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かたちのないものについて 03.


 目を開けると、真っ白な天井が目に飛び込んできた。反射した光が眩しい。


 ――眩しい?


 慌てて体を起こすと、目に飛び込んできたのは見たことのない部屋だった。甘い香りのする真っ白なシーツに、美しい絵や、明るい色でまとめられた家具。そして大きな窓から差し込む朝日。

 朝日を、私は生まれて始めてまともに見た。

 引き寄せられるようにベッドから降り、窓へ向かう。


「きれい……」


 窓ガラスに手をついて、鼻先が触れそうになるくらい近くまで顔を寄せた。


 眼下には古い町並みが広がっていた。その向こうには広大な森があり、分厚い雲が割れた間から、帯のように光が差している。まるでおとぎ話の中のような世界に、私はなにも言えなかった。私の中にある言葉だけでは、この気持ちを表現することができない。

 黒い小さな鳥が優雅に飛び回り、光の帯の中に入ると美しく輝いた。


「きれいだろ」


 聞こえた低い声に、水を浴びせられたような気分だった。


「この辺りはまれに雲が割れて、日が差すこともある。リズはラッキーだな」

「……レオーニさん」


 振り返ると、部屋のドアの前に、ティーセットの載ったトレーを持ったレオーニさんが立っていた。

 彼はこの天気とこの部屋にふさわしい穏やかな表情を浮かべ、「おはよう」と挨拶をするとそのまま部屋の中へと足を進める。そして、ベッド脇のテーブルセットにそれを並べ、紅茶らしきものをカップに注いだ。


「砂糖は何個?」


 まるで、もう何十年もこのやり取りを続けていたかのような態度で私に尋ねる。彼はいたって普通だ。

 

 それが、怖い。


 記憶が正しければ、私は昨晩、レオーニさんによってここに連れてこられている。改めて見れば、明らかに自分のものではないピンクのナイトドレスを着ていた。どうして。わたしの服は。今日は一体いつ。ここは、どこ。

 頭の中に山ほどの疑問が溢れ、背中を冷たい汗が伝う。


「リズ?」


 レオーニさんは困ったように眉尻を下げてほほ笑んだ。


「ああ、そうだよね。ごめんね。びっくりするよね。全部説明するから、とにかく座ってくれないかな?」

「そんなこと……言われたって……」

「リズに危害を加えるつもりはないよ」


 その言葉を素直に信じるわけにはいかないが、このままここに突っ立ていても話は進まない。どうするべきか答えはすぐに出たけれど、私はしばらく時間をかけてから「分かった」と答えた。

 レオーニさんは本当に、心底嬉しそうに笑って、もう一度「砂糖は何個?」と聞いた。




03.




