序章:夜想曲
ある夏の、朧月夜の下。
静寂に包まれていた荘園に、誰かが奏でているヴァイオリンの音色が、夜風に乗って優しく聴こえはじめた。
今日という日の最後の贈り物に相応しい、シューベルトの夜想曲。
情感のこもった抑揚ある音色が、荘園の隅々にまでゆったりと響き渡っていく──
音色は地下室にも届く。
地下室にいる誰かは、ふたつのよく似た薬瓶のラベルを、新しいものに貼りかえていた。
音色は裏口にも届く。
裏口にいる誰かは、こっそりと夜闇に紛れ、差出人のない手紙を出そうとしていた。
音色は客間にも届く。
客間にいる誰かは、肌身離さず持っている巻尺を使い、最後のリハーサルを行っていた。
音色は屋根裏部屋にも届く。
屋根裏部屋にいる誰かは、枕の下に忍ばせた火かき棒を撫でながら、眠れぬ夜を過ごしていた……。
──ノクターンが終わりに近づく。
夜風で庭の花びらが舞う。それはまるでメロディーが花びらを踊らせているかのようだった。
やがて舞っていた花びらは地面に落ちていき、それと共にヴァイオリンの音色も、穏やかに、儚く、消えていく。
鈍い月明かりに照らされ、荘園の1階、展示ホールの窓辺に人が立っているのが見える。
ヴァイオリンを構えていたその人は、最後の一音を弾き終え、弓をおろし、ゆっくりと目を閉じた。その横顔は凛々しく、身にまとう空気は奏でていたヴァイオリンそのもののように優雅である。先ほどまで弦を弾いていた細くしなやかな指先は、白く艶めいている。
余韻が消えるのを待ってから、彼の背後に立っていた人物が、恭しく声をかけた。
「旦那様、準備が整いました」
年老いた執事の落ち着いた声音で、彼はゆっくりと目を開けた。
彼の瞳は青く、美しい輝きを帯びている。しかしその瞳の奥には、まとう優雅さにそぐわない、冷たい殺気を秘めていた。まるで闇夜に潜む蛇のように。
彼は温厚で優雅な紳士として名高い大貴族、D.M伯爵と呼ばれている人物で、この荘園歴代最年少の主人である。
「ああ」 D.Mは素っ気なく答えた。
それから、面白くなさそうにヴァイオリンと弓を放り投げる。それらは放物線を描き、ホールに置かれた調度品にぶつかりそうになる。しかし間一髪、執事がヴァイオリンと弓を腕の中に収めた。彼がここにある貴重な品々を助けるのは、今年に入って115回目である。
D.Mは駆け回る執事にまるで構わず、椅子の背もたれにかけてあったコートを片手に、扉の方へと歩いて行った。
執事は足早に若き主人に追いつくと、顔色を窺うように、恐る恐る口を開いた。
「旦那様、この度は本当に関わらないおつもりですか? 私は、少々不安でございま……」
D.Mは、扉の前でピタリと足を止める。
横目で冷たく執事を見てから、執事の肩越しに視線を移す。そこには、ミューズの絵画が壁に掛かっている。
「ああ、ただのサーカスだ。ちょっとしたショーにすぎないからな」
D.Mは執事に視線を戻した。その瞳からは、何の感情も伺えない。
「それとも、彼らに何か他の価値があるとでも?」
執事は悟ったように軽く会釈をすると、それ以上は何も言わなかった。
価値といえば……と、不意にD.Mはある人物のことを思い出し、執事に向けて興味深そうに尋ねた。
「“名探偵”のところから、絵に関する何か新しい手がかりは来たか?」
「今のところ、新しい情報は入ってきておりません」
執事は首を振ってから、一言付け加えてくる。
「探偵は、まだこの絵画の秘密を知らないようでございます」
「そのようだ。今回、それを教えることになるだろう。──ところで」
「なんでしょう?」
「我々の“新しい主役”、彼の近況はどうかな?」
執事は答える。
「招待状を受け取ってからというもの、昼夜を問わず原稿を仕上げようと必死でございます。とても興奮しておられるようで、明日の約束には必ずお見えになるかと」
D.Mは目を細めて笑った。
「深い穴の底であがいている時に、光の方から垂れ下がってきた縄をつかまない者がいるだろうか。でも、現実は彼の描くストーリーのように単純ではない。どんなことにも、対価を支払う必要がある」
D.Mの目がキラリと光った。穏やかに見えるその瞳は、凍えるような冷たさをはらんでいた。
「好きにさせておこう。明日のショーが失敗に終わらなければそれでいい」
ゆったりとした口調でそう言うと、彼は皮肉めいた笑い声とともに廊下を曲がり、消えていった。
残された執事はひとり、ミューズの絵をしばし眺めていた。それからため息をつき、ゆっくりとホールの扉を閉めた。
【D.Mからの招待状】
親愛なる____様
はじめまして。
先日、執事が書斎の整理をしておりましたところ、偶然貴殿の作品に出会いました。拝読したところ、驚くほど素晴らしい内容に感銘を受けました。しかし同時に、貴殿がこのところ著作を発表されておられないこと、休筆されたわけでもないことを噂で耳にしました。もしや貴殿は資金に困窮し、あるいは別のやむを得ない理由で創作を中止されているのではないでしょうか? もしそうならば、是非支援をさせていただきたくご連絡を差し上げました。貴殿の創作の才能は、一刻も早く世に広く知れ渡るべきです。
つきましては、是非一度お目にかかりたく存じます。ちょうど、もうすぐ祝日がやって参ります。よろしければ、その日に荘園の方へお越し頂けませんでしょうか?
もしご承諾頂けるのであれば返信は不要です。ガイ・フォークス・デイ当日5時に、荘園へと向かう馬車が貴殿をお迎えに上がります。
お会いできますことを楽しみにしております。
Sincerely,
Desiré Melodis