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かたちのないものについて 04.


「リズ、見てごらん」


 ここに来て一週間が経とうとした頃、レオーニさんが夕食中、数枚のパンフレットを差し出した。見れば“家庭教師”だの“優秀な個別指導”だのの言葉が躍っている。


「僕としては最初は家庭教師についてもらうのがいいと思うけれど、個別指導なら塾も選択肢の一つとしては悪くない。同じ歳くらいの女の子と話すのは、いい刺激になると思うし、彼女達から学ぶことだってたくさんあると思う」


 どうかな、とレオーニさんは私を見遣った。


「どうって言われたって……」

「ゆっくり考えてくれればいいから」


 時間はいくらでもある。そう付け足して、レオーニさんは話を終えた。テーブルに残されたのは、いくつかのパンフレット。入浴を終え、それらをベッドの上で広げた。

 よい学校へ入るため。よい仕事に就くため。成績を保つため。きっと様々な理由でみんな学ぶんだろう。私は人生で一度も学校になんか通ったことがない。生きていくのに必要なことは全てジャンさんから学んだし、それ以外のことは本や新聞が教えてくれる。それで満ち足りている。

 けれどそれを、レオーニさんは可哀想だと言う。


『いつか捨てられたとき、生きていけないだろう? 』


 その言葉は正論だ。私はあの街でジャンさんとブライスさんを失ったら、ろくに生きていけないだろう。あの街で私がこの歳まで生きてこられたのは運だ。

 レオーニさんの妹のような人生を歩む人間も、決して少なくはない。そういう人間を何度も見た。

 そして私とそういう人たちの違いは、たいてい努力や素晴らしい行いによるものではなくて、ただの運。いつか運が尽きれば、次は私がそうなる番かもしれない。


 正論、正論、レオーニさんの言う言葉は全部正論。

 でも、どれだけの正論が投げかけられたって、なんにも響かない。


「……私、おかしいのかな」


 泣きたくなった。

 夜は静かに部屋を包み、月明りが孤独を追い立てる。それに捕まらないようにそっと目を閉じた。こんなに心細くなったのは、ずいぶん久しぶりかもしれない。


 せめて夢ではジャンさんに会いたい。カリタスの厨房で、パツパツのコックコートを着た彼が見た目に似合わない繊細な手つきで、美しい、宝石のようなチョコレートを生み出す姿が見たい。

 そして、私は彼の作ったチョコレートを配達用のバックに詰め込んで、あの人の家に向かう。チョコレートを囲んで、甘い幸福に浸る。「リズ」と名前を呼ぶ彼の頬に触れたい。キスしたい。あふれ出る感情一つ一つを言葉に乗せて、あの人へ届けたかった。

 ジャンさんの言う通りだ。こんなに溢れて止まらないのに、愛は目に見えない。形を与えて、目に見えるようにしてやらなければ、だめだったのだ。もっと、もっと、ちゃんとーー




04.