 ティーセットの乗ったテーブルを、奇妙な緊張感と沈黙が覆っていた。

 レオーニさんは丁寧に私の紅茶に砂糖を3つ入れて、スプーンでかき混ぜた後、数枚のビスケットが重ねられた皿と一緒に私の前に置いた。

 同じメニューは正面に座るレオーニさんの前にも置かれていて、彼はそれを黙々と食べている。


「ごめんね」

「え?」

「ここのところ仕事が忙しくて、こっちの家にはまともな食事のストックがなくて……明日からはもう少しまともなものを用意するから」


 彼は恥ずかしそうに頬を掻いた後、食事に手をつけない私を見て「食べないの?」と首を傾げた。


「食べませんよ」

「どうして?」

「どうしてって……それくらい分かりますよね?」

「あ、ビスケットが好きじゃないとか? リズがお世話になってたところは、チョコレートショップだったもんね。朝はチョコレート派?」


 まったくと言っていいほど的を得ない答えに、私は呆れを通り越して怒りさえ湧いた。

 こんな状況で、目の前に出されたものを食べられるほど、私は馬鹿素直な人間ではない。


「なにが入ってるか分からないからですよ!」

「え……なにがって……さっき見てただろ。紅茶に入ってるのは普通の砂糖だよ。それともリズにはなにかアレルギーがあるの?」

「いや、違いますよ。そうじゃなくて、毒が入ってるんじゃないかってことです!」


 机をたたいて語気を荒げると、レオーニさんは目をまん丸にした。しばらくぽかんと私の顔を見た後、声を上げて笑い始めた。


「な、なにがおかしいんですか!」

「いや、ごめん。まさか、毒なんて入れるわけないだろう」


 レオーニさんは心底おかしそうだった。


「何度も言ったけれど、僕はリズに危害を加えたいわけじゃないんだ」

「でも、実際危害を加えてここに連れて来てるじゃないですか……」

「うん? 僕は君を助けただけだよ」


 一歳の迷いなく言われた言葉に、息が詰まった。


「それにさ、僕がリズをどうにかしたいなら、別にこんなまどろっこしいことをしなくたって、いくらでも殺せるよ。さあ、冷める前に紅茶を飲んで」

「……飲んだら、話してくれますか?」

「もちろん」


 ソーサーごとカップをこちらに押されて、私はそのカップを持ち上げ、飲んだ。紅茶だ。普通の、よくある紅茶。

 レオーニさんは、私が紅茶を口に含んだのを見届けると、ようやく満足そうに目元を緩めた。


「リズをここに連れ出したのは、他でもない、きみのためだよ」

「……私の?」

「そう。きみはあの街にいるべきじゃない」

「つまり、やっぱりここは……」

「そう、ここはあの街とは違う。ここはトロイト。あの街からは車で5時間くらいかな」


 ハンマーで頭を思いっきり殴られたような衝撃だった。

 車で5時間も離れていては、とてもじゃないが自力では帰れない。


「ここは小さな街で、なにもないけれど、治安も安定しているから安心してくれていいよ。しばらくリズはここで生活しながら、いろいろなことに慣れればいい。そして落ち着いたら学校へ通いな」

「え? が、学校?」


 思いがけない言葉に、飲んでいた紅茶を喉に詰まらせかける。

 レオーニさんはその私の驚きをどう勘違いしたのか


「ああもちろん、いきなり普通に学校に通うことは難しいだろうから、最初は家庭教師を付けるよ。しばらくは授業に慣れなくて大変だろうけれど、僕もできる限りフォローするし」


 なんて、困った顔でフォローした。

 私は、先ほどから感じていた違和感の正体を見た気がした。


「……レオーニさん」

「時間がかかったっていいんだ。そして卒業したら僕の下で仕事をすればいい。あ、安心して最初は簡単な仕事を」

「レオーニさん!」


 大声で叫ぶと、急に現実に引き戻されたようにレオーニさんは固まった。そして、私の顔を見て、目を見開いた後「ごめん」と笑った。


「いきなりすぎたね」

「違う」

「今はまだ不安の方が大きいだろうから」

「違う、違うよレオーニさん」


 私は首を振った。

 違う、そういうことじゃない。私が言いたいのは、そんなことじゃない。


「レオーニさん、誰に向かって話しているの?」


 レオーニさんの目が、ゆっくりと光を失った。きれいな笑顔の端が崩れかかる。が、彼はそれを寸前でこらえた。


「……すまない。そろそろ仕事の時間なんだ」


 レオーニさんはナフキンで口元を拭くと、ゆっくりと立ち上がる。


「リズはここで好きに過ごしてくれればいい。部屋に大抵のものは揃えてある。ここにいれば安全だから、安心してほしい」


 私の質問を許さないとでも言うように、矢継ぎ早に言って、レオーニさんは部屋を出た。



 足音が遠ざかると、水底から引き揚げられたように、どっと呼吸が荒くなった。体から力が抜け、ふらふらとベッドに倒れこむ。

 改めて部屋の中を見渡した。

 レース素材のふんわりとしたナイトドレスに、それと揃えて仕立てられたようなベッドシーツ。壁には柔らかな色合いで描かれた花の絵が飾られ、本棚は児童文学から辞書まで、様々な本で隙間なく埋められている。寂しさを紛らわすように置かれた観葉植物や、可愛らしい猫のぬいぐるみ。

