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「芥川繭子という理由」  作者: 時枝 可奈
34/77

連載第34回。「居場所あるかな」

2016年、11月5日。

都内居酒屋、個室にて。

私の前にビデオカメラをセットし、テーブルを挟んだ向こうでは誠と繭子が並んで座り直し、小さなモニター画面を見つめている。5ヶ月前、あの日。繭子を呼んで来ると言って池脇がスタジオを出ると、私は伊澄と2人になった。そして ━━。

再録にはなるが、あの晩の伊澄の言葉を改めて掲載する。




「なあ。これさ。記事にするとしたらどんなタイトル?」

一人になった伊澄は、振り返る事もなくそう聞いた。

-- 『事件』です。

嘘みたいな明るい笑い声がスタジオにこだまして、泣き疲れた私からも、少しばかりの笑顔を引き出した。こんな人は見た事がなかった。もし私に出来る事があるならば、オロオロしている場合ではないと思った。

「あ、ちょっと待ってて」

そう言って伊澄はPAブースに入って行くと、間もなく缶ビールを4つ抱えて戻って来た。

冷蔵庫が中にあるようだ。ここへ通うようになって3か月、スタジオでお酒を飲むメンバーを見た事もなければ、もちろん外で一緒に飲んだ事もない。今夜が初めての事だ。

-- うわー、ありがとうございます!

「まあまあ、変な所一杯見せたからなあ。…口封じだよ」

-- あはは。

「じゃあ、お疲れさん、乾杯。…乾杯は変か」

伊澄と2人になるのは初めてではないが、バンドマンとしての姿しか知らない私にとっては、今日は初めて尽くしの日となった。

-- 乾杯。不思議ですね。なんだか、私今なにやってんだろうって思います。

「俺もだよ。なんだろうな、今日は」

-- 聞いていいですか?

「どうぞ」

-- 未練はないですか。

「っはは。あー。まー。どうだろう。こんな事言うと気持ち悪いかもしれないけど、全然終わった気がしないな、まだ」

-- お二人の関係ですか?

「うん」

-- それは、どういう。

「あいつも言ってたけどさ。好きだとか大切に思う気持ちって、そんな簡単に消えたりするもんじゃないって俺も思うんだよ」

-- はい、そうだと思います。

「実感がないだけって言えばそれまでなんだけど。別れたって言ってもお互い死んだわけじゃないし、またどこかで顔合わすこともあるだろう。別々かもしれないけどこの先も生きてくわけだし、何かが終わったって言うにはまだ早いかな。ただ、もう別に俺はいいかなっていう思いも、あるにはあるかな」

-- 別れる事を受け入れるという事ですか。

「それもそうだし、そもそもが、今日までの毎日が俺にとっては十分出来過ぎた時間だったんだよ。よく15年続いたなって思うよ。それに、どうせあと何年か何十年かしたら俺も死ぬだろ。だったらもういいかなって。また誰か別の女と出会って新しい関係をどうこうって話は、もういらないな。誠だけでいいよ。…うん、泣くとは思ったけど早いなぁ。聞いといてそれはないって」

-- そういう話は、もう昨日の段階で済まされていたわけですか?

「いやいや。俺も内心びっくりはしたからね。でもさっき言ったみたいに、足掻いてどうなる事でもないだろうなって、それだけは思ったんだよ。あいつがそうしたい以上、最後は黙って受け入れてやるのが男らしくて良いかなって。だってさー、何度も言うようだけど15年って、簡単に言うけど長いと思うんだよな。聞いたと思うけど、俺らあいつが15の時に知り合ってんだよ。15歳から30歳になるまでの女として一番、良い時期って言うとやらしい話になるけど、そういう思春期から大人になってく時期をずっと隣にいて過ごしてくれたんだって思うとさ。例えあいつの中にずっとアキラがいたんだとしてもだよ。それでも俺は感謝する。俺だって心地良かった、あいつといた時間はずっと。…俺さ、今だから言うけどめちゃくちゃあいつの顔好きなんだよ。それは多分綺麗だからとかそんなんじゃなくて、あいつだからだと思うんだよな。誠だから、あの顔だからじゃなくて誠だったから、横にいて笑ってる事が凄く心地良かったんだって思ってる。だから今でもそうだけど、こんな風に終わっといて信じられないかもしれないけど、俺からはあいつの嫌いな所一個もないな。普通どっかしらなんかあんじゃん、15年も一緒にいたら。同棲しなかったってのも関係あるかもしれないけど、いつも笑ってくれてた気がするんだよ。少なくとも俺がバンドに打ち込んでこられたのはそれを許してくれてたあいつのおかげだと思ってるし、色々支えてもらったっていう実感はあるよ。…そう考えると、あいつやっぱりスゲーな。アキラへの思いをずっと抱えたまんまで、それを隠したまんまで、俺の横にいて、それでも笑っていられたんだから、スゲーなあ。優しい奴だと思うよ。…良い15年だった」

