009 夜襲
近くにいたチンパンジーたちが全力で逃げていく。
距離をとって囲んでいたチンパンジーの軍団は威嚇の咆哮を放つ。
四方八方から、耳が痛くなる程の喚き声が俺達を襲った。
「まずいんじゃないの」
「やべぇよ」
「怖い……」
皆が怯えている。
阿南は舌打ちをしながら立ち尽くす。
「阿南さん」
俺は意を決して阿南に近づいた。
「なんだよ」
阿南が睨んでくる。
体格差もあって金玉が縮み上がりそうだ。
だが今はビビっている場合ではない。
「ここのチンパンジーたちは言葉が通じるんですよ」
「はぁ?」
「だからさっきのことを謝ってもらえませんか?」
「さっきのことだと?」
「阿南さんが子供のチンパンジーを叩きつけたことです」
俺は角が立たないよう丁寧な口調で話す。
「なんで俺が謝らないといけないんだよ」
阿南の目つきがきつくなる。
「俺はあいつを高い高いしようとしただけだ。それなのにあいつが嫌がった。だからゆっくり下ろしてやろうとした。なのにあいつは噛みやがったんだ。人間の言葉が理解できるって言うなら、ちゃんと躾けていなかった子の不出来を親が謝りにくるべきだろ」
阿南の言い分には理解の余地がある。
富岡と違い、彼は見た目に反して思考はまともだ。
「分かります」
俺は理解を示しつつ、「それでも」と続けた。
「阿南さんの言った通り相手は子供だったんです。だから阿南さんの優しさが分からなかったんですよ。なのでここは一つ謝ってやってもらえませんか? 流石にここでチンパンジーたちと険悪なムードになるのはまずいんで。大人としての対応をどうか……」
「俺に指図するんじゃねぇ!」
阿南が胸ぐらを掴んでくる。
朱里と志穂が慌てて駆け寄ろうとするので制止した。
「何様なんだよお前は。リーダーにでもなったつもりか?」
「そんなつもりじゃないですよ。ただここでチンパンジーを敵に回す選択は絶対に後悔することになりますよ」
「チンパンジーくらいわけねぇよ!」
阿南が俺を突き飛ばした。
俺は地面に尻をぶつけるも、すぐさま立ち上がる。
どうにかしてチンパンジーの矛を収めたかった。
「ここは動物園じゃないんですよ。いつまでも人間が上だと思うのはやめたほうがいいです。自然というフィールドにおいて、人間なんて最弱の生き物ですよ」
食ってかかりすぎたか。
殴られるかと思ったが、そうはならなかった。
「勝手に言ってろ。俺は謝らねぇ。謝ることはしてねぇんだ」
阿南がテントの中に入っていく。
その際、地面に落ちているバナナを拾っていった。
子供のチンパンジーが彼にプレゼントしたものだ。
そこに阿南という男の優しさが垣間見れた。
「どうしたものやら……」
俺は周囲に目を向けた。
誰も何も言わず、目が合うと慌てて逸らす。
打つ手なしだ。
「これは困ったことになるぞ」
大きなため息をつくと、俺は自分のテントに戻った。
◇
寝静まってから1時間ほどでその時はやってきた。
「やっぱりだ」
俺は寝袋から這い出て上半身を起こす。
「始まったね」
隣で寝ている志穂と朱里も目を覚ました。
俺達は大きめのテントを買って3人で使っている。
その方が節約できるし、何より1人は不安だった。
俺からすると僥倖に他ならない。
学校の二大美女と一緒のテントで眠れるなんて奇跡だ。
「あーもう、うるさい!」
朱里が寝ぼけ眼をこすりながら文句を言う。
その文句が掻き消されそうな程に外が賑やかだ。
「「「ウォ! ウォッ!」」」
「「「ギィィィィ! ギィッ! ギギィ!」」」
チンパンジーの大合唱が聞こえる。
明らかに俺達の就寝を妨害する為の行為だ。
昼行性の生き物とは思えない行動である。
「勘弁してくれぇ……」
朱里が耳を押さえながら横になる。
「耳栓を買おうかしら……」
志穂もうんざりした様子。
「敵のど真ん中で宣戦布告したんだ。そりゃこうなるよな」
俺は諦めて眠ることにした。
外の大合唱は凄まじいけれど、慣れたらどうってことない。
家でも音楽を流したまま寝落ちすることがよくある。
同じようなものだ。
「ぎゃああああああああ!」
「な、なんだ!?」
「いでぇえええ!」
外のテントから悲鳴が聞こえてくる。
それは明らかに人間の声だった。
さすがにこの声は無視するわけにいかない。
俺達は飛び起きた。
慌てて靴を履き、テントから出て確認する。
「これは……」
チンパンジーの攻撃は威嚇に留まらなかった。
石やドングリ、それにヤシの実をテントに投げ込んできている。
連中の攻撃は遠距離からのものに終始している。
物を投げたり吠えたりするが、近づいてはこない。
近接戦闘は危険と思っているのだろう。
「それにしてもコントロールがいいな」
「感心してる場合?」
志穂が呆れたように俺を見る。
「だってあいつら、狙うテントを決めてるじゃん」
「えっ」
「分からないか? よく見てみろ」
俺はいくつかのテントを指した。
「あれとあれ、それにあのテントは無事だ。あと俺達のテントも。殆ど全方位と言える角度から物が飛んでいるのに、攻撃しないと決めているテントは意図的に避けている」
「言われてみればたしかに。なんでだろ?」
「たぶん友好的な奴には攻撃しないのだろう」
俺は攻撃を受けていないテントを指す。
「あそこにある二つのテントは保健の先生と化学の先生が使ってるよな?」
「うん」
「で、あっちのテントは客室乗務員の人だろ?」
「だね」
「その3人はチンパンジーがくれた果物を喜んで受け取っていた。俺たちと同じようにその場で食べて、感謝の言葉を伝えて頭や体を撫でていた。いわゆる親チンパン派だ」
志穂は「なるほど」と呟き、視線を俺に向ける。
「慧って周りのことをよく見ているんだね」
「偶然だよ」
「偶然かぁ。阿南が『リーダーにもでもなったつもりか?』て言っていたけどさ、慧なら本当にリーダーの素質があると思うよ。すくなくともアレよりは」
アレと言って志穂が指したのは富岡のテントだ。
ヤシの実が着弾して、中から富岡の悲鳴が聞こえた。
「俺はリーダーって柄じゃないさ。とりあえずもう一眠りしよう」
「それしかないね。防ぎようもないし――って、朱里は?」
志穂が素早く左右を見る。
先ほどまで隣にいた朱里の姿が消えていた。
「どこだ?」
俺も目をギョッとさせて周辺を探す。
朱里の姿が見当たらない。
「もしかして神隠しか!?」
と、思いきや。
「グビィィィィ! グビビビィィィィィ!」
テントの中から強烈ないびきが聞こえる。
振り返ると、そこには寝袋の上で大の字に寝そべる朱里の姿があった。
いつの間にかテントに戻って眠りに就いていたのだ。
「上級生にこんな言い方をするのもアレなんだけどさ――」
俺は呆れ笑いを浮かべて言った。
「あいつ、どういう神経してんだ? 凄すぎないか?」
「朱里はそういう子なのよ」
志穂も苦笑いを浮かべるのだった。
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