そう口を開いたのは、劇作家だった。
劇作家はリーズニングの仮説に対し、真剣に考えている様子だ。
「小説家さんが去ってから別の人間が絵を盗んだと言いましたよね。でも彼が部屋を出た後、扉には鍵がかかっていたんですよ。他の人は入れなかったはずだ。だから、やっぱり彼が一番怪しいんだ」
劇作家が僕を指差す。
リーズニングは劇作家の意見に答える気はなさそうで、ひとり、展示ホールの中へと入っていった。
みんなも続いて中へ入ろうとしたが、トゥルースがさっと前に出て入口を塞いだ。
「はいは~い、容疑者と真犯人の皆さんは立入り禁止なの。証拠を消そうなんて思わないでね。言いたいことがあるなら、こちらでどうぞ」
みんなは口々に「自分は犯人じゃない!」と文句を言ったが、彼女はまるで指揮者のように両手を交互にシッシッと振って、彼らの声を無視した。
劇作家がまだ語り足りない様子で、拳を口にあて、咳払いをした。展示ホール前で足止めされているみんなの視線が、彼に集まる。彼はルースの方をチラッと見てから、いかにもそれらしく話し始めた。
「考えてみてください。展示ホールの鍵を持っているのは執事と伯爵様だけです。鍵をかけた後に、他の人がどうやって部屋に入ったと? 残るは東側の窓ですが、あれは二重窓になっていて外側ははめ殺しです。だから窓からの侵入も不可能なのです」
言い終わると、彼は再びルースを盗み見た。しかし、どうやら彼女は上の空で、劇作家の話を聞いていない様子だった。彼は少しガッカリして、そそくさとまとめに入った。
「つまり、小説家さんが展示ホールを出た後に、誰かが侵入するのは不可能なんです。絵は花火のショーが終わる前に盗まれたに違いありません」
劇作家の口調は落ち着いていたが、オークショニアの方が僕に対して敵意をむき出しにした。
「そうだ! その通りだ! やっぱりこの男が盗んだんだ!」
彼は膝を打ち、劇作家の話を全面的に支持した。本当に話を理解しているのか、あるいは理解したふりをしているのかは微妙なところだが。
「違います、本当に僕じゃないんです!」
何の証拠も持たない僕は、もう何度言ったか分からないセリフを繰り返すしかない。否定する以外に、僕にできることは何もなかった。
「もう一度よく思い出して欲しいの。小説家さんがトランクを取りに鍵を持って展示ホールに来た時、絵はまだあったのかしら?」
他の人に比べ、トゥルースの口調は友好的だった。
彼女は、自分を導き助けようとしてくれている。ありがたいことだが、本当に何ひとつ思い出せないのだ。
「とにかく急いでて、気にする余裕もなかったんだ。だから本当に何も気づかなくて……」
「ハハハッ。気づかなかっただと? 自分が絵を盗んだから詳しく話す勇気がないだけじゃないのか?」
オークショニアが大声であざ笑う。
「どうして盗みなんか! ぼ、僕は……」
結局何も言い返せない。僕はただただ助けを求めるように、その名をつぶやいた。
「リーズニング……」
展示ホールの中では、リーズニングが証拠探しを行っていた。
彼は様々な場所を覗き込む。入口の錠前、二重窓の内側、外側……最後に片膝を立てて暖炉の中まで。外野が静かになったあたりで、彼はようやく話をする気になったのか、推理への集中を中断して僕らの方を振り向いてきた。
僕を含め、皆がリーズニングの意見を待っていた。