-- はい(それしか言えなかったのだ)。

「はい。あ、肉まんあるんだった、これで飲むか」

-- 差し入れはいつも肉まんでしたね。翔太郎さんの好物なんですか?

「どうだっけな。忘れた。まあ何にせよこれでしばらく食うことはないな」

-- 付き合うきっかけは、翔太郎さんの方から?

「だったと思うよ。具体的なきっかけは曖昧にしか覚えてないけど」

-- 人生、何があるか分かりませんね。

「なあ」

-- 取られた悔しさのようなものはないですか。

「アキラに?んー、ないかな。負け惜しみかもしれないけど、取られたと思ってない。あいつは死んだんだし、実際に15年付き合ったのは俺だから。変かな。15年得したくらいに思ってるよ」

-- あっぱれです。

「馬鹿みたい?」

-- いえいえいそんな。ただ私は我慢出来ないですけどね。嫉妬で狂います。それにしても、最後まで綺麗な人でしたね。ちゃんと、面と向かって感謝と謝罪を述べておられた。普通言えませんよ、あんな風には。

「サバサバしてたなー。まあ、その方がいいよ。がんがんに泣かれても困るし、今のあんたみたいにな」

-- 最初、こういう話になるとは思ってもみなくて一瞬は、なんだあの女!って腹立ったんですけど、肉まん2袋抱えてやってきた誠さん見て、あーダメだ、嫌いになんかなれないって思っちゃいました。

「あははは!そりゃーまーなんというか、ありがとう」

-- 色々想像しちゃいました。きっと、いつもより多めに買って来られたのも、これで最後だっていう思いがあったんだろうな、とか。

「そうかもしれないな。…自分で言って自分で感動泣きとかしないでくれるかな」

-- で、本当なんですか。

「何が?」

-- URGAさんとの関係は。

「何もないよ」

-- ちょっと信じられないです。

「っはは! 女って本当そういう所面倒だわ。何もねえよ、それはあの人に対しても失礼だろ」

-- さっき、一度スタジオに戻られた時電話していた相手は、誠さんですか、URGAさんですか。

「何でそんな事答えなきゃいけねんだよ(笑)」

-- 女だから言いますけど、URGAさんにはあると思いますよ、翔太郎さんに対する気持ちが。

「あるわけねえだろ(笑)。仮にそうだとしても、俺達の間に何かあったかって言われても何もないとしか答えられない」

-- ああ、今後そのご予定があるとか。

「あ、え?酔ってんのか?」

-- 酔ってますよ。色んな感情が溢れ過ぎて吐きそうですもん。で、どうなんですか、URGAさんとビッグカップル誕生なんですか。

「誕生はしないと思うぞ」

-- URGAさんですよ? 断る自信ありますか。

「ないよ、ないない。断るもなにも、そんな事言われないって。例え何かの間違いで、そういう話になったとしても、今それをあれこれ考える余裕がそもそもないよ。本当にさ、また誰かとイチから付き合って、信頼とか愛情とかそういうのを育む時間を持つくらいなら俺はバンドに集中したいよ」

-- なるほど。URGAさんの事はどう思いますか。

「どうって?」

-- ミュージシャン同志ならもう絆に近い信頼がお二人には生まれつつあると思います。そこを飛び越えて人生のパートナーとして見る事が出来る人ですか。

「見るだけならなんぼでも見れるよ。そりゃあれだろ、あの人に魅力があるかないかって話じゃねえか。あるに決まってるだろ。実際に見て触れてあの人の凄さや良さに気づけない奴はただの不感症だよ」

-- だったらもう幸せになって下さいよ!

「え?」

-- 幸せになって下さい!

