宿敵との再会
人間は、他人に降りかかる災難は気にしないものだ。
──その災難が、自分の親しいものに降りかかった、という場合を除いて。
その日、事件現場にいた人々の間に緊張が走った。理由は、ふたりの探偵が、牢獄にいたはずの僕を連れて荘園に現れたから。
昨日の犯人が僕でないとすれば、ここにいる全員が容疑者になってしまうから、みんな気が気でなくなる、というわけだ。
僕の再訪がみんなに知れ渡ったのは、荘園に足を踏み入れる直前、僕たちを見つけた何者かが遠巻きに叫んだためだ。
「現場に戻ってきたのか? この恥知らずの泥棒め!」
大きな罵声は、荘園全体にその事実を知らしめた。
探偵たちが手続きをする間、僕はトランクケースを握りしめたまま、何も言わずに待っていた。もし自分が潔白だとしても、僕ひとりでは状況に対してなすすべがない。
リーズニングは警察に交渉をしていた。警察内にコネがあるのか、それとも探偵として信頼があるためか、あっという間に僕の逮捕を保留する約束をとりつけた。警察も、さっさと僕を逮捕して事件を片付けてしまいたいだろうが、彼の疑問点を先に調査することになったのだ。
「ったく……。何でこの絵はこう問題ばかり起こすんだ。そんなに良い絵でもないだろう? この痩せっぽっちがよ!」
現場のリーダーらしい太った刑事がブツブツとこぼした。
リーズニングは他の容疑者の供述調書を読んでいたが、その愚痴を聞き逃さず、片眉を上げる。
「他にもミューズにまつわる事件があったのか?」
「いいや、別の事件だ。その中の容疑者のことだよ」
太った刑事は近寄ってくると、短い指で記録ファイルをトントンと叩いた。
「ほらよ、こいつだ」
彼が指し示したのは、18歳ほどの痩せた青年だった。体の線は細いが清潔感があり、はつらつとした雰囲気と、落ち着きが同居したような佇まいである。どうも女性にモテそうだ。
リーズニングは写真を見て、「劇作家のジョナサンか」と漏らした。僕が話していた三角関係の中心人物だと察しがついたのだろう。
太った刑事は語る。
「こいつは劇作家のジョナサンだ。金持ちのぼんぼんだったが、親父が博打にハマっちまって、家の財産を全部持ってかれたのさ。俺は当時の事件を担当してたから、資料で見たことがある。それでな、家にある金目の物を売り払った時、一番高い値がついたのが、なんとミューズの絵だったそうだ! すごい額だったらしい」
そこまで言うと、太った刑事は庭園の様子を見てから、改めてリーズニングに囁いた。
「こういう金持ちってのは、どこまでいっても金がなくなんねぇのかな? 本当に嫌になっちまう」
リーズニングは刑事の愚痴には応えなかった。顔も上げず劇作家ジョナサンの資料を読みながら、話題を事件に戻す。
「それで、誰がその絵を買ったんだ?」
「おぉ、やっぱ俺たちは天才同士だな。俺も、絵の購入者が怪しいと思って、特別に調べを入れたんだ」
太った刑事は、神妙な面持ちで少し間を置いた。
リーズニングも資料を読むのをやめて、刑事を見る。
「だがな」刑事は気まずそうに笑う。
「購入者は見つからなかったんだ!」
「……」
「なんだよ、その目は。俺のせいだってのか?」
刑事は不服そうである。
「競売を主催したオークショニアの客は全員セレブで、顧客情報も厳重に管理されてたんだ。しかしまあ、俺は今回盗まれた絵がジョナサン家にあった絵と同じだと思っていたんだが、まさかまったく別のミューズの絵があったとはなぁ」
刑事は近くにいた部下に手招きすると、もう1冊、別のファイルを持ってこさせた。
「それにな、手掛かりがないわけでもない」
彼はページをめくり、ひとりの中年男を指差した。
「ここを見ろ、リチャードって男だ。以前ジョナサン家のミューズの絵を取り扱ったオークショニアさ」
リーズニングは写真を見てつぶやいた。
「こいつはD.Mの家に泊まっているオークショニアじゃないか」
刑事は自分に問いかけられたと思ったのか、大きく頷く。
「その通り! いいか、ミューズの絵に関わった者同士が、長い時を経てここに集まり、今度は別のミューズの絵の事件に巻き込まれたんだ。これがただの偶然だと思えるか? この絵画盗難事件には裏がある」
刑事はさも意味ありげな余韻を残しつつ、得意げに言った。
「どうだ驚いたか兄弟。俺の話は」
リーズニングは手に持っていたファイルを閉じた。そして刑事の胸を軽く叩き、その場を後にした。
「お前こそ、現代の名探偵だよ」