リーズニングはぽんぽんと灰をはたいて、立ち上がった。
「話は終わったようだな?」
彼は、一同の視線をそれぞれの証拠の方へと誘導するため、ホール内を移動した。
「まず錠前に問題はなかった、破損もない。格子窓は確かにはめ殺しだ。内からも外からも開けられないし、こちらも破壊された形跡はない。最後に暖炉だが、人が通り抜けるのは無理だろうな。つまり、いったん施錠すれば、確かにこのホールに入ることはできないだろう」
「うわぁ、密室なの」
トゥルースがクスクスと笑った。
僕は、これのどこが自身の潔白を証明する話なんだろうと思い、慌てて探偵に声をかけた。
「リーズニング?」
だが、リーズニングは僕の方を振り返ることなく、再び執事に質問した。
「Mr.ロジャース、このホール、入口の鍵は全部でいくつある?」
執事はありのままに報告する。
「3本です」
それを聞いた劇作家が、驚いて執事を見る。
「なんだって? 3……」 これは彼が口にした推理とは異なっていた。
「どうして聞かれるまで言ってくれなかったの?」
トゥルースが恨めしそうに文句を言う。
「もしこっちが聞かなかったら、鍵は2本だってミスリードするところだったのよ?」
リーズニングが手で彼女を軽く制し、執事に話を促す。
「旦那様が1本、私が1本、スペアキーが1本でございます」
執事は展示ホール内の、1人掛け用のソファーを指した。正確にはその隣、鉢植えがあるところだ。
「スペアキーは、あちらの鉢植えの中にございます。念のため、私は毎朝、鍵があるか確認をしております。当然、昨晩以降は警察の方がこちらの警備をしておりましたので、今朝は確認できておりませんが」
執事の話が終わると、トゥルースはすぐに鉢植えのところへ行った。そして、房になって咲いている花をかき分けようと手を伸ばした時、リーズニングに頭を小突かれて止められた。
トゥルースが文句を言う間もなく、探偵は執事に尋ねた。
「スペアキーはふだん鉢植えのどの位置に、どのように置いている? 具体的に教えてくれ」
執事は身振り手振りを交えて話した。
「鉢の縁から平行に差し込んで、そのまま土の上に置いています。花が目隠しになりますので、あえて隠してはおりません」
「えっ? それはおかしいわ!」
トゥルースは驚嘆の声をあげた。どうしてリーズニングが彼女を止めたのかがようやくわかった──鍵の位置と、執事の説明がまったく一致していないのだ!
「鍵は、土の上じゃなくて、花の枝に引っかかってるの」
トゥルースは鍵が落ちてしまうのを恐れて、ゆっくりと後ろに下がった。
「誰かが鍵を動かしたの?」
リーズニングは手のひらを上に向け、執事に「来い」と手招きをした。
執事が近づき、首を伸ばして花の間を見ている。すると、確かに鍵は今にも落ちそうな状態で、花の枝に引っかかっていた。この状態からすると、上から落としたのは明らかだった。
確認を終えると、執事は落ち着いた調子で言った。
「これは確かに、私の置き方ではありませんね」
執事の言葉を受け、その場にいた全員に衝撃が走った──。
僕がスペアキーの存在を知っていたかどうかは置いておくとしても、もし本当に僕が花火の間に戻って盗みを働いたのだとしたら、その時僕はすでに執事の鍵を持っていたのだ。限られた時間の中で、どうしてスペアキーを探す必要があるだろう?