「どうした。幸せだよ俺は。どうしたんだよ」

-- あんまりだと、思って。

「同情かよ。面倒くせえ酔い方しやがって」

-- いけませんか。幸せになってほしいって願う事は面倒くせえですか。

「ごめんごめん、もういいもういい。竜二全然帰って来ねえじゃねえか。ちょっと電話してみる。…何で俺が謝ってんだ」

-- 私に出来ることはありませんか。なんなら、私URGAさんの連絡先分かるんで、何か伝えたいことあったらすぐにでも連絡取ります。ちょっと早めに帰って来てほしいとか。

「大丈夫。連絡先なら俺も知ってるから」

-- やっぱりURGAさんなんですね、さっきの電話。

「あははは!スゲーな!時枝さんスゲーな!久々にしてやられたわ!」

-- ええー、やっぱりなんか嬉しいです、もしそうなら、嬉しいってのは誠さんに失礼か、でも、うん、バランスですよバランス、終わりがあってはじまりがあるんですよね、そう、そうこなくっちゃあいけませんよ、人生はね、何があるか分からないけど、何があっても良いんですよ、特に男と女ってのは、よく分からないくらいがちょうどいいバランスなんですよ、きっとね、私はそう思いますよ、ちょっと私の方からも連絡してみますね、あ、ツアーに出ちゃいましたけど、どうしましょ、明日連絡したって、もう海外ですね、あー、ニアミスって奴ですねこれ、ニアミス、あー、しくじったなー、こういう所がねー、人生って上手くいかないなーって思う瞬間んすよねー」




終わり方が時枝のかつてない醜態だった事もあって、最後の最後には誠も繭子も少しだけ微笑んでくれた。しかしそれでも見せた事を後悔してしまうくらい、2人は目と言わず顔全体を真っ赤にして、唇をぶるぶると振るわせて泣いた。映像が終了してもしばらくの間は誰も言葉を発せなかった。無駄だと分かっているせいか、2人とも涙を拭う事をせず、ただ空中のどこか一点を睨み付けて、思いを巡らせているようだった。

途中何度も、誠が怒ったような、嘆くような表情を見せたのが印象的だった。余りにもストレート過ぎた伊澄の言葉に、覚悟を決めて別れたはずの彼女の気持ちがあっさりとひっくり返されたように見えた。今こうして戻って来た以上ひっくり返るという表現は適切ではないが、そのぐらいの衝撃を受けている様子だった。

正直繭子の涙が誰に対しての物なのかは分からない。頬杖をついて画面から眼を背け、伊澄の言葉に耳を傾けながらただひたすら泣いていた。その表情には強さすら浮かびとても美しかったが、感情まで読み取る事は出来なかった。

-- 誠さん、全然一方通行なんかじゃなかったですね。

「…っはは、そうだね」

なんとか答えた関誠の笑顔が悲しみに歪む。テーブルに肘を置いて半ば顔を覆うようにしてモニターを見つめていたが、それすらも辛い様子で手首に自分の両目を押し当てる。首筋が張り詰め、物凄い力で震えを止めようと頑張っているのが分かる。

「私は、あの人に」

-- …はい。

「…なんて事をしたんだろう」

多くの涙と一緒に吐き出した誠の言葉に、繭子が振り向いた。

震える誠の肩に手を置こうとして、やめる。そして唇を噛んで、反対側を向いた。

「こんなはずじゃなかったんだ」

彼を悲しまさせる事だけは避けたかったはずなのに。

誠の涙と震える声がそう物語っていた。

-- この映像を誠さんに見てもらえる日が来る事を毎日願ってきました。結局これは今日まで誰も見ていません。大成さんが一度見ようとしたんですが、開始直後すぐに止めて「これは無理な奴だ」と仰って以来、私の方から誰かに話す事もしませんでした。昨日誠さんが戻っていらして、一つ肩の荷が下りました。毎日家に帰ってデータをバックアップしてるんですが、この映像だけではカメラから移動出来なくて困りましたよ。いつ、誠さんが戻って来ても良いように、ずっとこうして持ち歩いていましたから。

「…ありがとう」誠はそう言ってなんとか微笑みを浮かべ、「見れて、良かったよ」と言葉を繋いだ。

「私見て良かったのかな」

と言って繭子は苦笑した。

「あーあ。ホント格好良いなーちくしょー」

と繭子が誠の顔を覗き込むと、

「揶揄わないでよ、今超打たれ弱いから」と彼女は視線を外す。「…でも、おかしな所がいくつかあったな」

-- どこですか?

