窓の手型
僕は大木恭平、高校一年生。たった今危機に直面している。
明日の宿題が終わっていないのだ。さっきまでテレビ番組を観ていたせいですっかり忘れていた。もう諦めて寝ようかとも思ったが、なんとなく宿題に手をつけている。
今夜は天気が悪い。屋根を叩く雨粒や木々を揺らす風の音が部屋にも響く。
観ていたのがホラー番組だったということもあり、なんだか怖くて眠れない。
このまま何もせず起きているくらいなら、宿題でもしようかと今に至る。
中盤くらいまで終わったかな、そう思った瞬間にそれは起きた。
激しく叩くような音と雷によって浮かび上がったいくつもの手型。
誰かのいたずらなんてことはありえない、ここは2階だ。なら飛んできた葉が偶然手の形になったのか?
しかしそれならここまで音なんてしない。
この不可解な現象、もしかしたら怪異の仕業なんじゃないか。
そんな事を考えた直後、また叩く音が鳴った。何か窓のところにいる…!
「うわぁ!こんなんじゃ宿題どころじゃない!」
僕は布団に潜って無理にでも寝ようとした。
怖い話をするの霊が寄ってくるだなんて言うし、さっきホラー番組を観てたのが関係しているのか?ちくしょう、観ろと勧めてきた友人に明日文句言ってやる。
そんなことを考えるうちに眠ってしまい、気がつくと朝になっていた。
嵐もすっかり去ったようで、外は綺麗に晴れている。だが僕の心は晴れやかではない。謎の現象と終わってない宿題。
時刻を見ると、既に9時を回っていた。
「やばい!遅刻だ!」
宿題を忘れて、遅刻まで。これはこっぴどく叱られるな、そんな事を思いながら急いで学校に向かった。
教室についた僕はもちろん先生に叱られた。
昼休み、僕は友人と昼食を食べている時に昨日の話をした。
「そんな事言っちゃってさー!宿題すっぽかした言い訳としては下手だぞ?」
「嘘じゃないってば!本当に怖かったんだからな!」
「すまんすまん、でも本当に昨日の番組は怖かったよな。お前がそうなるのもわからんでもないよ。」
…信じてもらえないか。そりゃそうだよな…
放課後、帰り道のあちこちに散らばった葉を見て嵐の夜に現れた怪異を思い出す。
「しかし本当にあれはリアルだったな。心霊的なものをリアルと言うのは正しいのかわからないが、いやはや現実感があった。そう、窓を叩く音が…」
どんっ!!
突然背後から聞こえた何かを叩くような音が聞こえた。驚いた僕は、恐る恐る振り返る。
人影…?2m近くあるその体は全身真っ黒で、なぜかピントが合わない、ぼやけて見える。それに腕が異様に長い。本能が告げる。これはやばい、逃げないと…!
僕は走った。あれが何なのかはわからないが、逃げるに越したことはない。
しかし最悪なことに、その影は追いかけてくる。どんどんどんどんと周りの物を殴る音が近づいてくる。
このままじゃ追いつかれる、どこかに隠れなければ!
ちくしょう!ああ神さま、何処か隠れられる場所はないですか。そう考えながら走っていると、角を曲がってすぐのところに神社を見つけた。もう体力も限界だ、僕はそこに逃げ込んだ。
息を整えながら木の陰から道路を覗く。影は来ていない。音も聞こえない。どうやら上手く撒けたようだ。
落ち着いてきたので周りを見る。ここも嵐の影響だろうか、地面に枝葉が散乱している。その奥に社殿を見つけた。この神社のおかげで危機から一旦は逃れられたんだ、一応お礼でもしていこうか。
そう思い社殿の方へ向かうと、随分と寂れた建物が見えてきた。
こんな神社近所にあったかな、そんなことを考えていると、
「あーもう!終わらないのじゃー!」
声が聞こえてきた。
近づいて見てみると、声の主は黒髪の少女だった。巫女装束を纏い、せっせと掃除をしている。
彼女の周りはたしかに大変なことになっていた。参道や社殿の周りが完全に落ち葉で埋まっている。
すると気配を察したのか、少女がこちらを向く。
ガラスのように澄んだ黒い瞳でこちらを見つめてくる。まるで人形のようだ。思わず見惚れていると
「なんじゃお主は!そんなとこに突っ立ってないで手伝わんか!」
…命令された。
「いやあ助かった、感謝するぞ!わらわはミタマ。…えーっと、お主は?」
「大木恭平だ。」
「そうか、恭平よ、何かお礼をさせてくれ。」
なんだ、随分と律儀だな。
「どういたしまして。でも特にしてほしいことはないかな。」
「いいや、お主は今困っていることがあるじゃろう。」
ミタマは見透かしたように言った。
「…ああ、何かよくわからないものに追われているんだ。この神社を訪れたのも、そいつから逃げるためなんだよ。」
少し躊躇いながらも言う。
「そうじゃろうな。でなければこんな所に来ることはない。」
え?それはどういう意味だ?
