飛んで火に入る夏の虫
馬車の中で、トゥルースは新たに得た情報を口にした。
「昔々、ミューズの絵は全部で9枚あったの。それらの絵がどこから来たのかは、誰も知らない。だけど絵の中のミューズは、創作のインスピレーションを永遠に与えてくれる女神として知られていたの」
「……」
リーズニングは黙ったまま、渋い顔をして聞いている。
「そんな顔しないで欲しいの。眉唾ものなことくらい分かってるから。でも、重要なのはここからなの」
トゥルースは、9枚の写真をリーズニングに手渡した。
「これはあいつが提供してくれた9枚の絵の写真なの。ほとんどがレプリカだけど、参考資料にはなると思うの。それでね、ミューズの絵にはもうひとつ噂があるのよ。1枚の絵には何の価値もないけど、9枚すべてを集めた時、値段もつけられないほどの、とんでもないお宝が手に入ると言われているの!」
「……」
黙っているリーズニングの横で、僕は軽く顔を掻いた。
「ははっ、なんだか僕が書く小説みたいな話だな」
リーズニングは写真をしまいながら尋ねた。
「他には?」
「うーん……」
トゥルースは必死に記憶を辿っている。
「あ、そうだ。太った刑事さんに聞いてこいって言われたことも、情報を掴んできたの。彼が話していた、ジョナサン家が売り払ったって絵の名前。“七弦の琴”っていうの」
「“七弦の琴”、ミューズ……」
リーズニングは口の中で繰り返した。
「ミスター、お嬢さん、警察署に着きましたよ」
御者の声に思考を遮られ、リーズニングが顔を上げる。
「あーあ。さっき警察署から出てきたばっかりなのに、また来ちゃったの」
トゥルースが馬車から飛び降り、言った。
「だけど、こんなに早く犯人を見つけちゃうとは思ってなかったの。もしかしてミューズの絵の情報、いらなかった?」
「いや、そんなことはない」
「ふふっ」
功績を認められ、トゥルースは白い歯を見せて、リーズニングの後ろで嬉しそうに飛び跳ねた。
僕は、首を軽く振って、ため息をついた。トゥルースがいれば、リーズニングの機嫌が安定する。リーズニングがいれば、トゥルースも少し落ち着いた態度になる。
(ふたりは、まさに組むべくして組んだ相棒だな)
取調室に入り、薄明かりの中に浮かぶ殺風景で狭苦しい雰囲気を見て、僕は初めてオルフェウス探偵事務所に出向いた時のことを思い出していた。
(あの部屋、やっぱり取調室に寄せて作られていたのかも……)
リーズニングの向かいには、泣き腫らした目のデイジーが座っている。一晩中泣いて心が壊れてしまったのか、すっかり放心している。その目に光はなく、すべての希望を捨ててしまったかに見える。
「お前はミューズの絵が、人に創作のインスピレーションを与えるという噂を知っていた。それから、ジョナサン家がミューズの絵を手放して以降、徐々に落ちぶれていったという話も。噂が本当かどうかはさておき、お前は試してみることにした。ジョナサンを救うため、絵を盗むことを思いついたんだ。あの鍵は、ずいぶん前にお前が複製したもの。そうだな?」
リーズニングの話が、デイジーの心を揺さぶった様子はない。しかし、糸の切れた操り人形のようだったルースと違い、彼女はまだ辛うじて話をすることができた。
「あの人のために伯爵の絵を盗んだって、あの人が振り向いてくれるわけじゃないのに。私、馬鹿ですよね」
リーズニングは、こんな答えが聞きたいわけではないだろう。犯人と、男女のもつれについて議論を交わすことになど興味もないはずだ。彼の眉間のしわがいよいよ深くなった時、トゥルースがとっさに会話のバトンを引き継いだ。
「少なくとも、あたしはあなたのことを馬鹿だとは思わない。あなたは愛する人のため、見返りも求めず、ここまでのことができた。その献身って、とってもすごいことだと思うの。ルースは、あなたにはとても及ばないの」
トゥルースは、その実デイジーの愚かな行動を認めたわけではないだろう。彼女は、ただデイジーが言ってほしい言葉を知っていただけだ。
デイジーの表情がいくらか和らいだ。彼女は何か言おうとしたが、結局は苦笑だけを浮かべ、話を続けた。
