餌
寝室の窓から漆黒の馬車を見つけ、僕は思わず叫んでいた。
「もう来たのか? 早すぎだろ!?」
大慌てで寝室を飛び出す。階段を駆け下りていき、正面玄関で急ブレーキをかけて止まった。
──正面玄関、扉の手前に、大家の夫人がいつの間にか大きな姿見を置いていたからだ。
「そこまでみすぼらしくは、ないよな」
鏡の前であごを上げて、だらしなく伸びていたヒゲがちゃんと剃れているかを入念にチェックする。ついでに、サイズがひと回り小さいスーツを無理矢理伸ばした。最後に、原稿を詰め込んだトランクを上下に揺らし、中身を確かめる。すべて問題ない。
深呼吸をしてから、扉を開けた。
新鮮な空気と街の喧騒が一気に押し寄せてきて、久しぶりの感覚にめまいを起こしそうになる。
目を刺すような眩しい太陽光と鼓膜の圧迫感に慣れた頃、絢爛豪華な馬車が僕の目の前に止まった。漆黒の車体には、大貴族メロディー家の紋章が刻印されている。先ほど寝室の窓から見て、今日自分の元に来る馬車だと一目で分かった。ここまで高級な馬車を一般人が至近距離で目にする機会はめったにない。
僕の視線は馬車に釘付けになった。小説家の取材本能のような好奇心もあったが、何かが胸に引っかかったのだ。
この紋章、どこかで見たことがあるような気がする──いや、メロディー家はこの辺りでは有数の名家だ。知っていてもおかしくはない。けれど僕の心に湧いてきた懐かしさは、「見たことがある」程度ではなかった。
「メロディー……」 指で宙にその文字を綴りながら、曖昧な記憶を辿っていく。
「あんたがD.M伯爵の客だな? 早く乗りな」
御者から声をかけられ、僕の記憶の旅は打ち切られた。
「あっ、は、はい。今行きます」
僕は何度も頷き、馬車の黒い扉を丁寧に開ける。赤いベルベットに覆われた車内へと、緊張気味に滑り込んだ。
その日は、ちょうどガイ・フォークス・デイで、街は人で溢れていた。
御者は自身のプロ意識の高さを自慢しながら、手慣れた様子でわき道へと入っていった。そして、かえってひどい渋滞にはまった。僕は封筒から招待状を取り出し、懐中時計を見て、約束の時間がとっくに過ぎているのを悟ったが、どうしようもない。
「伯爵様に遅刻を許してもらえるといいんだけど……ん? これは?」
大きなため息とともに、招待状を封筒に戻そうとしたところで、封筒の中に名刺が入っていることに気がついた。招待状があまりにも分厚く立派だったので、名刺の方は今まで完全に見落としていた。
「オルフェウス……探偵事務所?」
きっと伯爵様が間違えて入れたものだろう。僕は、その名刺を無造作に自分のトランクに突っ込んだ。
次から次へと出てくる御者の言い訳を聞きながら、馬車は数々の苦難を乗り越え、ようやく目的地──D.M伯爵の邸宅があるメロディー荘園にたどり着いた。
素晴らしい荘園に感動する余裕もなく、案内のメイドに連れられて急ぎ足で庭園を突っ切り、玄関ロビーへと向かった。だが、そこで待っていた執事から、伯爵はすでに他のお客様との商談に入ってしまったと告げられた。
もしかして、伯爵を怒らせてしまっただろうか? と、僕はすっかり意気消沈した。
執事から東側の展示ホールで待つように言われ、僕は丁重に謝罪の言葉を述べると、案内に従ってホールの前までやってきた。
扉を開け、ホールの中に踏み入れようとして、思わず鳥肌が立った。
コレクション用の展示ホールは、貴重な宝飾品の数々で埋め尽くされていた。