 こんなに整えられた部屋がすぐに用意できるとは思えない。


 ここは間違いなく、私のために用意された部屋ではない。レオーニさんは、私を誰かの代わりにしている。


「どうしようかな……」


 気が遠くなる。

 どうしようかな、なんて言ったって、もうこれは自分でどうにかできる範疇の出来事を越えている。


「……店は、どうなったんだろう……ジャンさんは私がいないのに気付いたかな……」


 心の中で膨らんだ不安が、出口を求めて口に殺到した。


「……ブライスさん」


 愛しい人の名前を呼んだ。返事はない。じわりと、目尻に涙が浮いた。

 もし、誰も助けに来てくれなかったら、もし誰もここを見つけられなかったら、私は一生レオーニさんが用意した誰かのための部屋で、生きていくんだろうか。




 それから3日、レオーニさんは毎日、朝と夜、食事を持ってこの部屋にやって来た。


 案の定、部屋からは出られなかった。窓にもドアにもしっかり鍵がかかっていて、びくともしない。窓が割れないかと椅子を投げつけたりもしてみたが、効果はなかった。こんなところに閉じ込められて、どうされるのかと一日中不安だった。

 けれど、レオーニさんは危害どころか、私に指一本触れようとはしなかった。次第に不安がっているのも疲れてくる。

 多くの時間を持て余した私は、レオーニさんが誰かのために用意した本を読んだり、窓から街の様子を眺めたりして過ごしていた。


「遅くなってすまない。今晩は表の店のテイクアウトなんだ。でも、あの店の料理はおいしいよ」


 いつもより少し遅い時間、レオーニさんはこの家の前にあるデリの看板のイラストが付いた袋を抱えて、部屋へと滑り込んできた。急いでいたのか、珍しくコートもマフラーも付けたままだ。鼻先が寒さで赤くなっている。


「……いえ」

「お腹が空いただろ。悪いけど、並べるのを手伝ってくれないか?」

「はい」


 正直、調子が狂う。

 ひどい扱いをされたいわけではないが、こうも丁寧に扱われると困ってしまう。私はレオーニさんをちっとも憎めない。ひどい人間だと罵ってもやれない。

 毎日、部屋のドアを開ける度、レオーニさんが安心したような泣きそうな顔で私を見ると、なぜか私の方が泣きたくなってしまう。


「リズは辛いの平気?」

「平気です」

「でも、どっちかといえば甘党だろ?」

「ええ、まあ」


 コートとマフラーをハンガーにかけ、机にデリのカップを並べに来たレオーニさんを見て、手が止まった。


「……それ」


 彼はいつか見た、白い制服を着ていた。


「ああ、これ? 仕事の制服だよ。今日は少し仕事が長引いたんだ。いつもは着替えてからこっちの家に来るんだけど」


 レオーニさんは恥ずかし気に頬を掻いて、いつものように私の正面の席に腰を下ろした。「さあ、冷める前に食べよう」という言葉に促され、私も席へ座る。

 カップに注がれた、赤いスープを一口。刻まれた野菜と、魚介の入ったスパイシーなスープだった。


「おいしい」

「だろ?」


 レオーニさんはたくらみが成功した子供のような顔で笑った。


「出来合いのものって、あまり好きではないんだけどさ、ここのデリは別格なんだ。40歳くらいの男性が一人でやってる店なんだけど、武骨な見た目に似合わず繊細な味付けで。いつか食べさせたいなって、思ってた」


 あ、また。

 また、レオーニさんの言葉が、本来この部屋が贈られるはずだった人へと向けられた。そんな話を聞きたくはないのに、彼の表情が本当に穏やかになるので、私はそれを遮れない。


「今日はスープが魚介系だったから、メインは肉にしたんだけど、魚の料理もうまいんだ」


 言葉の通り、メインの肉料理もおいしい。


「あのデリがあるから、時々ある残業も悪くないと思うよ」

「……レオーニさんは警官なんですか?」


 レオーニさんは食事の手を止め、驚いたようにこちらを見たあと、「そうだよ」とほほ笑んだ。


「うれしいな。警官の仕事に興味がある?」

「いえ……その、“表の警官”って、なんですか」

「ああ、“表の警官”っていうのは、まあ、こちら側での呼び方だよ。ただの警官。別に特別な仕事をしているわけじゃないよ。ただ、僕らが担当しているのは、普通の街だ。平穏で、暴力や金ですべて解決することが許されず、警察組織がまともに機能している、普通の街」

「……普通の街」

「そう。あの街は普通じゃないから」


 レオーニさんはそう言って、カップを口に付けてスープを飲む。

 言葉はあっさりとしていたが、その裏には隠し切れない憎悪が見え隠れしているようだった。


「……一応、育った街なので、そんな風に言われると」

「傷つく?」

「ええ、まあ、それなりに」


 サラダの葉にフォークを差しながら苦々しく返す。レオーニさんは「ごめんね」と、ちっとも心のこもらない声で言った。


「でも、いつか気付くよ」

「いつか……」

「うん。いつか」


 いつ?