「えーっと、そう。肉まんは翔太郎の好物じゃなくて私の好物だよ」

-- 繭子に聞きました。翔太郎さんに初めて買ってもらったんですよね。

「そう」

-- コンビニじゃないんですね。

「違う。翔太郎の昔の後輩が経営してる中華屋さんで出してる奴なの。本当に美味しいんだよ。それにそこのお店じゃないと冬以外買えなくなっちゃうからね」

-- そうですね。

「それに、付き合い始めももちろん翔太郎からじゃなくて私から。告白というか、もう強引に側から離れなかったのが始まりなんだけどね。あとね、あと、分かり切った事だけどさ…私が翔太郎を支えた事なんて一度もないよ。私の方がずっと支えてもらってたんだから。そんな、…うーわ、もうこれダメだね、ごめん」

そう言って誠は俯き、止めようもない涙を流れるままにした。

繭子は誠の体に一切触れようとせず、隣で三角座りをしたまま私に言った。

「でも、URGAさんて本当に、翔太郎さんに気持ちあるかなー」

-- 繭子にはそう見えない?

「んー、実際の所はそりゃ分からないよ。だけどもし、んー、どう言おうかな。…こんな言い方失礼になっちゃうかもしれないけど、あんな風に、いつものURGAさんみたいに割と大っぴらに出せる気持ちって限界があると思うんだよね」

-- 限界って?

「本当の本当の気持ちはそんな簡単に言葉に出せないんじゃないかなって。分からないよ、そういうの全部言葉に出して伝えて行こうって決めてる人なのかもしれないし、彼女にとっては飄々と話してるようでも、実は心臓バックバクなのかもしれないし。だけどちょっと違うと思ってるかな、私は。もっと、なんだろう、これ違ったら本当に彼女を傷つけちゃう事になるから怖いんだけど、もっとあの人は、全然遠い所を見てると思うな」

-- 遠い所。

「良い悪いの話ではないよ。だけど私が感じるURGAさんの魅力って言葉に言い表せないぐらい大きくて、んー、漠然とした? 違うか、でもそういう捉えきれない儚さにあったり、温もりにあったりするんだよ。歌詞が良いよねとか、歌が上手いよねとか、あの曲泣けるよねっていう一つの言葉や感想で表現出来ないもっと上の方にある物、というか。だから、恋愛や結婚が近場の安全な夢っていう印象になると、そんな風には全然思ってないから困るんだけど、彼女はそこを飛び越えたもっと先の遠い所を目指して歩いてる人なんだと思う。んーと、結局何が言いたいかって言うと、URGAさんが私達に見せてる翔太郎さんへの好意は、言い方あれだけどあの程度でいいならもうとっくの昔に私の方こそ、繭子はきっと翔太郎さんと付き合いたいんだろうなって皆に思われてたと思うんだ。本人前にして本気のトーンでは言葉に出さないし、出せないけど、めちゃくちゃ好きだし」

-- うん、それを言い出したら私も好きだわ。

「そうでしょ。うん、だから、そんな感じ。まあ、私はURGAさんでも反対はしないけどね」

-- 隣に誠さんがいてもそれが言えるんだね。

「誠さんにも、URGAさんにも、翔太郎さんにも。皆等しく幸せになる権利はあると思うよ」

-- すっごいな繭子は。凄い話聞いた。誠さんがね、繭子がここへ来るまでに、ガールズトークは繭子の方が得意だって教えてくれたの。本当だったよ。

「…いつガールズトークした?」

-- えええ?

ひとしきり泣いた誠がようやく笑い声をあげる。顔は下を向いたままだ。

両目をギュウっと閉じて、パッと開く繭子。

「はー、めっちゃ酔った」

-- ビール飲み過ぎだって。何杯目?

