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命の綱

「つまり、こういうことね。その手紙は罠で、家に帰ると火事なんて起こってなかった。訳もわからず家に入ると、なぜか警察に通報されていた。ふむふむふむ、分かったわ。それで、あなたの盗んだ絵は、今どこにあるの?」

 少女の声が、冷え切った部屋に響いた。

 時刻はすでに深夜だった。狭い室内には蝋燭の灯りだけが頼りなく揺らめき、少女が僕の正面に座っている様は、さながら取調室のような雰囲気だ。

「僕は盗んでいません! 何度も言ってるでしょう。本当なんです! 僕は伯爵に支援して頂こうと思ってた人間ですよ。盗みなんて働くわけないじゃないですか!」

 僕は両手で自身の頭を抱えた。髪はぐちゃぐちゃに乱れてしまっている。

 それだけじゃない。目は血走り、あごには無精ひげが伸び始め、シャツはしわくちゃで薄汚れている。

 僕は完全に憔悴しきっていた。

 ひと晩も経たずにこんな状態になってしまうとは、にわかには信じられないくらいだ。

「警察が来た時に窓から逃げたのは、警察にコネがないからです。監獄なんかに入れられたら、本当に出られなくなってしまう……それで、いよいよ逃げ場がなくなった時に、トランクに探偵事務所の名刺があったことを思い出したんですよ……」

 心身ともにすっかり疲れ果てていた。家に帰って眠りたい。しかし外では警察が捜査網を張っている。その事実に思い当たると力が入らず、そのまま僕は机に額を軽く打ちつけた。

 少女は「キャッ」と驚いたような声を上げ、それから奥の部屋に向かってわざとらしい咳払いを2回した。何かの合図のようだったが、奥の部屋からは何も聞こえてこない。

「僕が伯爵の絵を盗むわけないじゃないか。僕がどれだけ伯爵の支援を望んでいたか知らないでしょう。その僕が、どうして……」

 僕は、机に額を何度も打ちつけながら言った。胸にあるのはもはや絶望のみで、怒りすら湧かない。同じ言葉をうわ言のように繰り返すだけだ。

「あなた方は探偵じゃないんですか?どうか助けてくださいよ。ここが僕の最後の希望なんです。それとも“オルフェウス探偵事務所”さん、あなた方まで僕をもてあそぶんですか?」

 

 カチャ──

 鍵の開く音がして、奥の部屋に通じるドアが開いた。その隙間から、一筋の光が差し込んでくる。溺れる者は藁をも掴むというが、僕にとってそれはまさに金色に輝く藁のように見えた。

 僕は無意識に立ち上がり、光の差す方を見た。

 少女は、ドアが開いたのを見て微笑むと、僕を軽く支えてくれた。

「分かったわ。さあ中へ入って、探偵さんが助けてくれるから」

 僕は訳が分からず呆然としてしまう。

「じゃあ、今のは……」

「いつもやってる確認なの。だって、毎日すごくたくさんの人が来るでしょ。あたしたち探偵だって、誰かれ構わず手伝うわけじゃないの。ましてや、あなたは指名手配犯だから、嘘をついてないか先に確認する必要があったの」

 そう言って、少女はドアを開けた。

 

 そこは、レトロな雰囲気の部屋だった。取調室風にレイアウトされた先ほどの部屋と違って、柔らかな光に満たされ、全体に温もりが感じられる。

 僕が中に入ろうとすると、男の低い声が聞こえてきた。

「足元をよく確認してくれ、物を踏むなよ」

 椅子の高い背もたれをこちらに向けていて、声の持ち主の姿は見えない。大声でもなく口調も落ち着いていたが、その声にはどこか逆らえないような威圧感があり、僕は足を宙に浮かせたままピタリと止まってしまう。

 そのまま周囲を見回すと、ずいぶん広い部屋なのに、辺り一面に紙と写真、それにダーツの矢が散乱していた。

 さらによく見ると、それらは絨毯の上に適当に置かれているわけではないようだった。紙には、それぞれ単語が書かれている。恐らく探偵だけが分かるようにまとめてあるのだろう。写真の方は、ダーツの矢で固定されている。それらの位置関係にも何か意味があるようだ。