そのセリフには全く感情がこもっていなかったが、刑事としても、彼の冷めた褒め言葉には慣れっこなようだった。刑事は、探偵のたくましい後ろ姿に手を振りながら言った。
「おい、捜査中はちゃんと記録を取れよ~! 前みたいに、名前と線ばっかりじゃ、誰も読めねえからな~!」
リーズニングは、気だるそうに片手をポケットから挙げて応えた。忠告を受け入れる気なんか、さらさらないとでも言うように。
リーズニング一行が荘園の庭へと姿を消すと、太った刑事は立ち上がって、軽く尻をはたいた。
「もういいぞ。ひと晩中、働きづめだったからな。あとは新人の“ひよっこ”どもに荘園の外を見張らせるだけでいい。俺たちは戻るぞ」
すると、若い警官が心配そうに手を挙げた。
「しかし先輩……」
「そう心配するな」
若い警官の隣りにいた別の男が、笑いながら話を遮る。
「あの名探偵が来たんだぞ? この事件は解決したも同然さ」
「え? あ、あの男ってそんなに信用できるんですか」
「“信用できるか”だって? さてはお前、新入りだな? “リーズニング”のことも知らないなんて。前に世間を騒がせたゴールデンローズ劇場事件くらいは知ってるだろう。あれは、彼が解決した最初の事件だ。彼の功績はまだまだあるぞ……」
メロディー荘園内。
リーズニングとトゥルース、僕の3人は、庭園を抜け、ひと気のある場所に着いた。……周囲から、疑いと敵意のまなざしが向けられている気がする。鋭くて冷たい氷のナイフが喉元に突きつけられるかのようだ。さっさと罪を認めて頭を下げろ、とでも迫られているような圧力を感じた。
玄関ホールに入ると、ふたりのメイドがこそこそと話しているのが見えた。ルースはまたケガをしたようだ。ひとりでは歩けないらしく、デイジーが彼女を支えていた。ルースはベラベラとお喋りをしていたが、先にこちらに気づいたデイジーがルースに耳打ちすると、ルースもハッとしてお喋りを止めた。
その傍らで、僕を見つけたオークショニアがあざ笑うように言った。
「どこに隠れていたかと思ったら、探偵に助けをすがったのか? 見苦しい真似はやめて早く自首をしろ。そうすりゃ多少は名誉を取り戻せるんじゃないか?」
オークショニアの態度はひどく冷たい。昨夜やたらと親しげに話しかけてきた暑苦しい姿とは、まるで別人のようだ。
一方、劇作家も、遠巻きにこちらを見ていた。他人の問題に口を出すのは趣味ではなさそうに見えるが、彼にとって、今回の事件は自身の尊敬するD.Mに関わる問題だ。強い口調で口を開く。
「伯爵の信頼を得ておきながら、君は恩を仇で返したのか? 僕は君と文芸について真剣に語り合いたいとさえ思っていたんだ。本当に見損なったよ!」
彼の言葉には、心底落胆が感じられた。もしかしたら、おろおろと探偵の後ろを歩く僕の姿が情けないものだから、余計に腹が立っていたのかもしれない。
僕の前を歩いていたリーズニングも、僕が数々の罵声を受けてただ俯いているのを気にしたのだろうか、声をかけてくる。
「釈明しないのか?」
確かに、本来は相手と同じように感情的になる場面なのだろう。だが、僕の頭はここにきて意外にも冷静だった。
「今は何を言っても無駄でしょう。真犯人さえ見つけてもらえれば、噂や誹謗中傷は間違いだったとわかりますから」
リーズニングは頷いた。
「偽の手紙を受け取った時に今の半分でも理性が残っていれば、今ごろ、こんなことにはならなかっただろうにな」
だが僕らの判断とは裏腹に、トゥルースが声をあげる。
「盗難に遭った本人は焦ってないのに、あなたたちは随分と焦ってるのね。調査はまだ始まってないの。必ず、真犯人を見つけ出してみせるの」
「これ以上何を調べるというんだ! 泥棒はこいつだろう! 自作自演で家の火事をでっち上げて絵を持ち去った。それが動かぬ証拠だ!」
オークショニアが怒鳴り散らし、周りの人間もその通りというように頷いた。
トゥルースは挑発をするように、後ろ手に伸びをする。
「ふぅん、そんなに必死になって。あなたたちは何を怖がってるの? もしかしてやましいことでもあるの……」
「どこの誰にやましいことがあるって言うんだ!」
「過剰に声を荒げる奴が一番怪しいの」
トゥルースは、小馬鹿にするようににっこりと笑う。
「このクソガキ!」
恥をかかされたオークショニアは、尻ポケットから硬く巻いた巻き尺を取り出すと、彼女に振りかざした──