「しかし詳しく聞かないとどうしようもない。こんな所ではなんだし、お主の家に連れて行ってはくれんか?」
一瞬、承諾しようとしたがあの影のことを思い出した。彼女が追われたら無事では済まない。
「申し出はありがたいんだけど、やめておくよ。」
「ああ、わらわの事を心配してくれておるのか?それなら安心せい、むしろわらわと一緒の方がお主も安全なのじゃ。」
その方が安全?たしかにこの神社にあの影は入ってこなかった。彼女には何か霊的な力でもあるのだろうか。
「…そうか、ならお願いするよ。」
神社を出る。いつもの通学路が、なんだか不気味なほどに静かに思えた。
「そういえばお主のそれは制服だな?学校からの帰り道とみた!なあ、どんな学校なんじゃ?聞かせておくれ!」
その静寂を破るようにミタマは話を投げかけてきた。
「うーん、別に進学校でもなければ、有名人の出身校でもない、普通の高校だよ。聞いて面白いことなんて何も…」
「つまらないなんてことはない。わらわには縁もゆかりもない世界の話じゃ、聞かせておくれ。」
「そうだなぁ、なら授業の話でも。体育の斎藤先生なんだけどね…………
安全とは言われたが、それでも一抹の不安を抱きながら雑談は続く。
他愛もない話をしているうちに、家に着いた。本当に何事もなく帰ってこれた。彼女の言った通りだ。感謝を述べようと彼女を見ると、ぐったりしている。
神社からここまでそう遠くないんだが。インドア派なのかな。
鍵を開けて家に入ろうとすると、
「待つのじゃ。その前にやっておくことがある。」
そう言うと彼女はお札を取り出し、庭の四方に貼り付けた。その時庭をじっくり眺めていたが、そんなに珍しいのだろうか、神社の方がよっぽど立派だろうに。
そして自分の部屋に彼女を招き、事の詳細を話した。
嵐の夜に現れた窓を叩く手、そして放課後に襲ってきたあの黒い影のこと。その日見たものや何をしていたかも詳細に。…遅刻したことも一応。
すると彼女は納得したような表情で言った。
「ふむ、話はわかった。その“窓ドン”は今晩中に解決してやろう!」
なんだその名前は。全然怖くないじゃないか。というかダサい。
という言葉がつい口から出る前に
「そうと決まれば休息じゃ!ほら寝るぞ!」
そう言って彼女は僕を引っ張り、共にベッドに横になった。
なんだこの状況は。いたいけな少女と高校生男子が同じベッドで寝る。何かまずいんじゃないか?
だが睡魔には抗えなかった。あんなに走ったんだ、そりゃ身体は疲れてる。
そして僕は眠りにつき……
窓を叩く音で起こされた。
「嘘だろ…!あのお札は効果的がなかったってのか!?」
僕は咄嗟に窓の方を向く。
あの手型だ。昨日と同じように窓を叩き、その跡が張り付いている。
ミタマを起こそうと布団を捲った。が、そこに彼女はいない。
どういうことだ、もしかしたら彼女の身に何かあったのか…!?
するすると窓が開いた。ちくしょう、絶体絶命だ!僕は恐怖で固まって動けなかった。
そして窓から入ってきたその影は…
「じゃじゃーん!どうじゃ!まるでお主の言った通りに再現できたじゃろう!」
…ミタマだった。
手には木の葉や枝を持っている。
こんな時にふざけてる場合じゃないだろう!心霊現象をそうやって道具を使って…ん?
「そう、お主がみたものは紛れもなく木の葉だったんじゃ。昨晩は風が強かった。叩くような音は飛んできた木の枝か何かがぶつかって鳴っていたのであろう。」
言われてみれば確かにそんな気がしなくもない。
「もしかしたら僕が最初に見たのは勘違いだったかもしれない。なら僕を追いかけてきたあの影はなんなんだ?」
「その辺りは終わってから話す。わらわは今からその影とやらを片付けてくるから、テレビでも観ながらそこで待っておれ。」
そう言うと彼女は何処からともなくお札を取り出し、外へ出て行った。
待っていようかとも思ったが、やはり心配だ。僕は彼女を探しに外へ出た。
何処へ行ったか検討もつかない。が、何かを感じる。僕はその方向へ走った。
十字路を3つくらい超えたあたりで声が聞こえてくる。
「祓いたまえ、清めたまえ…」
そこにはミタマとあの影がいた。影は縄に囚われ唸りを上げている。その前で彼女が何かを唱えている。除霊のための呪文だろうか。
「すごい…」
思わず呟いた。
すると彼女はこちらに気付いたのか、振り向きそして
「恭平!?なぜ家から出てきたのじゃ!!早く戻れ!!」
鬼気迫る表情で叫んだ。
その刹那、影が力を取り戻したのか突然縄を引きちぎり、大きく跳ぶ。
標的は僕だ、まずい、殺される…!!
