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ヒツジ

 ホールの扉を押してみたが、びくともしない。どうやら施錠されているようだった。

 ──もしかすると、火事の時に焦って自分で閉めちゃったのかもしれないな。

 僕は深く考えず、クロークにいる執事に扉を開けてもらうようお願いしに行った。

 執事は、ちょうど絨毯を交換しているところだった。どうやら手が離せないらしく、少し離れた場所から僕に言った。扉に鍵をかけたわけではないので、ドアノブを回せば開くはずだ、ただし、扉がかなり重いので力がいる、と。

 実際、彼の言う通りだった。

 僕は展示ホールで鉢植えがそばにあるソファーに戻り、原稿を抱きしめてようやく一息つく。

 すると、先ほど出会った劇作家の青年のことが思い起こされた。

 

 劇作家のジョナサン。彼の名前は知っていた。

 文筆を生業とする者で、傑出した脚本で名を馳せるジョナサン一家を知らない者がいるだろうか? 彼らは天才を輩出する、文豪の一族なのだ。

 しかし、おごれる者も久しからず。

 今の当主がギャンブルで身を滅ぼし、先祖が積み上げてきた功績と名声は、すべて泡となって消えた。

 ジョナサン一族の御曹司も、今は麻の服を着て倹約しているらしい。貧しさを隠して無理に体面を保っている様子が、落ちぶれた自分と同じくらいみっともないものだったとは。

 これは世間の噂にすぎないのだが、ジョナサン一家の没落の原因は芸術の女神に不敬を働き、神の怒りを買ったせいでインスピレーションが降りてこなくなった、という話も聞いたことがある。

 顔を上げると、ちょうどあのミューズの絵と目が合った。思わず、言葉が口をついて出ていた。

「もし本当に芸術の女神がいるなら、神に与えられたインスピレーションが導く先にあるものは、果たして成功なのか、それとも心の腐敗なのだろうか?」

 そこで、扉のノック音が聞こえてきて、僕の思考は途切れた。

 執事が現れ、ぐるりとホールを見回してから、会釈をしてくる。もう片付けが終わったとは、さすがである。

「お客様、何か損失はございませんでしたか?」

「こちらは何も。ただデイジーさんがケガをしてしまったかもしれません」

「ご無事で何よりです。私どものメイドが大変失礼を致しました。お客様を驚かせてしまいまして」

「いえいえ、ご心配なく」

 二言三言、言葉を交わすと、執事は出て行った。彼はどちらかというと、ホールを見回るために訪ねてきたのかもしれない。でも、それも理解できる。この部屋には貴重品が多すぎるのだ。

 

 僕はもう眠る気分にはなれず、トランクから原稿を出した。

 何度も推敲を重ねた文章を、もう一度隅々までチェックしていく。するとそのうちに、上階から言い争うような声が聞こえてきた。けれど僕は二度と外に出るまいと心に誓い、気にかけないことにした。唯一の宝物は、この腕の中にあるのだ、他のことなどどうでもいい。

 

 夜8時近くになって、執事がまたホールにやってきた。南の庭園で、皆で一緒に花火を見ましょうと、彼は言った。

 

 僕は万一のことを考えてトランクを持っていこうとしたが、執事がホールの鍵を持っているのを見て、思い直す。荷物を抱えたままでは誰かと話す際の邪魔になるだろうし、置いていくことにした。

 

 執事は展示ホールを施錠し、僕に先に行っていてくださいと、パーティー会場を指差した。荘園の入口に面した庭園で、建物の南側に位置する場所だ。

 他の客人にも知らせに行くと言って、執事はその場を後にした。


 メロディー荘園に到着した時は、遅刻したせいで周りを気にする余裕がなかった。改めて庭園を見回すと、もう夜になってはいたが、輝く月が美しく咲き誇る花々を照らしていた。

 きっとここの主人はスズランが好きなのだろう。数々の花の中で、スズランが一番多く植えられていた。でも、軽々しくそれに触れようとは思わなかった。スズランは美しいが、確か花にも茎にも毒があるはずだ。

 先へ進むと、奥に見える簡易建築物、ガゼボの辺りに、パーティー会場が見えてきた。庭園を流れる小川の水面に、並ぶキャンドルの灯火がゆらゆらと映っている。花火までまだ時間はある。僕は夜のひんやりとした空気の中をゆっくり歩き、幻想的な庭の景観をしばし楽しんだ。