「え、4?」

-- うそうそ、もっとだよ。6? 7? 強いんだね。

「いやいやビールだし」

-- 今酔ったって言ったでしょ(笑)。

「あははは。あのねー、良い事教えようか。誠さんはね、めっちゃくちゃ翔太郎さんの事好きだよ」

-- 知ってるよ。

「さっきもさ、全然大した男じゃないみたいな事言ってたけどさ、あんなん大嘘だからね。もう超デレデレするし、甘えるし、大人しいし、でも言いたい事言うし、綺麗だし、可愛いし、ポンコツとか平気で言っちゃうけど、あんなのね、ただの笑い話だよ。もうね、めっちゃめちゃ好きなの私知ってるから。そこはね、間違いないよ」

-- うん。知ってるよ。

「ダメダメ、もっともっと。もっと凄いから。私、そういう誠さんが大好きなの。もう泣きたいくらい好きだから。だからトッキーありがとうね。私からもありがとう」

-- 私は何もしてないけどね。けど役に立てて良かった。

「よし、カラオケ行こうか!」

急に繭子が目を輝かせた。

-- え? 行かないよ、何言ってんの、結構酔ってるじゃない。

「え、行くよ!誠さん久しぶりに行こうよ」

勢いよく誠の肩を揺さぶる。誠は肩から上をグラグラさせて笑う。その両目はまだ涙に濡れている。

「ほら、誠さんが笑ってくれるあの物真似やったげるから」

-- 物真似?

「行く?」

-- 行かなきゃ教えない的な流れ?

「流れ」

-- 記者魂を分かってるねえ。悔しいけど行くしかないわ。誠さんは大丈夫ですか、お体の具合は。

「ん?うん、それは多分大丈夫」

「明日仕事?」

「休み」

「じゃあ行こうよー」

「分かった分かった、揺するな」

しかし正直私は不安だった。繭子のこんな状態を見た事がなかったからだ。この高いテンションが良い事なのか悪い事なのかも分からず、初めて見る子供のような彼女の勢いにただ引っ張られているに過ぎない。この時の私は決して雑誌記者と呼べるような距離感で仕事が出来ているとは言えなかった。

唯一の救いは、考えるより先に伊澄翔太郎へ連絡を入れていたことだ。経験から来る条件反射だった。これまでお酒の席で取材をすることも多くあった為、誰がどのくらい酔っているかを見極める事も自然と気を付けるようになっており、今夜の繭子は普段とは違うと思った時には、トイレに立った振りをして伊澄に電話していた。伊澄は少し迷惑そうだったが、場所を聞いてくれたので安心した。




あえて残さなかったのでここから先の映像はない。

本来はこういったプライベートな部分を書き起こすべきではないと思っていたが、メンバーと協議の上『面白いから』ここに残す。

思った以上に繭子は酔っていた。

誠の話によると、居酒屋で合流した段階でもう既に出来上がっている印象があったらしい。私はそこまでとは思わずせがまれるままビールを注文した事を悔やんだ。

某カラオケチェーンに場所を移した頃には、真っ直ぐ歩く事すら怪しい状態だった。意識ははっきりしているのだが、やたらとぶつかって来るようになり、終始ケラケラと笑っていた。こちらもそんな繭子を見ているだけで楽しかったし、酔っていることは分かっていながら、特に深く考えなかった。

そして忘我の域に達している繭子の歌声は、マユーズの時とはまた違う荒々しさと女性らしい魅力が同居しており、繭子贔屓の私にしてみれば貴重なお宝ショット満載、といった至福の時間ですらあった。

結局繭子の言った「物真似」とはマキシマムザホルモンの「シミ」という曲の事だった。

ホルモンはボーカルパートを取れるメンバーが3人もいる稀有な実力派ロックバンドだが、繭子は全てのパートを1人でこなす事が出来た。池脇竜二ばりのマイクパフォーマンス、絶叫、アニメ声、しなり、そして咆哮。それはそれは、物凄いテンションと勢いだった。しかしいかんせん酔い過ぎだった。

途中からは関誠が支えないと立っていられなくなり、うるさい音楽が苦手だという彼女では辛そうなので私が代わった。

1時間程経った頃、トイレに行った繭子が戻らず、心配になった私が様子を見に行った。

廊下の突き当り、男女別のトイレの前で、繭子が2人の若い男にナンパされていた。所謂壁ドン状態にあって、繭子はどこか虚ろで意識があるのかないのか見た目には分からなかった。私が繭子の名を呼んで駆け寄ると、気づいた男のうち一人が繭子の肩を抱いて引き寄せた。