 そんなことを信じられるようになるくらいまで、私はここにいるの?


「そう思える時がくる」

「……来ませんよ」

「普通の生活に慣れれば、思える」


 例えば、普通に学校に行って勉強すること。同じ歳くらいの女の子と、誰が好きだとかそんな話題で笑いあうこと。年相応の男の子と恋をすること。安定していて、安全な仕事をすること。

 レオーニさんが指折り数える“普通の生活”に、吐き気がした。


「そんなの……」

「だから今は少し戸惑うかもしれないけれどいつか」

「いつか……?」

「ああ、いつかの未来のためだよ」

「そんな日は来ないと思います」

「来るよ。だってこのままだときみは、いつかあの男に捨てられたとき、生きていけないだろう?」

「っ、もうやめてください!」


 突然、怒りが溢れた。フォークを叩きつけるように、机に置く。

 別に平気だと思っていたけれど、慣れない生活にストレスが溜まっていたようだ。一度溢れると、自分でもコントロールできなくなった。


「やめてください、レオーニさん……なんか、なんかもう、頭がおかしくなりそう……私に誰を重ねてるんですか。誰の話をしているんですか!」


 泣きそうになるのを必死にこらえて、レオーニさんを睨んだ。

 もうだめだ。これ以上ここにいては、私もレオーニさんもだめになってしまう。

 頭ではそう思うのに、彼がひどく傷ついた顔をして私を見るので、喉元まで出かかった言葉を全部忘れてしまった。


「……ごめん」

「謝られたって……」

「うん。ごめん」

「……どうして、私を……」


 沈黙が落ちた。


 私は力なく椅子の背に体を預け、ため息をつく。前髪をかき乱して、唇を噛む。

 レオーニさんはしばらく口の前で両手を固く握り、視線を落としていた。が、大きく息を吸って、意を決したように言った。


「確かに、僕は君に彼女の姿を重ねてる」

「……彼女?」

「……妹が、いたんだ」



 平穏が失われた街には、分厚い灰色の雲が、世界に蓋をするように一年中かかっている。


 俺と妹のシーラは、その街の小さな孤児院にいた。親の顔なんて知らないし、いつからそこにいたのかも知らない。実のところは、俺は妹が本当の妹なのかどうかも知らない。けれど、彼女は僕によく似ている。髪色も、目の色も、肌の色も同じ。「レオーニ」と、誰に付けられたのか分からない名前を嬉しそうに呼んで、いつも後ろを歩いていた。


『あなたを引き取りたいという人がいるのよ』

 そう、孤児院の人間は僕に言った。子供を引き取りたいなんてどんな殊勝な人間かと思ったが、よくよく話を聞けばろくでもない男だった。“薬を運ぶときに子供がいると便利だ。賢い男で、できるだけ運動神経のいいのを一つ”。まるで商品を買うような口ぶりだった。