 庭園のレイアウトや雰囲気、端々に至るまで、主人のこだわりを感じる。

 少し離れた場所では、デイジーが忙しない様子で、食事の用意に追われていた。

 彼女の他に、もうひとり僕よりも早くパーティー会場に到着している人物がいた。その人は、こちらの挨拶を待たずに話しかけてきた。

「君が伯爵の言っておられた作家さんだね? どうもどうも。私はリチャードだ。オークショニアをやっていて、数日前からこちらで世話になっているんだ」 

 リチャードと名乗った人物は、初めて会ったにも関わらず、まるで長年の友人でもあるかのように、親しげに肩を組んできた。

 僕は若干引きつつも、ぎこちない笑みを返す。なんとか自然を装って、肩の手をどけようとする。

 しかし、オークショニアの手はがっちりと僕の肩を掴んでいて、逃れることはできなかった。それどころかさらに体を寄せて僕の首に腕を回し、まくし立ててきた。

「伯爵は、君に展示ホールを自由に見学させたんだって? すごいじゃないか! あの部屋は伯爵と親交の深い私だって、そう何度も入ったことはないんだよ。何も壊してなどいないだろうね、君? あそこのコレクションは、どれかひとつでも壊したら、君自身を売ったって賠償はできないからな」

 僕は作り笑いを浮かべた。このオークショニアとは気が合いそうにない。とはいえ、彼の忠告は確かに正しい。もしかして、単にがさつなだけで案外いい人なのかなとも感じる。こういうタイプは、裏表がある人間よりは、安心して付き合えるかもしれない。

 さらに、オークショニアはくだらないゴシップをしゃべり始めた。ネタの肝心な部分に差しかかると、僕の背中をバシバシと叩いてくる。

(オークショニアって、オークションで木槌を叩いてるだけで、筋肉まで鍛えられるのかなぁ?)

 オークショニアの話を適当に聞き流していると、ようやく、他の人が会場に到着しはじめた。

 それは先ほど会った劇作家と、ルースだった。なぜかルースの方は、ひっくひっくとしゃくり上げていて、目の縁も赤くなっていた。劇作家は傍らに立ち、彼女を慰めているようだった。

 ふたりが到着した時、僕は明らかに妙な空気を感じ取った──

 オークショニアは僕から離れ、ゆっくりと姿勢を正した。彼は、軽く眉をひそめた後、この男女に向けて悪だくみをするような、嫌らしい笑みを見せた。

 劇作家の青年は、オークショニアを睨んでいた。怒りで顔を歪め、拳はギュッと握っている。もし僕がこの場にいなかったら、その拳をオークショニアの顔にめり込ませていたかもしれない。

 一方、ルースは、泣くのをやめ、オークショニアを避けるように足早に彼の横を過ぎていった。その間、彼女は一度も顔を上げることはなかった。

 僕はその場にいる皆のわずかな表情の変化も見逃さず、それらを頭の中で繰り広げられている“貴族の恋の物語”に、こっそりと書き留めた。

 良い趣味と言えないのはわかっているが、正直なところ、好奇心が抑えられなかった。

 劇作家は、僕とオークショニアが肩を組んでいたところを見たらしい。眉をひそめ、僕に近づいてくる。

「先に言っておくが、こんな奴とは付き合わない方がいい」

 冷たい物言いに呆気にとられ、劇作家を見つめる。口を開いたのは、オークショニアだった。

「おいおい、本人の前で悪口を言うとは、ジョナサン家の人間の教養は、その程度なのか?」

 オークショニアは、挑発するように片眉を上げている。

「あぁ、すまんねぇ。忘れてたよ。名声とどろく君の一族は没落したんだったね。アーッハッハッハッハ!」

 このひと言で、劇作家の顔色がサッと変わった。もう我慢ならないと、オークショニアに向けて拳を振り上げる。だが、その瞬間、小柄な人影が劇作家とオークショニアの間に割って入ってきた。

 それは、なんと恥ずかしがり屋のデイジーだった。

「ジョ、ジョナサン様!」

 劇作家があまりにも近くにいるからか、デイジーは頬を染め、目を泳がせている。彼女は劇作家と目を合わすこともできないまま、口を開いた。

「ど、どうか落ち着いてください。は、伯爵様が間もなくお見えになります」

 デイジーが劇作家を思い遣って行動したのはすぐ分かる。だが、当の劇作家本人は、すっかり頭に血が上っていて、そこまで考えられなかったようだ。案の定「ふんっ」と怒りを込めて鼻を鳴らすと、立ち去ってしまった。

 デイジーはやるせない表情を浮かべた。唇を噛みしめて泣くのを堪え、業務に戻った。事務的に客人たちにお茶を入れていき、その間一切顔を上げようとはせず、口も開かなかった。

 