ここまで来れば、誰にでもわかるはずだ。そう、よこしまな心を持つ別の人物がやはり存在しているのだ。
短い沈黙を破り、トゥルースの笑い声が響いた。彼女は入り口前で膝をついている僕のところにまでやってきて、肩を叩いた。
「おめでとう、小説家さん。あなたの犯人の可能性は百分の一くらいまで下がったの」
「つまり、誰かがスペアキーを使って絵を盗んだ。そして、その誰かはこの中にいるということですか?」
ルースは動揺しているのか、みんなの顔を次々と見やると、デイジーと繋いでいた手に力を込めた。だが次の瞬間、彼女はその手をいきなりパッと離した──デイジーにも、鍵を盗む可能性はあると思い当たったように。
それを見ていた劇作家が口を開いた。彼は眉間にしわを寄せ、この事態を引き起こしたリーズニングをにらみつける。
「いいえ。小説家さんの疑惑はまだ拭えませんね。スペアキーが動かされた形跡があるから何だというんです? 鍵は部屋の中にあったんだ。それなら鍵を持っていった人は外から鍵をかけられないじゃないですか。そうでしょう! それとも、その人の手がゴムでできていて、扉の隙間に手を突っ込んで、鍵を鉢植えに返すことができたとでも?」
「だから最初から密室って言ってるの」
トゥルースは頬杖をついた。
「密室?」
「だから、今から探さなきゃいけないのは、犯人が外から室内に鍵を戻した証拠なの!」
まるでものすごく面白いことを発見したかのように、トゥルースは目を三日月型に細めた。
「おい、待て。たったこれっぽっちのことで小説家の嫌疑を完全に晴らして、端から存在しない密室に話を戻す気か? お前ら、子供の遊びじゃないんだぞ!」
オークショニアは眉を寄せ、疑うように片目を細めて探偵を見ている。
「もう……」
トゥルースは人差し指で頬を軽く叩きながら、オークショニアをにらみつけた。
「いつもバカな質問をしてくる人がいるから、リーズニングは他の人に手掛かりの説明をするのがどんどん面倒になるの。それで、心を閉ざして誰とも話さなくなっちゃうのよ、こんな風にね」
オークショニアはトゥルースの皮肉に、怒りで肩を震わせている。しかし、玄関ホールでの一件を思い出したのか、黙りこくった。
一方のリーズニングは、まさに彼女の言う通り、周囲の雑音には一切構わず、自身の世界に浸って手掛かりを分析している様子だった。
扉の外の喧噪をシャットアウトし、盗まれた絵画の輪郭がうっすらと残る壁の前で、手であごをさすりながら思考の海へと潜っている。
「ここには、もともとミューズの絵が飾ってあったんだ」
──いつの間にかリーズニングの後ろに、D.M伯爵が立っていた。
リーズニングは振り返ることなく、うんざりしたように目を覆った。それから、怒りを抑えた堅い口調で短く言った。
「言ったはずだ。お前らは、外で待てと」
D.M伯爵は不思議がった。
「うん? どうしてだい? まさか私まで疑われているのかな? 自分で自分の物を盗むとでも?」
「他の人間ならあり得ない。だが、お前の場合、無いとは言い切れない」
リーズニングはD.Mを一瞥することもなく、目分量で絵画のサイズを測っている。
「君は人を疑いすぎだよ、偉大なる探偵さん」
D.M伯爵は、呆れて首を横に振った。
「ここは私の家だ。私はただここの主として、君が現場以外にもヒントが必要なんじゃないかと思って来ただけさ」
「現場以外のヒント? なるほど」
リーズニングは頷き、ようやくD.M伯爵に視線を合わせた。
「言ってみろ」
D.M伯爵はステッキを握り、肩をすくめた。
「君から訊いてくれよ」
おおかた面倒に思ったのだろう。リーズニングはイライラした様子で、早口で質問を始めた。
「絵はどこから来た?」
D.M伯爵の回答も早い。
「買ったのさ」
「俺は絵の出所を訊いている」
D.M伯爵は微笑んだ。
「残念ながら、どこから来た絵かはよくわからないのだよ。作者が誰かすら知らないんだ」
リーズニングは、回りくどい話をするほど辛抱強くはない。鋭く目を細めて、低い声を放つ。