 ろくでもないのは孤児院の人間も同じだ。「じゃあ、ちょうどいいのが」と言って、男に僕を合わせたのだから。


 僕を無視して、話はあっという間にまとまった。僕は男に引き取られることになった。


「いかないで! いやだ、兄さん、一人にしないで」


 孤児院を出る日、妹は泣いていた。僕の袖を小さな手で必死に掴んで、いやだいやだと首を振った。

 僕も妹を置いていくのは嫌だった。だから、ろくでもない相手だと分かっていても、孤児院の人間に頼んだ。「お願いだから、妹も一緒に連れていかせて」と。


「無理よ、レオーニ。あなたの妹はもう少し大人になれば、きっと高値で売れるから」


 わがままな子供を咎めるように、孤児院の人間は言った。

 子供ながらに、そのおぞましい響きを持つ答えに震えた。


「じゃあ……じゃあ、僕が妹を買うよ。予約する! すぐに来るから、お金をためて、すぐ来るから、それまで妹はここにいさせて!」

「……いいわよ。じゃあ、待ってるわね。安心して、シーラは私たちが責任を持って面倒を見るわ」


 今から思えば、なんて馬鹿なことをしたんだろうと思うけれど、当時の僕はほっとしたんだ。これで妹は僕が来るまで、安心して生活できると。

 だから、「一人はいや! 私も兄さんと行く!」そう言って、僕の手を離さなかったシーラの手を離した。


「だめだ、シーラ、ここにいて。兄さんがすぐ、迎えにくるから、それまで待ってて」


 妹は最後まで泣いていた。彼女を最後に見た時のぐしゃぐしゃの泣き顔を、今でも思い出す。

 僕はあの時の決断を後悔しているけれど、じゃあどうすればよかったのかは分からない。




 それから僕は、僕を買った男のところで働いた。あの街で作った違法な薬や品物を、街の外の人間に届ける仕事だった。男は乱暴だったけれど、仕事をすれば多少の金をくれた。それをいつも大事に抱えて、いつか妹のところへ戻ることを夢見て眠った。


「きみ、なに持ってるの?


 仕事を初めて1年ほどが経った頃、僕はとある街で男性に声をかけられた。彼は警官だった。


「えっ、と……僕はこれから図書館に行くところなんです。中には本が入っています」

「そうか。いいね。好きな本は?」

「……ファンタジーが、好きです」

「私も好きだよ。じゃあきみ、質問を変えよう。鞄の中の荷物の、依頼主はだれかな?」


 失敗した。そう思ったと同時に、いろいろなことが一瞬で頭の中を過った。失敗したことがばれたらあの男にひどく殴られるだろうとか、あの男がいなくなったらどうやって生きていけばいいんだろうとか、妹を迎えに行けなくなってしまうんじゃないか、とか。

 殴られるのも恐ろしかったが、なにより妹を迎えに行けなくなるのが恐ろしかった。

 だから咄嗟に、


「い、妹が、います」


 そう叫んだ。


「僕は“平穏が失われた街”の孤児院出身です。そこに、まだ妹がいるんです! あなたが妹を助けてくれるなら、僕はこの荷物を預けた男のところへ案内します!」


 叫んでいる間、鞄を抱えた手が震えた。恐怖や焦り、いろいろな感情がせめぎ合っていた。

 警官の男はしばらくぽかんとしていたが、僕の頭に優しく手を置いた。


「きみ、威勢がいいな。いいよ、妹を助ける。約束するよ」


 頭を撫でられると、目から涙が溢れ出した。

 男はグランという、若い警官だった。僕はグランに男の居場所を教えた。男は連れていかれ、グランは僕を引き取ると言った。

 グランは僕に、きれいな個室と洋服、そしてたくさんの知識を与えた。




 グランは父だった。

 父と呼ぶには少し若いかもしれないが、それでも立派な親だった。厳しくも優しい彼が僕は誇りだった。彼と本を読み、彼と料理を覚え、休日は家の近くの公園へ行った。温かくていい香りの湯に浸かるような生活の中、僕は幸福を覚えた。

 けれど、どれほど心が温かく満たされようとも、冷たく刺さった棘のように、心の中にはいつも妹がいた。

 彼女を探すためにグランはあれこれ手を尽くしていてくれた。けれど、孤児院は僕がいなくなってすぐに場所を変えたらしく、妹はなかなか見つからなかった。グランはいつも「すまない」と僕に言った。


 僕は妹を探すため、そしてグランの背を追うように、警官になろうと思った。警官になれば金も稼げるし、妹の居場所だって探せる。


 グランは自分が卒業した養成学校を紹介してくれ、僕はそこに入学した。いいクラスメイトに囲まれて、必死に勉強を続けた。そんなある日の授業中、先生が僕を廊下に呼び出した。彼は真っ青な顔をしていた。