触れることもためらわれるような珍しいコレクションはもちろんのこと、室内の調度品や家具に至るまで、訪問者の目を引くものばかりだ。ひとつひとつの名前を言えるような知識がなくても、部屋いっぱいに飾られた上品で趣のある品々からは、ロマンを感じ取ることができた。
「ここの収蔵品をどれか1点でも持ち出せば、貧乏な家族が一生食べていけるぐらいの価値はあるだろうな……」
ホールの入口にある絨毯で念入りに靴底を擦ってから、ようやく中に入り、僕は思わずつぶやいた。
「伯爵様は本当に客人を信頼していらっしゃるんだな……」
「展示ホールは、普段は施錠されております」
執事の声が背後から聞こえてきた──彼は片手に給仕用のトレイを掲げ、落ち着いた足取りでホールに入ってくる。彼の後ろから、お茶菓子をトレイにのせた背の低いメイドも一緒にやってきた。
「いつもはお客様をお通ししないのですが、旦那様からお申しつけがございまして。あなた様は特別でございます」
独り言を聞かれていたらしい。恥ずかしさで頬が熱くなる。けれど、伯爵が僕を特別扱いしてくれたと聞いて、恐れ多くも嬉しく、遅刻したことに対する不安は払しょくされた。
「いえいえ、伯爵様は買いかぶり過ぎですよ! ところで、あなたは?」
「突然失礼致しました。私はこちらの執事でございます。ロジャースとお呼びください」
年老いた執事は優しく微笑むと、テーブルへと案内してくる。かしこまって椅子に座ると、カップに紅茶を注いでくれた。
「よろしければ、上着とトランクをお預かり致しましょう」
僕は促されるままに上着を脱いだ。最近はもうすっかり暑くなっていたし、このひと回り小さなスーツは確かにこの場に似つかわしくない。だけど、このトランクは……。
僕は逡巡した。
世間から「あいつの才能は枯れ果てた」と言われ、落ちぶれて早数年、もう一度本を出してくれる出版社は見つからない。そんな中、やっとこの街で名高き大貴族に才を認められたのだ。このトランクいっぱいの原稿は、まさに最後の望み、何よりも大切な物だった。
僕の躊躇を察したのか、執事はこう続けた。
「お客様専用のクロークはメイドのデイジーがきちんと管理しております。ちょうど、展示ホールの目の前ですので、扉を開ければすぐに見えます。もし何かありましても、お客様ご自身でもお気づき頂けるかと存じますが」
執事に名前を挙げられ、傍らで静かにお茶菓子を用意していた少女が、僕を見て小さく頷き、すぐに目をそらした。どうやら、とてもシャイなようだ。
「分かりました。ではお願いします」
僕は断る理由もなく、預けることにした。
デイジーが僕の上着とトランクを受け取り、部屋を後にしていく。それを見届けてから、執事が口を開いた。
「本ホールにある物は、全て旦那様が近年収集した品々でございます。どうぞ、ご自由にご鑑賞ください。しばらくお待ちいただくことへのお詫びであると、旦那様より言い付かっております」
「ゴホゴホッ!」 僕は危うく紅茶で舌をやけどしそうになりながら、大げさに手を振った。
「いや、そんな、伯爵様が謝る必要などまったくありません! それもこれも僕が遅刻したせいなんですから!」
言いながらも、僕は心の中で喝采の声を上げていた。
D.M伯爵は街の路地裏にまで知られている名高い貴族、一方、自分は落ちぶれたただの一般市民だ。そんな自分をここまで厚遇してくれる、器の大きな貴族が他にいるだろうか?