だがその爪は僕に届くことはなかった。
まばゆい光が影を消し去ったのだ。光を放ったミタマは気を失ったのか、その場に倒れ込んだ。
「ミタマ!おい!しっかりしろ!!」
息はしている、体力を使い果たしてしまったようだ。
よかった、だが僕が来なければこんなことにはならなかったはずだ。後ろめたさを抱えながら彼女を抱え、家へ戻った。
とりあえずベッドへ寝かせ、さっきのことを思い出す。
彼女は何者だ?どうやってあいつを倒したんだ?
そんなことを考えているうちに、彼女は目を覚ました。
「ミタマ、よかった…。そしてごめん!待っていろと言われたのに家を出てしまって!」
「いや、仕方なかろう。人の好奇心を抑えることはできぬ。それよりあの影が何だったのか話すとしよう。」
「お主は怪異の類がなぜ生まれるか知っておるか?あれらは全て人が産み出すものなのじゃ。得体の知れぬモノに対する人の恐怖心が集まり、形を成す。昨夜はホラー番組と嵐が掛け合わさり、言葉にしないまでも人々は無意識に普段より恐怖を抱いていたはずじゃ。」
人が怪異を?だが実際に見てしまったんだ、信じないわけにはいかない。
「だけどどうして僕のところに窓ドン、あの影は現れたんだ?」
「それは運が悪かったとしか言えんの。恐怖が人々の間で積もり、お主がたまたま窓の手型を怪異と認識したことにより、恐怖が形を成し窓ドンは生まれたのじゃ。」
「だがあやつもまだ完全ではなかった。実際、あやつが現れたのはお主が恐怖を思い出した時だけであろう?」
確かに、朝は遅刻や宿題のことで考える暇がなかった。学校にいる時は先生に叱られたことや友人に話を軽く流されたことに気が向いていた。
そして放課後、思い返した時に奴は背後に現れた。
「君の言うことは信じるよ。だけどどうしてあんなおふざけをしたり、話を後回しになんてしたんだ?」
「窓ドンはお主の想像から生まれた怪異。お主があやつについて認識すればするほど、その力は増してゆく。だからその想像を崩し、恐怖心を薄れさせ、考えさせない必要があったのじゃ。だがそのせいでお主の好奇心を刺激してしまい、危うい目にあわせてしもうた。すまぬ…」
彼女は深々と頭を下げた。
「いやこっちこそ謝らないといけない。僕があの場で窓ドンを見てしまったせいで力を増し、君に無理をさせてしまったんだろう?ごめん。」
僕も頭を下げる。
「わらわはあれが仕事なんでな、気にするでない。」
そう言って彼女は立ち上がり
「さて、事態も収束したことだし帰るとしよう。お主も達者でな。」
「ああ、ミタマも元気で。また今度あの神社にお供え物でも持っていくよ。」
「…うむ。」
なんだかスッキリしない返答をして、彼女は帰っていった。
次の日、僕はお供え物を買い、家への道を歩いていた。確かこの角を曲がったところに…
そこには空き地しかなかった。
どういうことだ、確かにここにあったはずだ。
ふと彼女の言葉を思い出す。
『そうじゃろうな。でなければこんな所に来ることはない。』
考える。僕は怪異に追われ、苦し紛れに神頼みをしてからあの神社を見つけた。
まさかあの神社は怪異に出会い、神に願う必要のある人間しか入れないってのか…?
巫女装束を着た少女は静かな神社で哀しげに呟く。
「人の想像力とは凄まじい。恐怖が形を成して怪異は生まれる。願いが形を成して神が生まれる…」
「しっかし久々に人間と話せて楽しかった。今頃はもう日常に戻り、わらわに願う必要もないであろうな…」
「よっ。」
「なっ、お主なぜここに!?怪異に怯える必要が無いということは、わらわに願う必要もない、ここに来ることなど…!」
「ミタマに会いたい。そんな願いでいいんじゃないかな。」
「まったく、お主は困った奴じゃのう!」
目の前の小さな神様は優しく微笑んだ。