 他人の問題に首を突っ込むのは、とても厄介だ。

 僕はその場からなるべく気配を消し、頭の中でただひたすらにメモを取っていた──死んでも書くことはないであろう「恋愛小説」のネタがまたひとつ増えてしまった。

 

「旦那様、お客様がお揃いになりました」

 執事の声がパーティー会場に響き渡った。集まった人々は、誰からともなく服装と姿勢を正し、通路の方へと視線を向けた。

 まだ伯爵様に会っていない僕は、身体ごと通路の方へ向き直った。

 

 ──視線の先、すらりとした人物が、ゆっくりと歩いてくる。

「皆様、お待たせ致しました」

 その声は温かく気品があり、その姿は他の人とはまるで違うオーラを纏っているように見える。彼の表情からは、身分の高い者特有の自信が多少は感じられたが、それも人に傲慢な印象を与えるものではなかった。

 僕は呆然としていた。メロディー家の当主であり、メロディー荘園の主であるD.M伯爵が、こんなに美しい容姿の人物だったとは。

 ぼんやりとしているうちに、彼の声が間近で聞こえてきて、ハッと我に返った。伯爵が自分に話しかけているじゃないか!

「あっ、は、はい、わ、わたくしめは、伯爵殿、お誘い頂きまして大変光栄に存じます」

 伯爵の言葉は、最後の二、三言しか聞き取れなかった。僕はというと慌てすぎてどもってしまい、恥ずかしさでいたたまれない気持ちだった。

 白い手袋をはめた手が差し出されていることに気づき、僕は両手をシャツの後ろでしっかりと拭ってから、恐る恐る伯爵の手を取った。

 手袋越しでも伝わってくるその手の冷たさに、とても驚いた。この人の血液は、氷でできているのか?

 D.M伯爵は、優しく微笑んでいる。

「緊張しなくていいですよ、私は人を食べたりしませんから」

 周囲から、ぎこちない笑いが起こった。

 

 その後、D.M伯爵は僕を他の来客たちに紹介してまわってくれた。自分が大事に扱われているようで、僕はますます伯爵のことを好きになった。こんなに優しい人だとは思っていなかったのだ。

 

 皆が伯爵を取り囲み、代わる代わる声をかけている。

 それぞれが目的を持ったパーティーでは、本来なら大きな笑い声など起きないはずだ。けれどD.M伯爵のおかげで、そのパーティーは和やかな雰囲気に包まれていた。少なくとも表面上は。

 

 しばらくすると、ドーンッと、けたたましい音が上空で鳴り響いた。

「見て! 花火が始まった!」

 荘園の中にまで、表にいる人たちの歓声が聞こえてくる。

 

 僕は空を見上げた。夜空に咲く大輪の花は、現実のものとは思えないほど美しかった。花火を見ていると、人が光に惹かれるのもわかる気がした。それがたとえ、一瞬で儚く消えてしまうとしても。

「人はある瞬間のために生きるべきではないだろうか? そうでなければ価値はない」

 突然聞こえてきたその言葉に、僕はまた自分の心の声が勝手に口から漏れてしまったのかと思った。

 呟いたのはどうやらD.M伯爵だった。彼は花火を眺めたままで、誰かと会話をするつもりはなさそうだ。

 その時、誰かに軽く肩を叩かれた。

 またオークショニアかと、恐る恐る振り返ると、そこにいたのはオークショニアではなく、執事だった。

 

「急ぎの手紙が届いております」

 執事は僕を隅まで連れていくと、そう言った。

「手紙? 大家のおばさんから?」

 僕の胸に嫌な予感がよぎる。

 そして渡された手紙に目を落とした瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。

 ──火事だって!?

「す、すみませんが、家でトラブルが起こりました! 僕は帰らなくてはなりません。申し訳ないが伯爵様に謝っておいてください! あ! トランクがまだホールにあるんだった!」

 それを聞いた執事は、ホールの鍵を僕に渡した。

「トランクを取りに行ってください。私は馬車を手配して参ります」

 執事にお礼を言い、鍵をポケットに突っ込んでから大股で走り出した。同席した客たちに挨拶をする余裕もない。心の奥底で、怒りと苦い思いがこみ上げてきた。

(神様は僕を見放したのですか? どうしてこんな大事な日に火事なんか!)

 

 後になって思えば……この時、僕に1ミリでも理性が残っていて、立ち止まってほんの少し冷静に考えることができていたのなら、多くの怪しい点に気がついたことだろう。

 だが、僕は誤った道を選んでしまった。まさか、恋愛ストーリーの構想が形にすらなっていないうちに、僕自身が犯罪ストーリーの主人公になってしまうとは、この時はまだ思ってもいなかったのだった。

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