「触んなよ!」

繭子が叫び、男を肘で突き飛ばした。相手も酔っている。ふらつきながらも怒りに任せて右手を振り上げた。私はそちらに体当たりし、繭子の体を抱きとめた。座り込んでしまった繭子を庇って、私もその場にしゃがみ込む。

幾つか混じりあった男達の怒声が頭上から聞こえ、硬い物が私達にぶつかってきた。私が思わず悲鳴を上げると、繭子が立ち上がって「気持ち悪いんだよお前ら!」と叫ぶ。何倍にもなって男達の怒声が返ってくると身構えたその瞬間、聞こえたのは誠の声だった。

「翔太郎!手を出したらダメ!」

私は目をつぶっていた事に気づいて、見上げる。伊澄翔太郎がそこにいて、私が突き飛ばした男の胸倉を掴んでいた。彼の右拳は大きく振り上げられていた。

「ううー、気持ち悪い!触られた!めっちゃ気持ち悪い、もうなんなのこいつら、めっちゃムカつくんだけど!」

涙を流して両腕を擦る繭子。伊澄は胸倉を掴んだ左手で男を突き飛ばし、繭子を誠の方へ連れていく。そして私の手を掴んで引っ張り上げると、「ごめんな」と小さく言った。

もちろん若い男2人はそれで治まるはずもなく、よく分からない言葉を叫んで伊澄に食ってかかる。そこへ店員が2、3人現れて止めに入ってくれた。何人かの目撃者が、当事者は若い女と男2人で、後から来た伊澄は助けに入っただけだと証言してくれた事で大事には至らなかったが、酔った繭子がずっと興奮状態のまま「かかって来いよお前ら!おい!気持ち悪いんだよ!」と叫んでいた。誠は繭子のフードを強く引っ張って被せ、強引にその場から離れてようやく落ち着きを取り戻した。

伊澄の車の後部席に3人並んで乗せてもらった時、初めて震えが来た。

一言も口を利かない私を気遣って、伊澄が何度も「大丈夫?」と言ってくれたのだが、余計泣けて仕方なかった。繭子は完全に意識を失ってしまい、誠の腕の中で眠りに落ちた。

「なんで?」

と伊澄が聞くと、

「全部私が悪い。絶対、怒らないであげてね」

と誠が答えた。

「こんなことで怒れる程真っ当な人間じゃねえよ」

前を向いたまま、伊澄はそう小声で呟いた。

誠が私の顔を覗き込み、いける?と囁いた。はい、と答える私の手を、彼女はぎゅっぎゅっと2回握ってくれた。たったそれだけで私の震えはぴたりと止まった。こういうやり方も、昔伊澄に教えてもらった方法なんじゃないだろうかと、幸せな妄想が膨らんだ。





関誠に責任があるなどと、私も繭子も思いはしない。ただ彼女が自分に対してそう言いたくなる気持ちだけは、少し理解出来るのだ。

昨晩、バイラル4の練習スタジオで自分の病を打ち明けた関誠に、ドーンハンマーのメンバーは打ちのめされるような衝撃を受けて強がることすら出来なかった。ある者は頭を抱えて咽び泣き、ある者は天を仰いで悲痛な叫び声を上げ、ある者は過呼吸になり、ある者はガタガタと震え、ある者は我を忘れた。

そんな時だった。

「大丈夫!」

それは叫びにも似た関誠の声だった。

「私、絶対死なないから。その為に翔太郎と別れてすぐ、おっぱい全摘の手術受けたんだよ」

「…全摘? …全部?」

絞り出すような声で繭子が顔を上げて言った。

「そう。全部取った。両方。だから今ぺったんこ。それが、5ヶ月前の話」

少しだけ、話が見えたような気がした。

背を向けていた池脇が振り返り、神波が目を見開いて誠を見つめる。関誠は身長が170cmある。黒のロングコートを着てそこに真っ直ぐ立っているだけで目の眩むような美しさ、格好の良さだ。少なくとも今彼女には、乳癌の診断を受けて両乳房全摘出の手術を受けたような悲壮感はない。それどころか、やっと本当の事を言えたとばかりに、その顔には幸せそうな晴れやかさすらあった。

