かたちのないものについて 02.
「リズ、きみをここから連れていく」
一見、熱烈な愛の告白のようにも聞こえるそれは、小さな子供を言い含めるような響きを持っていた。背中に回された手が、私のシャツを強く掴む。
02.
「つ、れて、くって……急に、何? どうしたのレオーニ。どうしてそんな冗談……」
レオーニさんの目がまっすぐに私を見下ろしていた。冗談、なんかじゃないとは思っていたけれど、そうして予防線を張らなければ本当にこのまま連れていかれそうで怖かったのだ。私はこの雰囲気に飲みこまれないように、必死で接客用の笑顔を浮かべた。
「ここはチョコレートショップだよ。私は店員だからさ」
「リズ」
全部、見透かしたような声が降ってきた。
「冗談じゃない。俺はチョコレートを買いに来たんじゃなく、きみを連れ出しに来たんだ」
じわ、と掌に汗が浮かんだ。腕を突っ張ってみるけれど、距離は一ミリだって遠くならない。そんなそぶりを見せないが、レオーニさんの腕にはかなり力が込められているらしい。
恐怖心が頭をもたげ、笑顔が引きつる。
「行こう、リズ。ここは君にふさわしい場所じゃない」
「なに言って……」
「きみは外に出るべきだ。そしてしかるべき場所で教育を受け、自立した生活を送れるように、」
「おい」
唸るような声が、レオーニさんの言葉を遮った。首だけで振り返ると、ガラスケースにもたれかかるようにして、コックコートを脱いだジャンさんが立っている。その目は、まるで刃物のように鋭くレオーニさんに向けられていた。
初めて見る顔だった。知らない人みたいだ。確認するように「ジャンさん」と名前を呼ぶと、ジャンさんが目元を緩ませこちらを見た。いつものジャンさんだった。ほっと胸を撫で下ろすが、またすぐに、ジャンさんはピリピリとした空気を纏った。
「てめぇ、何してる」
「彼女の育て親だな」
当然のごとく言われた言葉に、心臓が不安げな音を立てた。
どうしてそんなことを知っているんだろう。そういえば、私は彼に名前を名乗っただろうか。どうして私の名前を知っているんだろう。
「ああ。で? “表の警官”がうちに何の用だ」
「おもての、けいかん……?」
ジャンさんの口から出た、聞きなれない言葉に首を傾げると、頭上から吐き出すような笑いが落ちてくる。
「やっぱり。お前、彼女を外に出したことないんだな」
俺の制服を見て何の反応もないからそうだろうとは思っていたけれど、とレオーニさんは続ける。
ジャンさんの眉間に深い皺が寄った。
「あ?」
「こんな汚れた場所で……」
「リズはここの生まれで、俺がここで育てた。外に出す理由は無い」
「お前の都合だろ」
ジャンさんの目が一層鋭くなるのに反して、レオーニさんの声は楽し気になっていく。
「こんなところで彼女を育てるなんて、虐待に等しい」
「なっ、違うよ!」
その言葉を聞いて、ほとんど反射的にレオーニさんを突き飛ばした。
レオーニさんは驚いた顔をしていたが、私も自分がしたことに驚いた。けれど、そんな風に言われては悲しい。私はジャンさんの元に駆け寄って、すがるように腕に抱きついた。
「そんなこと言わないで、レオーニ。この人は私をすごく大事に育ててくれたの。この街にいるのも自分の意志だから……虐待なんて、そんな……なんでそんなひどいこと……」
レオーニさんは怒ったような悲しい顔で、私を見た。
「ここで育つことが、そうなんだ」
悲壮な響きを持った言葉を続ける。
「なあ、リズ。考えてみてくれ。こんな街になにがある。あたりまえのように事件が起こり続ける。警察なんて、あってないようなものだ。暴力や金だけが信頼されるここに、秩序も平穏もない。そんなのまともじゃないんだ。君だっていつ事件に巻き込まれて死ぬか分からない。きみはただでさえブライス・ロレンシアの恋人で、狙われることだって増えるだろうし……」
「……え?」
私はジャンさんの腕を強く握った。
「……ど、うして、ブライスさんのこと知ってるの」
レオーニさんは、しまったと言わんばかりに視線を逸らし、しばらくの沈黙の後「調べたんだ」と小さくつぶやいた。
調べた、と言われて言葉を失った。名前やジャンさんのことを調べるのは分かる。簡単だろう。けれどブライスさんのことは……
「はっ」
ジャンさんが吐き出すように笑った。