 ――リズ。


 あの人の声が頭の中で響いた。

 ゆっくり目を開ける。部屋の中は薄暗い。いつの間にか寝てしまっていたようだ。今何時だろうか。少し肌寒い。


「リズ」


 ふと、誰かの手が肩に触れた。


「リズ」


 一瞬、目の前の光景が理解できなかった。もう一度軽く肩を揺すられながら「リズ」と心配しきった声が降ってくると、震えた声が出た。


「ブ、ライス、さん?」

「よかった、リズ……」


 ほっとしたような彼の顔を見ると、ぶわりと涙が溢れた。


「……ブライス、さん」

「遅くなってすまなかったね」

「っ、ブライスさん」


 飛びつくようにその人の首に手を回した。シトラスと火薬の香りは間違いなくブライスさんの香りだった。

 夢でも見ているんじゃないかと不安になって、私は譫言のように何度も名前を呼びながら、ブライスさんの頬に触れた。


「ブライスさん……ブライスさん……」

「大丈夫、いるよ」


 涙を掬うように何度も降ってきたキスが、彼がいることが本当だと教えてくれた。


「会いたかったです……」

「俺もだよ、リズ」


 ブライスさんは私をそのまま抱え上げた。細身のブライスさんが私を余裕で抱えたことに驚いて顔を上げると、彼は「軽いよ」とふわりと笑った。


「痛かったり、苦しい所はあるかい?」

「ありません」

「よかった。さあ、帰ろう」


 その三文字はあれほど待ち望んだ言葉だったのに、私の心は何かに引っ掻かれたように痛んだ。

 その時私がどんな顔をしたのかは、ブライスさんの表情を見ればすぐに分かった。彼は怪訝そうに眉根を寄せる。


「リズ?」

「……はい」

「どうしたの?」

「あの……」

「ん?」

「……その……レオーニさんに、一言挨拶をするわけにはいかないでしょうか?」


 ぴり。と、ブライスさんの纏う空気が刺々しくなった。


「……どういうこと?」

「その……何も言わずいなくなったら……」

「うん」

「何も言わずいなくなったら……レオーニさん、死んでしまいそうで……」


 毎回、部屋の扉を開けるたび、ほっとしたような泣きそうな顔でこちらを見るレオーニさん。妹の話をして泣いたレオーニさん。彼は今、ひどく傷ついている。死んだっていいって、本当に思っている。それをかろうじて引き留めているのは、多分、私だ。

 だから、このまま何の言葉もなく去ったら彼は――


「……だから?」

「え?」

「だから、なに?」


 冷え切った言葉が、ブライスさんの形のいい唇から落とされた。


「だからなに?」

「あの……」

「死にそう? そう、それはいいね。あんな男勝手に死ねばいい。手間が省ける」


 ブライスさんは私を床に降ろし、強く肩を持った。視線を合わせる。ブライスさんの深緑の瞳が、怒りで燃えていた。その激情に言葉を失う。


「リズ、俺は、今も我慢してる」


 ブライスさん紳士的な口調の端から怒りが漏れている。


「俺は、あの男を今すぐにでも殺したい」


 ブライスさんの口からこんなに直接的で暴力的な響きの言葉を聞くのは初めてだった。当然のように、そして当たり前のように言われた言葉。こういう時に、思い知る。普段は私に見せない、あの血だまりの中に立っていた時のようなブライスさんの一面を。


「でも……」

「リズがあの男を助けたのは知っている。だから、俺は今まであの男を殺さなかった。が、もう駄目だ。見逃すのは一度だけだと決めていた」


 肩に置かれた手が、ゆっくりと食い込む。


「なあ、リズ。俺がどんな気持ちだったか分かるかい? きみがいなくなったと聞いた時の気持ちが、きみの居場所を見つけて、ここに乗り込むまで俺がどんな気持ちだったか!」


 私たちの付き合いは10年以上になるが、ブライスさんの語気がここまで乱れたのを、私は初めて聞いた。

 これ以上の言葉は、ブライスさんには無力だろう。肩に食い込んだ指の深さが、彼の心の痛み分だった。


「ブライスさん……」

「……すまない」


 大きなため息をついた後、ブライスさんは“いつものブライスさん”らしい穏やかな表情を必死に取り繕って、私の手を随分強く握った。


「……とにかく、話はここを出てからだ。リズは俺の後ろをつい、」


 言葉を途中で乱暴に切り、ブライスさんは私の手を勢いよく引いた。「わっ」と体制を崩しながら、ブライスさんの背後へと導かれる。

 何が起こったのか分からないまま、ブライスさんの後ろに立ち、私は見た。


「リズから離れろ」


 銃を構えたレオーニさんが部屋の入り口に立っているのを。


 途端、ぶわりと汗が噴き出した。私は咄嗟に、ブライスさんの右腕を掴んだ。それはレオーニが怖かったからじゃない。私はブライスさんが怖かった。ブライスさんが銃を抜いたら、多分レオーニさんは本当に殺されてしまう。そう思った。


「リズ」


 ブライスさんが心配したような声を出して、私を左手で引き寄せた。レオーニさんから向けられる視線が、より痛いものに変わる。


「ブライス・ロレンシア、リズから離れろ」

「……どの立場から俺に命令してる」


 地を這うような声だった。


「お前のような薄汚れた男のせいで……」

「まるで自分はきれいな人間みたいな言い方だな。お前、自分のしたことが分かってるのか?」

「ああ。俺は彼女を救うんだ」

「救う?」

「そうだ。彼女にはもっとふさわしい場所がある」

「へぇ……まあ、それは俺もある程度は同意できるが……」


 ブライスさんがそっと、けれど確かな力で私を押しやった。よろめいて尻もちをつくが、ブライスさんの目はこちらを向かない。


「もう手放すつもりはない」


 それからの動きはまるでスローモーションのようだった。

 ブライスさんの腕がゆっくり上着の中へ滑り込み、レオーニさんの引き金に掛けられた指に力が込められる。


 何かを考えるよりも先に、足が動いた。


「レオーニさんやめて!」


 咄嗟に二人の間に飛び出した。銃声は一発。右後ろにあった花瓶がはじけ飛ぶように割れた。弾は、正面に立つレオーニさんから。

 彼の目が大きく見開かれ、瞳に絶望にも似た色が浮かぶ。けれど、再び一瞬で怒りに燃え上がる。


「っ、リズ……どうして」

「……レオーニさんやめて」

「そこをどくんだ」

「どかない!」

 