それから、執事がコレクションについて簡単に紹介してくれた。
芸術品の価値なら少し見れば大体分かるが、家具や調度品についてはそうはいかない。自分の見聞を広めるため、また小説のネタにもなるかもしれないと、室内の家具についても色々聞いてみた。
純金仕上げのフランス製の木彫テーブル、東洋から来た曜変天目茶碗、バカラの水晶台に、サファヴィー朝宮廷の絨毯……。
このホールの所蔵品を見ているうちに、僕は人生というものについて深く考え始めてしまった。
執事は最後に、花火のショーが今晩8時から始まること、何かあったら鈴を鳴らして2名のメイドを呼ぶことなどを丁寧に説明してくれた。ひとりは先ほどのデイジーで、もうひとりは道案内をしてくれたルースだ。
一通りの説明を終えた執事は退室しようとしていた。その頃僕は、一枚の絵画に視線が釘付けになっていた。
その絵画は、額縁の下のプレートに“ミューズ”という作品名だけがあり、作者名は書かれていない。僕は好奇心から、出ていこうとしている執事に尋ねた。
「すみません、ロジャースさん。最後にひとつよろしいですか? この絵は何か特別なものなんでしょうか? 物を知らずにこんなことを言うのも恐縮ですが、でも、この絵は他の絵と比べて、特別優れた点はないように見受けられます。それに、有名な画家の絵でもないような……」
まるで僕の質問を予想していたかのように、執事はすぐさま“もっともらしい”答えを返してきた。
「旦那様は常々申しております。“世の人々は往々にして物の価格は知っているが、物の価値は知らないのだ”と。この絵には、旦那様だけが知る価値があるということなのでしょう。そうであれば、私どもがあれこれ憶測する必要もないのでございます」
「あぁ……それもそうですね」 僕はばつが悪くなって笑った。
執事は、再び礼をすると部屋を後にした。
僕をひとり残し、ホールが静寂に包まれた。
見張りの者がいるわけでもなく、部屋にある宝飾品を自由に見て回ることができる状況に、胸がそわそわと落ち着かない。
(これは、もしや伯爵が僕に課した試練だったりして?)
そんなことを考えながらも、トランクに詰め込んだ原稿のことを思うと、冷静になることができた──希望の光は、もう手の届くところにある。今の僕にとって、このトランクに詰まった希望は、あまたの名画や宝飾品などでも比べものにならなかった。待たされることすら、苦にならない。
(きっともうすぐ伯爵に会える。きっともうすぐ多くの人に僕の作品を読んでもらえる)
そう思うと、どんどん気分が高揚した。
僕は少し頭を冷やそうと、窓辺の方へと歩いていく。
ホールからは、東側の庭園が見えていたが、残念ながら二重窓になっていて、景観を損ねていた。内側のガラス窓は開くのだが、外側の格子窓が開かないのだ。
「窓を割って盗まれないように、はめ殺しにしてあるんだろうな」
僕は仕方なく待つ間、鉢植えがそばにあるソファーで休むことにした。
……どれくらい経っただろうか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。部屋の外から何やら話し声が聞こえてきて、目が覚めた。
意識はまだまどろみの中にあったが、その声はだんだん大きく、はっきりしていく。
「本当にわざとじゃないんです……」
「それはいいから、早く火を消さないと! お客様の荷物が燃えたらどうするの……」
……火?
誰かが火を消しているのか……
──なんだって、火を消している!?
僕はカッと目を見開き、ソファーから跳ね起きた。声は部屋のすぐ外から聞こえてきた。入口まで走っていき、扉を勢いよく開く。
すると、向かい側のクロークに、ふたりの人影が見えた。慌てた様子で床に広がった火をはたいたり、踏みつけたりしている。煙の臭いが、辺りに充満している。
僕はクロークに駆け込んで、思わず叫ぶ。
「原稿、原稿原稿……僕の原稿!」
「お、お客様」 ふたりのメイドが、僕の方を振り返ってきた。僕の悲痛な叫びにうろたえている。
そのうちのひとり、デイジーが恐る恐るある場所を指さした。
「トランクと上着はあちらにございます。焼けておりませんので、ご安心ください」
彼女が指差した方向に目を遣ると、自分の荷物がやや離れたところに置かれていた。僕はトランクに飛びつき、すぐに中身を確認した。原稿は全て無事だった。