「でも、人が死んでいるんです。これ以上、何をお聞きになりたいと言うんですか? どのみち私は死ななくてはなりません。私は罪を犯しました。毒を盛ったのも私、人を殺したのも私、絵を盗んだのも私。そういうことなんです。どうか、早く死刑にしてください」
彼女は、調査が及ぶことで劇作家が傷つくのを恐れ、いっそすべての罪をかぶろうとしているのだ。
「お前はまだその浅くおめでたい考えで、ルースが盗んだ絵は劇作家の手に渡るとでも思っているのか?」
リーズニングは、すべてを見透かすように言った。
「教えてやろう、それはあり得ない。ルースは自分のためだけに絵を盗んだんだ。劇作家は関係ない。それから、ルースは死んでなどいない。お前は死刑にならない。それでもなお、自分の自由を犠牲にして、お前は他の人間を助けるつもりなのか?」
「ルースが死んでない!?」
デイジーは驚き、身を乗り出した。
「そう、お医者さんが助けてくれたの」
トゥルースが伝える。
しかし意外なことに、デイジーは喜ぶでもなく、悔しがるでもなく、ただただ呆然としていた。彼女の片目から、静かに涙がこぼれ落ちる。
トゥルースは困惑した様子で、声をひそめてリーズニングに言った。
「せっかくお話できてたのに、またお人形さん状態に戻っちゃったりしないよね?」
「大丈夫だ」
リーズニングの言葉通り、デイジーは涙を拭った後、ゆっくりと口を開いた。
「死ななくても、いいんですね。……聞きたいことは何ですか?」
「ルースが絵を盗んだ時、スカートがテーブルの角に引っかかり、現場に木綿の糸という証拠を残した。だが、絨毯に落ちていた蝋燭の跡は、絵のかかった壁からは離れた位置で途切れていた。これは明らかに、ルースとは別の人物が辿ったルートだ。あれはお前だろう?」
デイジーは頷いた。
「あの日の夜……私はミューズの絵を盗もうと思っていました。9時半頃、ロジャースさんは伯爵の入浴の準備に向かいました。ルースは足をケガしていたので、早めに部屋で休むことを許されていました。私はひとりだったのです。それで、合鍵を使って展示ホールに忍び込むことにしました。電気をつけると誰かに見つかってしまうかもしれない……そう思って、蝋燭を手にホールに入りました。でも入ってすぐに気づいたんです、絵は、すでに無くなっていました。それで、怖くなって急いで部屋を出ました」
話を聞いても、リーズニングに驚いた様子はない。恐らく、彼の推測通りだったのだろう。彼は続けて尋ねた。
「分かった。次は毒を盛った件について教えてもらおうか」
「本当は私、毒を盛るつもりはなかったんです」
デイジーの表情が、少しこわばった。
「私が持ち出したのは、睡眠薬のはずで……」
リーズニングが僕の方を見た。
いきなり鋭い目で見られたので、僕はうろたえてしまった。だがリーズニングは、またすぐにデイジーへと視線を戻した。
「ルースに睡眠薬を飲ませるつもりだったのか。なぜそんなことを?」
デイジーは答えた。
「昨日、ルースの世話をしていた時、彼女のベッドの下から絵の額の一部が見えてしまったんです。私は、絵を盗んだ犯人がルースだと直感しました。警察がずっと絵を見つけられなかったのは、恐らくルースが持ち歩いていたからだと」
「持ち歩いていた? 彼女、何も持っていなかったけど?」
僕は、トランクを持っていたせいで、絵画を運ぶことのできる唯一の人間だと疑われていたことを思い出した。
「それは……」
デイジーは首を横に振った。その点については、彼女もルースがどうしたかわからないようだった。
「私が知っているのは、ルースが部屋にいない時は、絵画も部屋から消えていたということだけです」
「スカートの中だ」
リーズニングが言った。
「あれほど大きなスカートなら、余裕で隠せる。わざと足をくじいて、絵を……いや、正確に言えば額縁を、足の間に挟んで歩いていたんだ。歩くのが遅くて不自然でも、ケガのせいだと思えば誰も疑わない。さらには、デイジーが彼女を支えてくれているのだからな」
(まさか、そんなことがあるだろうか──盗まれた絵が、自分たちの周りをずっとうろうろしていただなんて!?)