 両手を広げ、ブライスさんを背に立つ。すぐ後ろから「リズ!」と、彼の口から発せられたとは思えないような、焦りの滲んだ怒声が飛ぶ。けれど、動くつもりはない。


「聞いて!」

「リズ!」

「……聞いて」


 少し待って、背後で銃が降ろされた気配がした。けれどレオーニさんは銃を降ろさない。目は怒りで燃え、食いしばった歯の隙間から獣のような息を吐く。


「お願い、レオーニさん聞いて」


 あの街に住んでいても、こんな風に銃を向けられたのは初めての経験だ。あの指がトリガーを引くだけで、私の人生は終わる。そう思うと、恐怖を感じると同時に少し不思議な気分にもなった。そのほんの少しの気持ちが、かろうじて私をここに留めてくれている。

 声は、情けなく震えた。


「お願い、レオーニ」


 レオーニさんの顔が苦し気に歪んだ。「くそ」と小さく吐いて、彼は銃を降ろした。それでも降ろしただけだ。まだ殺意ははっきりとブライスさんに向けられている。


「……リズ、その男から離れるんだ」

「離れない」

「リズ!」


 レオーニは髪をかき乱した。


「きみは、その男に騙されているんだ。チョコレートショップのショコラティエにも、あの街の人間にも!」


 呪いの言葉を吐くように、彼は目を血走らせながら言った。


「あの街で生きて、何が残るんだ。何を得られるんだ。これはまたとない機会なんだ。きみは外の、秩序があって平穏で、まともな人間らしい生活を送れる街に出られるんだ。マフィアのボスの手籠めにされて、いつ捨てられるかも分からない。いつ殺されるかも分からない! どうしてその男を庇うんだ! どうして妹のような人生を選ぼうとするんだ!」


 レオーニさんは、私たちの街も外の街も両方を知っていて、その残酷なまでのコントラストの被害者でもある。だから、彼の言うことは正論なんだろう。


 でもーー


「愛してるから」


 私は、溢れ出る感情に形を与えた。


「愛してるから、いいの。捨てられたって、間違いだって、傷ついたって、辛くたっていいの。なんでもいいの。私はブライスさんのものだから」


 自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。


「全部、愛してるの」


 レオーニさんの手から銃が滑り落ちて、ごとりと床に落ちた。彼は前髪をくしゃりと掴み、力なくその場に座り込む。項垂れた彼から、「どうしてだ」と泣きそうな声が零れた。

 私はレオーニさんの元へ足を進める。「リズ」と後ろから聞こえた制止の声に「大丈夫です」と返し、彼の前に立った。

 レオーニさんはこちらを見ようとはしなかった。


「レオーニさん」


 反応はない。

 私はレオーニさんの正面で、膝立ちになった。すぐそこで、艶やかな黒髪が揺れている。あんなに大きく見えた体は、今はまるで子供のように見えた。


「……レオーニ」


 祈るように名前を呼んだ。ようやくレオーニさんの目が自分に向けられる。


 ――ああ、やっぱり。


 レオーニさんの美しい目は、私を映していない。私どころか、きっと世界の何も映してはいない。

 彼の目に映るのは、亡くしてしまった妹への罪悪感と、自分への怒りだけだ。


「レオーニ、私は妹さんじゃないよ」


 子供に教えるように、ゆっくりと丁寧に、そう伝えた。


「私はリズ。あの街のチョコレートショップの店員で、ブライスさんの恋人」

「……リズ……」


 レオーニさんは、まるで初めてその名前を聞いたかのように、私の名前を反芻した。


「そう、私はリズ。ねぇ、聞いてレオーニ。私、幸せなの」


 レオーニさんの虚ろだった目がわずかに開き、小さな光が射した。


「大変なことも時々あるけど、私あの街で満たされているんだ。きっと、レオーニのいる街はいい所だろうし、あなたが私に示してくれた道は素晴らしいものだけど、私はそこじゃ幸せになれない」