「無事だったか……よかった、ほんとによかった……」
安堵し、冷静さを取り戻す。僕は改めて「火元」に目を凝らした。焼けたのはテーブルクロスと絨毯の一部で、被害はそう大きくはなさそうだ。メイドたちの迅速な対応のおかげで、燃え広がらずに済んだようだ。しかしデイジーのスカートの裾が、大きく焼け焦げてしまっている。
僕は額の冷や汗を拭い、今しがたの理性を欠いた行動を反省する。動揺している彼女らに、気遣うように声をかけた。
「君たち、ケガは──」
「何かあったのか?」
僕の言葉は、割って入ってきた青年の声に遮られた。
声の主はハンサムな青年で、クローク内の騒がしい物音を聞きつけて来たようだ。何気ない調子で軽快に声をかけてきたのだが、火事があったのだと気づくと、顔色が変わった。
「大丈夫か?」
彼は真っ青になって、ルースのもとへと駆け寄る。
「やけどは? 痛いところはないか? 早く手当てをしないと。薬を塗ってもらった方がいいな、一緒に行こうか?」
焦った様子で心配しているその姿から、彼がルースをどう想っているかは明らかだった。
僕は思わず苦笑いを浮かべてしまう。「ロマンス」という単語が思い浮かび、野暮だと頭を振った。
そこで、俯いているデイジーが視界に入った。彼女は踏み出そうとした足を戻し、僕の後ろに身を隠すように立った。
デイジーの挙動が気になり、僕は改めて青年の方を見た。
スーツも革靴も、立派なものを身につけてはいるが、どちらも古びていて、スーツの生地は度重なる洗濯によるものだろう、すっかり傷んでいる。
(この青年は、体裁を保つのに必死だな)
同族というのは、簡単に見破れるものだ。
青年はようやく僕の存在に気づいたのか、歩み寄って握手を求めてきた。
「こんにちは。僕もあなたと同様、伯爵に会いに来たんです。ジョナサンと言います、劇作家です」
僕も軽く自己紹介をし、それから首を傾げた。
「……劇作家の、ジョナサン?」
若い劇作家は、これまで名前と職業を言って相手が驚く経験を何度もしているらしい、慣れた様子で話を続ける。
「先ほどまで、伯爵と上の階で台本について話し合っていて、今終わったところです。ですが、伯爵は急用が入ってしまったとのことで、小説の件は花火の後に話そうと、あなたに伝えるよう頼まれていたんです」
「分かりました。ありがとう」
「では」
劇作家は別れを告げ、ルースを連れて立ち去った。
僕はふたりの姿が見えなくなると、デイジーを振り返ってため息をついた。彼女は僕の背後に立ち、できるだけ気配を消している様子だった。
「君もケガがひどいから、手当てをしてもらいに行った方がいいよ」
俯いていたので表情は窺えなかったが、どうやら必死に気持ちを整理している様子だった。しばしの沈黙の後、顔を上げ、無理に作った笑顔を見せた。
「大したことはないです。先に、ここの片付けをしないと」
僕は、彼女の手から雑巾をサッと取り上げる。
「ここは僕に任せて、行ってください。君の姿を他のお客さんが見たら、まずいんじゃないかな」
スカートの裾が大きく焼け焦げていることを思い出したのか、デイジーはハッと表情をこわばらせた。
「すぐに戻りますので」
彼女は深々と頭を下げると、足早にその場を離れていった。
僕は下を向いて考え込んでいた。
「う~ん、貴族階級の恋愛かぁ……まるで最近流行りの小説みたいだな……いや、飢え死にしたって、僕はそんな低俗なテーマじゃ絶対に書かないぞ!」
振り払うように勢いよく袖をまくり上げ、掃除を始めることにする。
その時、廊下からかすかな物音がした。何かが地面に落ちたような音だった。
「デイジー?」
廊下を覗くが、人影はなかった。東側のテラスへ続くガラス戸が閉まっておらず、風が吹き込む音だけが響いていた。
気にすることはないだろうと、クロークの掃除に戻る。
しかし、間もなくして、慌てた様子で執事のロジャースがクロークに入ってきた。申し訳なさそうに眉を下げている。
「お客様に掃除などさせられません。どうぞ、お休みになっていてください。こちらは私が」
執事に後を任せ、クロークを出る時、僕は宝物のトランクを持っていくことにした。
こんな恐ろしい思いをするのは、もうこりごりだった。
展示ホールの方に戻ろうとしたが、ホールの入口扉が、いつの間にか固く閉ざされていた。