「レオーニ、落ち着いて聞いて欲しい」


 先生は一呼吸置いてから、苦し気に言った。


「グランさんが撃たれて、病院に運ばれた」


 その後、どうやってグランのところへ行ったのかは分からない。

 気が付くと病院で、僕は病院のベッドの上で、ひどい顔色で横たわるグランの前に立っていた。医者は今晩が峠だと言った。

 嘘みたいだった。今朝、笑って家を出たじゃないか。


「グラン……」

「……レオーニ……」


 グランは目を閉じたまま、消えそうな声で言った。


「妹のこと、すまない」


 それがグランの最後の言葉だった。グランは次の朝を待たずに、遠くへ行ってしまった。




 グランの遺志を継ぐためにも、必死だった。

 学校は首席卒業。仕事は順調。異例ともいわれるスピードで出世だってした。妹の捜索は難航していたが、いつか妹と出会ったときのために小さな家も買った。彼女のための家具や本を買いそろえ、いつからでも生活を始められるように整えた。

 そしてある日、別の事件からあの孤児院の情報を掴んだ。やはり、孤児院は僕が引き取られてすぐに場所を移していた。


 すぐさま、あの街へ戻り、情報の場所へ駆けつけた。

 けれどもうそこに孤児院はなく、代わりに娼館が建っていた。


「ここにあった孤児院は?!」


 そう尋ねると、受付のやる気のなさそうな男は、僕を不審そうに見て「いつの話だ?」と言った。


「つい最近だ。ここに孤児院があっただろう」

「知らねぇよ。ここが娼館になったのはもう7年も前だ。その前は空き家だった」

「7年前? そんな……」


 ぶっつりと途絶えた手がかりを手繰り寄せるように男の肩を掴んだ。


「そんなはずは! いただろう!」

「な、なんだよお前!? 手ぇ離せよ!」

「頼む! 僕に似た……女の子だ。歳は1つか2つ下で、僕と同じ褐色の肌で、黒い髪の……」


 必死に説明しながら、泣きそうだった。

 だめだ、僕が覚えているのは、小さな女の子だったシーラ。行かないでと、ぐしゃぐしゃの顔で泣いた小さな女の子の姿だけ。僕は結局あれからシーラを一度だって見ていない。大人になった彼女を見つけ出すだけの手がかりを持っていないのだ。


「ねぇ、それってファニじゃなぁい?」


 目の前が真っ暗になりそうだった時、ぴりついた空気に似合わない間延びした声が降ってきた。

 声の主は赤髪の女だった。ほとんど下着のようなドレスに、薄手のカーディガンをだらしなく羽織った彼女は、あくびを噛み殺しつつ、2階からこちらへ降りてくる。


「ファニ……?」

「やだぁ、忘れちゃったの? ほら、二年くらい前までいたでしょぉ」


 肩を掴んだ男は何度か僕の顔と記憶を照らし合わせ、ようやく「ああ」とこぼした。


「そういや……似てるな」

「でしょぉー。似てるなって、私も思ったのよねぇ」


 女はくすくすと笑いながら、僕の顔をまじまじ見た。


「褐色の肌に黒い髪。よぉく見ると目元の雰囲気も似てるのね。私は彼女の本当の名前は知らないけれど、ここではファニって呼ばれてた」

「ファニ……」


 すぐに分かった。

 それが、妹だと。

 “ファニ”は、僕と妹が、孤児院の裏手で生まれた黒い猫に付けた名前だ。孤児院の人間に教えてもらった文字で、妹は小さなプレートにピンクのペンで名前を書いた。よろよろの文字を、僕は今でも覚えている。

 一年ほど、二人で熱心に世話をした。きっとシーラは、僕がいなくなった後も世話を続けていたはずだ。


「今は、どうしてるか知らないか?!」


 すがるように女の腕を掴んだ。どんなことでもいい、どんなささいなことだってよかった。


「さ、さあ……男に買われた後のことはなにも知らないわ」

「買、われた……?」

「ええ。別に珍しいことじゃないわ」

「だ、誰が……」

「覚えてないわ。どちらにしても、そういうことは言えないんだけれど……」


 ごめんなさいねぇ、と甘ったるく言われ、掴んだ手を外された。




 買われた。

 さも当然のように言われた、吐き気のするような言葉が耳にこびり付いて離れなくなった。




 不幸中の幸いだったのは、彼女が「誰かに買われた」ということが分かったことだった。

 警官の権限を最大まで活かし、ありとあらゆるコネクションを使って、妹の後を追った。それでも、分かったことは少なかった。

 ゼンジュという男が、何人目かの愛人として妹を買ったこと。ゼンジュは小さなマフィアのボスで、最近はめっきり力を失くしていたこと。そして、彼女は多分、もう、死んでいるであろうこと。