 正面には大きなデスクがあった。そこには、紙やペンよりも多く、ダーツの矢が整然と並んでいた。

 僕はとりあえず、泥だらけの靴を脱ぐことにする。そして、床に散乱する物を避けながら、慎重に奥へと進んだ。

 少女もまたデスクのそばへと行き、椅子に座っている人物に満面の笑みを向け、明るく声をかけた。

「ほらね、この人は嘘をついてないって言ったでしょ。今回の賭けはエマの勝ちなの。だから次の案件はエマに選ばせてほしいの」

 椅子に座っている人物は、ため息をついた。まるで、わがままな妹に呆れる兄のように。

「俺はお前と賭けをした覚えはない。もういい、勝手にしろ」

 そう言うと、彼の座っていた椅子がゆっくりと回転し、こちらに向き直った。

 僕はついに、探偵の姿を目にした。それは、精悍な顔立ちの青年だった。

「コホン、それでは始めます」

 少女はわざとらしく咳払いをしてから、声をひそめて探偵に何かを囁いた。探偵はうんざりした様子でため息をつき、片手で顔を覆う。

 そんな探偵に構わず、少女は背筋をピンと伸ばして僕の方を向き、もったいぶって話し始めた。

「市内随一の探偵事務所、オルフェウスへようこそ。改めて自己紹介をさせて頂きます。あたくしは探偵の“トゥルース”、そしてこちらはあたくしの超~~すっごいボス、名探偵“リーズニング”でございます。お客様、あなたのご依頼は、あたくしどもが承りました」

 これは、恐らくこの少女が考えた大仰なフレーズなのだろう。いつもなら丁寧にリアクションをするところだが、今はとてもそんな気にはなれなかった。

 一方、「リーズニング」と呼ばれた探偵は悩ましく眉間を指で押さえ、できるだけ気配を消しているようだった──どうやら、彼はこの前口上にはいささかの不満があるものの、言っても聞かないので少女の自由にさせている、ということらしい。