「偉そうなことを俺に言う割に、表の警察も、ずいぶんだな」
「お前に、言われたくはない」
レオーニさんが恨めし気にジャンさんをひと睨みした。
ジャンさんとレオーニさんの視線がバチバチと音を立てんばかりに交じり合う間で、私はいまいち話が掴めない。
混乱の中から抜け出せない私を追い詰めるように、彼は再び私へ手を伸ばした。
「リズ、行こう」
「……どこに?」
「この街にいちゃいけない」
レオーニさんはまるで懇願するように言った。
なぜ、レオーニさんがそんな顔をするのか分からない。だって、私は幸せなんだもん。ジャンさんがいて、ブライスさんと恋人になって、私は幸せ。仕事も楽しい。毎日は満ち足りている。
なのになぜ、私を可哀想なものを見るような目で見るの。
「行かないよ」
ドアベルが鳴る。ひやり。冷たい空気と共に温度のない言葉が流れ込んできた。
「ブライスさん……?」
ドアを開けたのはブライスさんだった。銀髪は緩く結ばれ、上等そうなスーツに農灰色のチェスターコートを着ている。ブライスさんが店にやってくるなんて、初めてのことで驚いた。けれどその驚きも、ブライスさんの冷え切った表情と目を見れば、一瞬ではじけ消える。
彼が猛烈に怒っているということは、どれほど鈍感な人間だって気付くだろう。
「ブライス・ロレンシア」
首だけで振り返ったレオーニさんが名前を呼ぶと、ブライスさんはピクリと片眉を上げた。
「俺も君のことはよく知っている。レオーニ・タンザライト。つい最近、ゼンジュのところを潰した表の警官だな」
「……ああ」
レオーニさんは口の端を吊り上げた。
「ゼンジュは君のところのビジネスパートナーだったと思うけれど、僕に恨みでも?」
「まさか、あんな男。向こうが勝手にこちらの名前を使っていただけさ。むしろ片付けの手間が省けて助かったくらいだ」
ブライスさんはくつくつと喉の奥で笑ったけれど、目はひとかけらも笑ってなんかいない。
二人の間は、呼吸さえ憚られるような緊張感で満ちている。
「で」
緊張を破るようなブライスさんの声で、室内の温度は間違いなく2度ほど下がった。背筋が冷え、ジャンさんの腕を握る手に自然と力が入る。
「なんの用だ」
自分に向けられたものではないとは分かっていたが、それでも悲鳴が出そうだった。それほどにブライスさんがレオーニに向ける視線は鋭い。多分、これが“殺気”というものなのだろう。こんなものを向けられてどうやったらまともでいられるのかは分からないが、レオーニは先ほどまでと変わらないトーンで
「リズをこの街から連れ出しに来た」
と言った。
「……へぇ、それはそれは。で、誰の許可があってそんなことを?」
「許可? 不思議だな、リズをここから連れ出すのに誰の許可が必要なんだ」
「俺だよ」
「お前の?」
「ああ、リズは俺のだから」
そんな場合ではないのは重々承知だが、「俺の」と言われると心臓が跳ねた。急に飛び出した、甘ったるい凶器の言葉にどぎまぎしていると、見透かしたようにジャンさんが頭を小突いた。「あほ」と口の動きだけで馬鹿にされる。
そんな私の浅はかなドキドキをかき消すように、レオーニが笑った。
「随分じゃないか、ブライス・ロレンシア。あの君が幼い女の子に“俺の女”ね」
「五月蠅い男だな。二度と口が利けないようにしてやろうか」
「僕を殺すか?」
「いいや。ここでは武器は抜かない。この店先ではそういうことをしない取り決めだ。お望みなら、場所を変えよう」
「そうだな……」
二人の張りつめ切った空気に、つい「待ってレオーニ!」と声が出た。視線が集まって、息が詰まるような感覚がする。一瞬で喉がカラカラに乾いて、声が出にくくなった。
「いや、あの、ごめんなさい……」
この空間で、自分は圧倒的弱者なのだと思い知らされたようだった。語尾が落ちた視線と共に消えていく。
「……リズ」
ブライスさんに名前を呼ばれて顔を上げた。彼はふわりとほほ笑んで、私に手を差し伸べる。
「おいで」
柔らかな口調とは反して、それはほとんど命令だった。
一瞬の戸惑いさえも許さないと言わんばかりに、再び「リズ」と名前を呼ばれて、私は小走りにブライスさんの元へと向かった。レオーニさんの横を通り過ぎる時、何か言われるんじゃないかとも思ったけれど、彼は指一本動かさなかった。