 行けば、私はレオーニさんが言うところの“普通の女の子”になれるのかもしれない。でも、多分それは私じゃない。

 レオーニさんは私の言葉を理解する速度で、ゆっくりと視線を床に落とした。


「……心配してくれてありがとう、レオーニ」


 その額に小さなキスを落とした。

 どうかあなたが、幸せでありますように。


「……行くん、だな」


 レオーニが諦めたように、ぽつりとつぶやいた。「うん」と返すと、「そうか」と弱々しい返事が返ってくる。


「私、あの街でこれからも幸せに生きるよ。だからレオーニも、ゆっくりでいいから幸せになって」

「俺だけ……幸せになるのか……妹を置いて」

「……そうだよ」


 レオーニがゆっくりと顔を上げた。瞳は絶望に染まり、顔には生気がない。


「幸せになれるのは、生きてる人間だけだよ」


 私は彼が顔を背けないように、両頬に手を添えた。

 私は残酷なことを言っているんだと思う。それでも、


「妹さんの分まで、生きて」


 レオーニさんの目から、一筋の涙がこぼれる。


「私はあなたの妹じゃないけれど、友達だから、無責任かもしれないけれど、あなたの幸せを願うよ」


 最後にもう一度レオーニの頭を強く抱いた。柔らかな髪に手を差し込むと、押し殺したような嗚咽が漏れだす。

 痛い。彼の痛みが全身に伝わる。あの日、彼を助けたことを後悔してしまいそうになるほど、痛い。



 でも、私は絶対に後悔なんかしない。



 あの日、私を彼の元まで導いた毛並みのいい猫を思い出す。何かを必死に訴えていた、あの猫を。


「聞いて、レオーニ。あなたに初めて会った日、私はたまたま会った黒い猫を追っていたの。いつもはそんなことしないのに、どうしてだろう。自分でも分からなかったんだけど……」


 私は彼の耳元へ唇を寄せた。


「……黒い猫の首には、古い首輪が付いていた。丸いプレートに“ファニ”って、子供の字で名前が書いてあった」


 胸元で、彼が息を飲んだのが分かった。


「……私は、神様とか、そういうものがいるとは思わないけれど」


 神様とか運命とか形のないものを信じるには、あまりに騒がしいこの街だけど、


「でも、私たちが出会ったことには意味があるって思うよ」


 だから、残酷かもしれないけれど、あなたを救ったことを後悔したりなんかしない。


 レオーニさんを抱きしめる腕を離し、もう一度彼を正面から見た。

 レオーニさんは好青年が台無しの情けない顔で泣いていたし、彼の瞳に映る私は今にも泣きだしそうな下手くそな笑顔を浮かべていた。

 次に会うときは、あなたが本当に笑った顔が見たいな。


「私はいつもあのチョコレートショップにいるよ。いつでも、会いに来て」


 最後にもう一度、「約束だよ」と、力のない彼の手を強く握り立ち上がった。


 深呼吸を一つ。振り返り、ブライスさんを見た。

 勝手な動きをしたことを怒っているんじゃないかとか、銃の前に立ったことを心配しているんじゃないかと思っていたけれど、ブライスさんは一緒にチョコレートを食べるときのような、とても穏やかな笑みを浮かべていた。

 それを見ると、押し込んでいた涙が堰を切ったように溢れた。「おいで」と広げられた腕の中に飛び込み、すがるように白いシャツを掴んだ。


「……帰ろう、リズ」


 声が詰まって「はい」と言えない代わりに必死に頷いた。彼の腕がそっと私の肩を抱く。


 私は帰る。私の幸せの場所へ。

 その幸福の形は、とても歪に映るのかもしれない。そこには秩序も平穏もないかもしれない。多分、神様もいない。

 でも、愛はあの街にもあるよ。私とジャンさんが家族であるように、ジャンさんの作ったチョコレートを食べて誰かが笑顔になるように、幻みたいな偶然が私とレオーニさんを繋いだように、私とブライスさんが互いを求めるように、目には見えないけれど、ちゃんとあるよ。

 押し付けた胸元から香ったシトラスと鉄と火薬の混じった香りに包まれながら、私は涙が止まらなかった。



 あと数時間もすれば夜が明け、新しい朝がやってくる。



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