「お前のことはよく分かっている。もし本当にこの絵の価値を知らなければコレクションに加えるはずがない。それも一度ならずな」
リーズニングの言わんとすることを理解したのか、D.M伯爵は口角を上げた。まるで、心の中で何かをあざ笑っているかのようだ。D.M伯爵の表情を見て、リーズニングの眉間のしわはさらに深くなった。
しかしすぐに、D.M伯爵はもとの穏やかな表情に戻った。彼は肩をすくめると、自信を持って答えた。
「どうしてコレクションに入れたかって? それは、あの絵が美しいからさ。君は人間の美的感覚が芸術の価値を決めることを認めなければならないよ。それに、美的感覚にもいろいろあるということもね」
「……」
「他にも質問はあるかな、偉大なる探偵さん?」
D.M伯爵はずいぶんと積極的だ。
「絵の写真を持ってこい」
一方、探偵の質問はすでに命令と化していた。
「ああ、あいにくだがそれはないんだ。しかし、あの絵がどんな絵だったか、君は見たことがあるのでは?」
D.M伯爵が答える。
「写真はないんだな?」
リーズニングはいよいよ不機嫌になってきた。ほとんど脅すようなトーンで、念を押す。
D.M伯爵はまるで動じず、笑って理由を述べた。
「そうとも、本当にないんだ。人と時間を写真の中に永遠に閉じ込めるのは、ある種の芸術さ。でも、芸術作品の場合、写真に閉じ込めた瞬間にその美は失われてしまう。そうだろう?」
どんどん緊迫していくふたりの様子は、扉の前の人々の注目を集めた。
いつの間にか、僕らは固唾をのんで、ふたりのやり取りを見守っていた。
D.M伯爵はハハッと笑って扉に背を向けると、後ろ手で執事に合図を送った。執事は指示を受けて、ホールの扉を閉じてしまった。
──これ以上言い争っても無駄だと感じたリーズニングは、再び室内を調べ始めた。
視線を足元の床に落とした時、奇妙な痕跡が彼の目に飛び込んできた。彼は何も言わずしゃがみ込む。先程までD.M伯爵に見せていた苛立ちは徐々に消え、推理の集中力が蘇ってくる。
彼は、絨毯の毛の根元に、蝋燭の“ろう”がポタポタと垂れた痕跡を見つけた。
リーズニングは立ち上がり、“ろう”の跡に沿って歩いた。そしていくつかのルートを推理して、ひとつひとつを確認していく。それから、ミューズの絵の飾ってあった場所に引き返すと、先程と同じように考え始めた。
D.M伯爵は、今度は彼の思考を妨げることなく、傍らでただ静かに見守っていた。
しばらくして、探偵の目が鋭く光った。彼は再びしゃがみ込んだ。
D.M伯爵も近寄っていって覗き込む。探偵は、壁際に置かれたコンソールテーブルの縁、金メッキが施された透かし彫りの部分から白い糸のような物をゆっくりと引き抜いた。
「そんなに嬉しそうな顔をして、何か発見があったようだね、偉大なる探偵さん」
D.M伯爵は近くのソファーに腰を下ろし、何気なく尋ねた。
リーズニングの顔に喜びの表情は見て取れない。黙々と指で白い糸を擦り、材質を確認してから、短く答えた。
「ふたつのルートがある」
「つまり君は……」
リーズニングの言葉はあまりにも簡潔で、他の人間が聞いてもその真意はわからないだろう。だが、D.M伯爵はどうやら理解したようで、眉尻を上げて驚いた。
「人が多くても、君には朝飯前ということか」
リーズニングはひざまずいて白手袋をはめると、白い糸をそっとつまんでから、顔を上げた。そして、逆光の中で気だるそうソファーにもたれているD.Mを見やった。
「今回は珍しくお前の周りで“赤”を見なかったが、少なくとも俺が想像していたほど退屈ではなさそうだ」
“赤”というワードを聞くと、D.Mは探偵に気付かれぬよう薄く笑った。
「私が死神とでも言うんじゃあるまいし、どうして行く先々で死人が出ると思うんだい?」
──自分で自分の首を絞めたがる人間がいる場合は別だけどね。でも、その場合、私に罪はないだろう……?
D.Mは、口から出かかったその言葉を、そっと飲み込むのだった。