「人間観察が好きなんだな」

 唐突なひと言に、思考が中断した。いつの間にかリーズニングが、僕の方をじっと見ている。彼の鋭い視線に、ひととおりの分析をされてしまったように感じた。

 僕は妙に焦ってしまい、彼に向けて頭を下げた。

「すみません!」

 リーズニングは気のない表情で、机の上のダーツの矢をいじっている。

「謝る必要はない。別に悪いことじゃないだろう」

 僕は額の汗を拭って、必死に心を落ち着かせようとした。

「小説を書くのに、人の感情や仕草を観察しなければならないので、知らないうちにクセになっているんだと思います」

 彼は淡々とダーツの矢をいじり、「ああ」とだけ言ってきた。それからしばらく黙っていたが、僕の情けない表情を見てか、少し慰めるようなトーンで口を開いた。

「どうした? 今回の一件で魂でも抜かれたか?」

「すみません、わざと黙っていたわけじゃないんです。おふたりが力になってくださるのは本当に嬉しいです」

 そうは言ったものの、僕の声はどんよりと沈んでいた。

「でも、D.M伯爵がもう僕の作品を読んでくれないだろうと思うと、自分の作品がもう二度と日の目を見ないのかと思うと、僕はもう……」

 最後の方は、もはや嗚咽混じりになってしまう。

 リーズニングは眉をひそめ、渋い顔になった。恨み言ばかりの人間は嫌いだと言わんばかりに。

「D.Mか。もし、あいつに嫌われたと思っているなら、それは大間違いだ。もともと、あいつは感情すら出し惜しみするケチな人間だ。他人に対しても、自分に対してもな」

 僕は思わず、「え?」と声に出して驚いてしまう。

 リーズニングは単刀直入に言った。

「だから、そもそも、あいつはお前のことなどまるで気にもかけていない。お前もそんな風に──」

 トゥルースが慌ててリーズニングの袖を引っ張り、小声で注意をした。

「あのね! 慰めになってないの! はっきり言いすぎなの!」

「……」

 リーズニングは仏頂面になっている。彼がこれ以上機嫌を損ねないよう、僕は慌てて話の流れを戻すことにした。

「本題に戻りましょう。探偵さん、知りたいことがあれば何でも訊いて下さい。絶対に隠し立てはしませんから」

 リーズニングはトゥルースの方を見た。その目は、「コイツは思ったほどひ弱じゃなさそうだぞ」と語っていた。

 それから探偵は、指の腹にダーツの尖った先端を触れさせつつ、口を開いた。

「事件のいきさつは、さっきこいつがあっちで聞いたので大体分かっている。具体的な証拠については、明日メロディー荘園に行ってからだな。残る問題は3つだ」

 トゥルースは3本の指を伸ばして、ニコニコしながら話を引き継いだ。

「1つ目。あなたがメロディー荘園で観察した人たちの人間関係を教えてほしいの。

 2つ目。トランクの中身をあたしたちに見せてほしいの。

 3つ目。メロディー家の紋章に見覚えがあるって言ってたけど、それを頑張って思い出してほしいの。どういうところに見覚えがあったの? もしかしてどこかで本当に見たことがあるの? もちろん、3つ目についてはゆっくり考えて大丈夫よ」

「え、それだけですか?」

 僕は少し驚いた。探偵事務所なら、もっと細かく話を聞いた方がいいんじゃないだろうか。

「本当にそれだけでいいんですか?」

 リーズニングが、僕をじっと見据えてくる。

「お前は、俺に弁護士をやってほしいのか?」

 僕は言葉に詰まってしまう。

「いえ……」

 そうしている間に、トゥルースが僕にホットミルクを出してくれた。それから目を瞬かせて言った。

「安心して。あたしたちの手で、絶対に真相を白日の下にさらすから」

 僕は受け取ったカップの柄を握りしめた。カップの熱さよりも、複雑な思いで手が震えている。

「そんな風に言われたら、ますます心配になるよ」

 ……

 

 必要な情報を得た後、ふたりの探偵は小説家を2時間ほど寝かせてからメロディー荘園に向かうことにした。

 

 部屋を出る際、小説家はデスクの反対側の壁一面が手掛かり用のボードになっていることに気がついた。写真や新聞記事などが所狭しと貼られ、赤い線があちこちを繋ぐように引いてある。その情報量は目を見張るほどで、ロンドン全体の捜索網が壁に濃縮しているみたいだった。

 すべてのネットワークの中心に、1枚の写真が留められていた。その写真の人物はというと……

 小説家が目を凝らして見ようとした時、トゥルースが彼を部屋から追い出した。

 

 小説家を別室に案内し、ふたりの探偵だけが部屋に残った。リーズニングはダーツの先端を、黒い名刺に勢いよく突き刺した。そして、一度じっくりと見直してから放り投げた。名刺はくずかごの中に見事に入った。

 それは、D.Mが“誤って”小説家の手紙の中に入れたものだった。

「またお前か、D.M」

 リーズニングは、小説家が書いた荘園の客人たちの人物相関図に目を落とす──。


 メイドのデイジーは劇作家のジョナサンに片想いをしていて、劇作家の方は、メイドのルースを射止めようとしている。一方、ルースはオークショニアとの間に何かしらのわだかまりがあるようだ。今のところ、彼女が怒っているということしか分かっていない。

 

「すごい。伯爵の周りはいつも賑やかなの。現実の方が舞台よりも面白いわよね?」

 人物相関図を興味深そうに覗き込んだトゥルースが、芝居がかった調子で言った。

 考え事をしていたのか、リーズニングは少しの間黙っていたが、やがて口を開いた。

「東の国に“漁夫の利”ということわざがある。シギとハマグリが争い、共倒れになったところを、第三者である漁夫が利益を得たという話だ」

「フフッ、またホワイトさん[2] から聞いたんでしょ」

 トゥルースはクスクスと笑った。

「お前は賭けがしたいんだろう? だったら、やろうじゃないか」

「配役を予想するの? 誰がシギで、誰がハマグリかを賭ける? それとも、誰が漁夫かを? だったらエマは、当然──」

「違う」

 リーズニングはトゥルースの話を遮った。

「今回の賭けはな、シギとハマグリが集まったのは、果たして偶然か必然か、ということだ」


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