「ごめんね。皆には盛大な嘘をついたんだ。

嘘が嘘だってバレたら意味がなくなるからさ。

天国のアキラさんに協力してもらって、本気で嘘ついた。

私は、翔太郎以外の人を好きになった事は一度もないです。

こんな重たい事本当は言いたくないけどさ、こうやってここに立って、

皆に謝りたいっていうのは、5ヶ月前からの私の願いだったから。

オジサンが約二名程、何やら疑ってたような気もするけど、

出会ってから一度だって浮気したこともないし、

もう、言わないと損するだけだから言うけど、

ずっと好きなまま今日まで続いてるよ。

最近あんまし言ってこなかったら、懐かしいでしょ。

はーあ!やっと言えた!

…乳癌が発見された時、あー、私死ぬんだって思ったよ。

アキラさんでも勝てなかったものに私が勝てるわけないって、そう思った。

だから覚悟を決めた。

だって翔太郎と付き合ったまま私が死んじゃったらさ。…また…。

もう翔太郎のあんな悲しい顔は、もう、二度と見たくないんだよ。

私アキラさんが死んだ時、これから一杯翔太郎を笑わせようって決めたんだ。

翔太郎の横でずっと笑って生きようって。

思い返せばそれはもう、本当言えばもっとずーっと前から決めてた事だから。

ガタガタに調子崩して、皆に会いにこれなかった奴が何偉そうに言ってんだって、

思われるかもしれないけどさ。

皆のおかげでなんとか笑顔で戻って来れてからはずっと、

もう悲しい思いや寂しい思いを皆が味わわなくていいように、

めちゃくちゃ皆を、…ううん。

翔太郎を笑わせてやるんだって、それだけ決めて生きて来た。

だから今回の事は全部一人で決めて、皆と別れて、手術を受けて、治療を始めた。

それでももし駄目だった時は、誰にも知られなくていいって、そう思ってた。

けど、自分でもびっくりなんだけどさ。

私、皆と知り合ってから5ヶ月も翔太郎に会わなかった事がないから、

実を言うとそれが一番辛かったよ。

ここで翔太郎にありがとうを言って、先の見えない夜を過ごしたのが一番辛い日。

二番目に辛かったのが、このまま癌に負けて皆ともう会えないままいなくなるって想像した日。

三番目に辛かったのが、30年ここにあったおっぱいを無くした日。

本当は温存療法でも良いレベルの小さなガンで、早期発見の、非浸潤性。

癌は片っぽのおっぱいにしかなくて、先生にも、大丈夫ですよ、治しますって言って貰えた。

嬉しかった。嬉しくて一杯泣いた。

だけどそれでも私、怖くて怖くて全然安心出来なかった。

先生と何度も相談して、迷惑かけちゃうから事務所にも報告して、今後の事を考えて、

再発や、予防の事を一杯話をして、その結果全部取って下さいってお願いしたの。

もちろんそれでも、不安は消えない。

だけど、もう翔太郎と一緒にいられないとしても、

皆に嫌われて別の道を行くんだとしても、

めちゃくちゃ寂しいのは分かってたけど、それでも私は、生きていたかった。

もう本当に、最後はそれしか考えられなかった。

生きてさえいれば、また皆の事見れるからさ。

CDだって聞けるし、こそっとライブにも行けるし。

ラジオも、PVも、インタビューもさ、私生きてないと駄目じゃんか。

どんだけ皆が頑張ってもさ、あの世からは見れないんでしょ?

だから私も頑張ったよ。

手術して、退院して、リハビリやって、お薬で様子を見ながら、5ヶ月。

なんとか、ここに戻ってこれた。

だけど、よく考えたらさ、私の方から勝手にサヨナラしてるからさ、

どんな顔してここに来て良いかずっと分からなかった。

…まあ、なんだかそれもこれも、どうでも良いような気分でもあるんだ。

私まだ生きてるしね。

とりあえず、勝ったし。

後はもうなんだって平気。

うん…色々想像したよー。

繭子にも織江さんにも嫌われただろうなー。

最後まで大成さん優しかったなぁ。

竜二さんがいれば、…翔太郎はきっと大丈夫だよね。

大丈夫であって欲しい。


だから、…本当にごめんなさい。


翔太郎!私この15年で一番頑張ったよ!褒めてくれる?


それから、…私まだ翔太郎の側に、居場所あるのかな」







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