「その後、私は隙を狙って、彼女の薬に睡眠薬を混ぜました。彼女が眠ったところで、絵を盗もうと思ったのです。だけど、どうしてそれが毒薬になってしまったのでしょう?」
答えを知っていると思ったのか、デイジーはリーズニングを見た。
彼は俯き、考え込んでいる。
「俺の推理が正しければ、毒薬は、ルースが小説家に飲ませようと思って準備したものだったはずだ」
僕は驚きのあまり、手で口を覆った。
「なんだって!?」
「昨晩、ルースはお前にコーヒーをいれたんだろう? その時、彼女はお前のカップに毒を盛ろうとした。ところが、デイジーの睡眠薬と取り違えてしまったんだ。だから、お前は深い眠りに落ち、ルースは毒に倒れた」
「だけど、彼女はどうして僕に毒なんて?」
今度は、トゥルースが人差し指を立てた。
「それは簡単だよ。昼間に探偵さんが色々と調べて回ったから、事件の真相がバレるんじゃないかって、盗人さんはとっても焦ったの。それで、最初に犯人だと疑われていた小説家さんを殺して、死体を隠しちゃおうと考えたの。犯罪がバレるのを恐れて逃げ出したっていう話をでっち上げるためにね。もし上手くいかなくても、一時はみんなの注意をそらせる。その隙に、証拠を隠したり、絵を移動したりできるでしょ」
リーズニングは、デイジーに質問を続けた。
「睡眠薬は地下室で見つけたのか?」
「そうです。荘園には、薬を置いてある倉庫があるんです。そういえば最近、新しい薬と古い薬の入れ替えをするからって、ロジャースさんがしばらく、倉庫を閉鎖していました」
話を聞くと、リーズニングの表情が少し変わった。
「ん? そうか……」
僕たちの帰り際、デイジーが質問を発した。
「彼は……今、まだ病院にいるのですか?」
彼とは、もちろん劇作家のジョナサンだろう。
トゥルースには、すぐわかったようだ。デイジーが確かめたいのは、真相を知った後もジョナサンは、ルースのそばにいるのかということだ。デイジーには会いに来ることもなく。
トゥルースは、この質問に答えるべきかどうか迷っているように見えた。しかし、リーズニングの口が今にも「そうだ」と告げようとしているのを見て、慌てて口を開いた。
「いつでも病院内のことを知らせてもらえるように、D.M伯爵が彼を病院に行かせたの。だから当分は離れられないと思うの。でも大丈夫よ。デイジーさん、他に“誰かさん”に伝えたいメッセージはある? あたしたちが代わりに伝言してあげるの」
トゥルースの質問を受け、デイジーは、無数の言葉を吟味しているように喉を動かした。だが結局、出かかったすべての言葉を、彼女は飲み込んでしまった。
デイジーは机の上のライトに飛び込んでいった蛾をぼんやりと見つめ、哀しい笑みを浮かべた。そして首を横に振ると、それっきり、何も言うことはなかった。
僕たちは、メロディー荘園の地下倉庫を訪れた。
「どうして、毒薬と睡眠薬が一緒に置かれてるんだ?」
薄暗く広い空間に、リーズニングの質問がこだまする。
彼は瓶の形も粉の色もまったく見分けのつかない、ふたつの薬を見比べている。彼の後ろにはトゥルースと僕、執事のロジャース、それにD.M伯爵が立っていた。
執事は落ち着いた声で穏やかに答える。
「これらの薬は、ラベルが古く剥げておりましたので、整理する必要がございました。もともと、ここはまだ閉鎖中で、薬品の入れ替え作業の途中だったのです。まさか、彼女たちがこっそり入って使用するなど、思ってもおりませんでした」
「いい加減な犯人の小さなミスが引き起こしたアクシデントのようだね。でもおかげで、かなり楽に調査を進めることができたんじゃないのかな?」
D.M伯爵がリーズニングに言う。
リーズニングはただ奥歯を噛みしめ、否定はしない。
リーズニングが珍しく黙って聞いているのを見てか、D.M伯爵はすかさず言った。
「怒りっぽくなくなったのは、知恵がついた証拠かな」
彼は探偵に向かって首を傾げると、おどけた笑顔を見せた。
「おめでとう探偵さん。真相にまた一歩近づいたようだね」
「お前の意見など求めてない」
ふたりがまた言い合いをしている横で、僕はわかったようなわからないような心持ちで口を開いた。
「“また一歩真相に近づいた”って、僕たちはもう真相を知っているんじゃないんですか? 犯人だって見つけたのに」
「ルースは花火が終わった後、つまり8時半から9時半の間に絵を盗んだ。だが彼女は合鍵を持っていなかった。展示ホールにあったスペアキーを使ったはずだ」