 この街で仕事をしている人間なんて、叩けばいくらでも埃が出る。適当な理由を付けて、ゼンジュのアジトへ乗り込む許可をもらった。「なんでお前が、わざわざあの街の件に首を突っ込むんだ」と上司も同僚も部下も、誰も付いてこなかった。


 むしろ都合がよかった。とてもじゃないけれど、行儀よく小奇麗に片付けることなんてできなかったから。


「シーラ!」


 死んだかもしれない、そう思っても、最後の希望が捨てられなかった。ゼンジュのアジトに乗り込み、向かってくる人間を倒し、必死に妹を探した。

 何発か銃弾をくらった気もしたし、どこかを切られたような気もした。けれどどうでもいい。妹の過ごした人生を思えばどうだっていい。

 自分が表の街でぬくぬくと過ごしている中、娼婦になって、薄汚い犯罪者の愛人になった彼女がどれほどの思いをしたのか、想像するだけで気が狂いそうだ。


 返り血で体中が濡れていく。


「ゼンジュ!」


 最後の部屋に突っ込んだ時、もうこの建物の中にこの男以外の生き物は残っていなかった。

 妹を買ったゼンジュという男は、情けなく部屋の隅で震えながら、こちらへ銃口を向けていた。「来るな!」と叫んだゼンジュに大股で近づき、その胸倉を掴んで壁に叩きつける。


「……っ、表の警官が何だってこんなところへ!」

「数年前、娼館でファニという娘を買っただろう」

「は……?」


 間の抜けた声を出した男を、より強く壁に押し付け、眉間に銃口を向ける。


「彼女はどこだ」

「うぐっ、な、ファ、ファニ?」

「言え」


 ゼンジュはしばらく困惑していたが、僕を見て何かを察したように口元を歪めた。


「あんた……ファニの兄妹かなんかだな……」

「だったら?」

「ああ、いいさ。教えてやろう。あの女は死んだよ! とっくに死んだ!」


 唾をまき散らしながら、ゼンジュは叫ぶように言う。


「そうだよ! 俺があの女を買ってやったんだ! 小奇麗な見た目だったから愛人にしたやったんだよ! それがあの女、何をしても愛想笑いの一つもしやがらねぇ! だからな、オークションにでも出してやろうと思ったんだよ。そしたらその前日、あの女死にやがったんだ! 大損だよ! 馬鹿なおん、」


 その言葉を聞いてからのことはよく覚えていない。

 無茶苦茶にトリガーを引いて、ありとあらゆる呪いの言葉を吐いて、男を殺した。




 もう、どうだってよかった。




 妹は守れなかった。グランも、もういない。この世界に守るものなんてない。生きていく意味だって分からない。もうこのまま死んでもいいと、あの日、ゼンジュのアジトからの帰り道、ゴミだめの中で倒れたんだ。

 薄暗くて埃っぽくてひどい匂いで、妹を守れなかった僕にはちょうどいい死に場所だと思った。

 このまま眠ったら、妹やグランに会えるかもしれない。そうして、静かに目を閉じた。体の末端から、熱が失われていく。


『おーい。猫さん?』


 ふと、足音が近づいた。


『だっ、大丈夫ですか?!』


 そして、君がやって来たんだ。



 レオーニは淡々と話をして、なんでもないような風に終えた。

 けれどテーブルの上の手は固く握られ、何かを抑え込むように震えている。

 私は彼に、どんな言葉をかければいいのか分からなかった。どんな言葉も、彼の慰めになんかならないだろう。


「……レオーニさん」


 立ち上がり、彼の隣に立った。

 大きな彼の背は、今はとても小さく弱々しい。触ったら、壊れてしまいそうだ。戸惑いがちにその背に触れると、腕を掴まれた。力いっぱい引かれて、強く抱かれる。背中がきしみそうなほどの強さで腕が回った。


「……リズ、君は僕を助けた」


 レオーニの頭が押し付けられた肩が、熱い。


「だから、僕もきみを助けたい。きみを、妹のようにしたくないんだ」


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