──しかし、振り上げたはずの彼の手は、枷をはめられたように動かなくなる。次の瞬間、オークショニアは強烈な悲鳴を上げた。
「ウアァ──ッ!」
リーズニングが、オークショニアの手首をひねり上げたのだ。オークショニアは、まるで彫像のように固まってしまった。腕はピクリとも動かないらしく、痛みをこらえているせいで表情も強張っている。
「イタタタタッ! 折れる折れる! 放せ! 放せって!」
オークショニアは暴言を吐く余裕もないのか、必死にあがくばかりだった。
やっと拘束を弱めてもらい、安堵のため息をついたが、すぐにぎょっとする。彼が持っていた巻き尺はいつの間にかリーズニングの手に渡っていたのだ。
オークショニアは仰天し、顔がまたたく間に赤くなる。
「か、返せっ!」
オークショニアが異常なほど激昂したのを見て、リーズニングは眉をひそめた。心の中に、ある推理が芽生えたようだ。
探偵はオークショニアに投げ技を決め、大人しくさせると、落ち着いて巻き尺を調べ始めた。
床に倒れこんだオークショニアは、心配げに袖をまくって掴まれた手首を見た。青あざができている。
玄関は静寂に包まれた。みんながリーズニングにおびえていたのだ。僕への皮肉や罵声もすっかり静かになっている。
僕は認めざるを得なかった。
時には、言葉よりも、暴力が有効なのだ。
リーズニングは巻き尺を伸ばして長さを確認したり、2本の指で挟んで擦ったりしながら、最後に要領を得ない質問をした。
「これは普通に買えるものか?」
オークショニアはしばし呆気にとられていたが、腕を抱えつつ、歯切れ悪く答える。
「そいつは最高強度の革でできた滅多に無い代物だ。だが買えるに決まってる! じゃないと俺にも手に入らないだろ!」
「買えるのか、ならいいんだ」
あっさり返すと、彼はオークショニアの両手に巻き尺を巻き付け……──いきなり勢いよく引っ張った!
「おいっ──!」
腕を締め上げられたオークショニアの張り裂けそうな叫びが、ホール内にこだました。
リーズニングの馬鹿力は、ついさっき誰もが思い知ったばかりだ。彼が全力で引っ張れば、巻き尺など簡単にちぎれてしまう……僕も含め誰もがそう思ったはずだ。しかし、巻き尺は依然として探偵の手の中にあった。
「最高強度の革というのは本当らしい。これなら大人も十分に持ち上げられるだろうな」
リーズニングは、意味深に独りごちる。この声が届く何者かに、かまをかけているようでもあった。だが僕の頭の中は疑問符でいっぱいだ。恐らく、みんなも同じ状態だろう──そう思って辺りを見回したが、オークショニアだけ、やけに顔が青ざめていた。
先程痛めつけられたから……とはまた違う、怯えたような表情だった。
リーズニングは巻き尺を丁寧に巻き直すと、青ざめたままのオークショニアに返す。
「破損はしていないが、もし心配なら、俺が新しい物を購入して弁償しよう」
そう言うと、彼はこともなげに彼から離れた。
「ぷっ──」
トゥルースは後ろを向いて、必死に笑いをこらえている。
僕は心の中でつぶやいていた。
(オークショニアは、どうして巻き尺をとられたことに対してあんなに反応していたんだろう……)
リーズニングは玄関を調べ終わったらしく、そのまま展示ホールの方へと歩き出した。
トゥルースもまた、早足で彼の後ろにつきまといながら、楽しそうに辺りを見回している。
「そういえば、探偵さんと伯爵様は昔から親しいのよね?」
「別にそんなことはない」
リーズニングは否定したが、彼女はお構いなしという様子だった。
「……伯爵様と親しい、そんな探偵さんでも、正式にメロディー荘園に入るのはこれが初めてなの」
その時のことだ──
「──正式とはなんだい? もしかして、過去にこっそり入ったことがある……とでも言うのかな?」
気持ちの良い笑い声が、僕を含め、一同の視線を奪った。
らせん階段を登った2階部分に、執事を連れたD.M伯爵が姿をあらわしたのだ。その優雅で洗練された雰囲気は相変わらず。大切にしていた絵画を盗まれた人間とはとても思えない。
「伯爵様」と、そこにいた全員が彼に一礼した。
事件から一夜明け、みんなが伯爵を仰ぎ見る目には各々の思惑が生まれていただろうけれど、対してD.M伯爵は全員に向けて平等に、かつ堂々と順番に視線を送った。
やがてその眼差しは、最後の1人……リーズニングの冷たい視線と交差する。D.Mの瞳の奥にサディスティックな色がにじんだ。彼はゆっくりと口角を上げて微笑んだ。
「久しぶりだね、偉大なる探偵さん」