リーズニングは言った。そこまでは、僕も理解できる。
「うん……ですよね。えっと、それで?」
リーズニングは少し苛立ったように続けた。
「では聞くが、彼女は一体いつスペアキーを手に入れた?」
僕はハッとした。確かにその通りだ。
「執事は毎朝、スペアキーが鉢植えにあるかどうかを確認している。ガイ・フォークス・デイ当日に確認を終えてからお前が荘園に来るまで、展示ホールは施錠されていた。少なくともこの期間、鍵は室内にあったことになる。クロークでボヤがあった時、ルースは地下室から出てきた。彼女のその後の行動については、お前が展示ホールを離れている間、常に誰かと一緒にいてホールには入っていないんだ。それで、どうやってスペアキーを取ったというんだ?」
リーズニングの問いに、僕は何も答えられなかった。だが代わりに、そばにいたD.M伯爵が興味深げに分析を始めた。
「確かにおかしいね。全員が嘘をついているか、あるいは第三者がルースのために鍵を盗み、手渡し、元に戻して、そして隠してあった絵を持ち去ったというところか」
絵を持ち去るという話が出て、僕はようやく口を開いた。
「そうか。だからルースは倒れた時、犯人が誰かを教えるんじゃなく、共犯者に絵の隠し場所を教えようとした!」
そこまで言って、ふと思い至る。
「でも、だとするとマズいですよ。ルースが毒で倒れていた現場は、全員が見たんですよね。共犯者はすでに絵の隠し場所を知っているってことじゃないですか? あれからもう、1日が経ってる。絵はすでに運び出されてしまったんじゃ……?」
「それについては……」
D.M伯爵が笑う。
「我々の偉大なる探偵さんが、即座にルースのメッセージを解読してくれた。共犯者より早かったんじゃないかな」
リーズニングは、「お前が無理矢理、解読させたんだろう」とでも言いたげに口を曲げた。
「ミューズの絵がある場所は、すでに警察によって厳重に警備されている。盗まれることはないだろうね」
「“警備されている”ですって?」
僕は、今日の荘園の様子を思い出した。
「警官が一番多くいた場所は……おかしいな。やっぱり展示ホールだったと思うけど?」
僕が言うと、地下室にいた全員が沈黙した。
僕は呆気にとられた。
「え? まっ、まさかミューズの絵は、展示ホールの中に隠されているんですか? だけど、あの場所はもう何度も探しましたよね?」
何か考えがあるのだろうか。リーズニングは、この質問には答えたくないようだった。
そこで、トゥルースが代わりに答えた。
「もうひとりの絵画泥棒さんが誰かを知りたいのよね? ルースが絵を盗んでから、彼女が毒を盛られるまでには1日あったの。普通1日あれば、彼女と共犯者さんは情報交換ができるはずよ。なのに、どうして彼女は、倒れる前に絵の隠し場所を教えなきゃいけなかったんだと思う?」
僕は知恵を絞った。
「ルースが足をくじいてからは、デイジーがずっと彼女のそばにいた。デイジーに気づかれるのを恐れて、共犯者とやり取りするチャンスがなかったとか?」
「やり取りする機会もなかったなら、どうやって鍵をこっそり共犯者さんに渡せたのかしら?」
トゥルースが笑顔で問い返してくる。
「つまり、会うには会っていたんだと思うの。すれ違う時にこっそり鍵を渡したりできるからね。だけど、自分たちが共謀していることを悟られないよう、この共犯者さんは、わざとルースと不仲のふりをしていたの。だから、ふたりは話をすることができなかった。じゃないと、変だと思われちゃうでしょ。そう考えると、条件に合う共犯者さんは誰かしら?」
答えはもう明白だった。それ以上話す必要もなく、僕たちは沈黙した。
「この共犯者の“しっぽ”を掴む方法なんだが……」
D.M伯爵の目の奥に、サディスティックな笑みが浮かんだ。
「偉大なる探偵さん、君がすべての証拠を集めてから真相を暴きたいのはわかっている。だが私の方法のほうが面白いと……いや失礼、早いと思うのだが。ご興味はおありかな?」
D.M伯爵がそこまで言うと、執事は悟ったようにトゥルースと僕を、地下室の外に追い出してしまった。
文句を言いつつも立ち去るトゥルースの後を追って倉庫を出た僕は最後に、暗闇の中で交わされた会話の一部を耳にした。
「面白い? お前のような分厚い仮面をかぶった人間が、他人の演技を面白がれるのか?」
「では聞こう。何もかも見透かす君のような人間が、何年も秘密を抱えて生きているというのは……面白いものだろう?」