「ブ、ブライスさん」
ブライスさんの前に立つと、そのまま強く抱きしめられる。押し付けられた胸元からは、彼の香水の香りに交じって火薬の香りがした。
「いい子」
耳元に落とされた吐息交じりの言葉は、紛れもなく凶器だった。
実際のところ、こんな風に人の目があるところで抱きしめられたのは初めてだった。すぐそこにはジャンさんだって、レオーニだっている。嬉しさよりも恥ずかしさが圧倒的に勝っていた。頭の中はひどく混乱していて、無意識に抵抗しようと腕が上がっていたのだ。
けれどそんな気持ちは、「いい子」のたった一言でごっそりそぎ落とされた。
言葉の通りいい子になって、私はブライスさんのものらしく、すっぽりと彼の腕の中に収まった。
「……分かっただろ」
頭上で、ブライスさんが空気を零すように笑った。
「邪魔だ」
どこか馬鹿にするようなその言葉に、レオーニが鼻を鳴らした。
足音がこちらに近づき、一瞬だけ隣で止まる。
「すぐに、迎えに来るよ」
レオーニはその言葉だけを残し、店を出た。
ドアベルの音が完全に消えた頃、ブライスさんは私を離した。見上げた顔はいつものブライスさんだ。柔らかな笑顔が浮かんでいる。
けれどどこか違和感があった。それを上手く言葉にすることはできないけれど。
「さあ、リズ」
「あ、はい」
「俺の車まで送ってくれるかな?」
「あ、はい。もちろんです!」
違和感はあったが、私はジャンさんと少し話をして、ブライスさんを車まで送ることにした。
外の空気は冷たい。コートも着ずに出たので、体が震えた。すぐにブライスさんが体を寄せて、彼のコートの中に入れてくれる。
胸がきゅうっと苦しくなった。好きだ、と、心の中でのたうち回る。にやにやしないように必死に顔の筋肉を制す。
ブライスさんにくっついたまま、車の後部座席側まで来ると、運転席から見慣れた人が出てきた。
「あ、ルイスさん。こんにちは」
煙草をくわえたルイスさんは私に軽く手を上げると、そのまま運転席の扉に背中を預けて、煙草に火を点けた。大きく吸い込んで吐き出された煙は、苦い香りがする。
遠くの風景を見たまま、ルイスさんは煙を吐いて、言った。
「3分」
その言葉の意味が分からず首を傾げると同時に、体が車の中に引き込まれた。声を出す間もなく、気が付くと背中には革張りの冷たい座席、正面にはブライスさんの端正な顔。私の顔の横にはブライスさんの腕が、まるで牢のように置かれている。
「ブ、」
ライスさん。と、いつものように名前を呼ぶことはできなかった。
彼の目が温度もなく、自分を見下ろしていたから。
それは、先ほどレオーニに向けていた視線に似ている。思わず「ひ」と引きつったような声が出た。
ふ、とブライスさんからこぼされた、熱を持った小さな笑いが頬の辺りを撫でる。
「こわい?」
ブライスさんの目とは裏腹に、いつも通りの穏やかな声が降ってきた。だから、つい首を横に振る。
ばたん、とドアが閉まって、狭い空間に二人きり。
「うそつき」
形のいい唇が弧を描いた。
「レオーニ? ずいぶん親し気な呼び方だね」
私の頬の辺りを指先で撫でながら、ブライスさんは小さな子供と話すように、とてもゆっくりと丁寧に言葉を紡いでいた。
やっぱりさっき、首を横に振ったのは嘘だ。私はまるで肉食獣に見つかった小動物。怖くて、喉がひくついて声が上手く出ない。
ブライスさんは私の頬を撫でながら、言葉を待っている。冷たい視線に串刺しにされて、こわいのに目線が逸らせない。
「……その」
「うん?」
「この前、助けたんです。配達のとき、道で倒れてた、彼を。血塗れで、だから。今日、店に来て、名前を教えてもらって」
「うちへの配達を断った日?」
そうです、と言いかかって私は咄嗟に口を結んだ。
なぜかは分からないけれど、その答えはよくない気がした。けれど黙ったのも結局のところよくなかった。沈黙は肯定。ブライスさんは「ふぅん、そっか」と笑って、私の頬に口づけを落とした。
「リズは優しいね」
「い、いえ……」
「見ず知らずの男を助けるなんて」
「あの」
「親し気に名前まで呼んで」
口づけの間に、言葉がささやかれる。言葉を重ねるほどに、口づけは下へ下へ。顎先を通り、首筋をかすめ、指先が悪戯に胸元の第一ボタンを外した。
「ま、まってブライスさん!」
「“ブライスさん”?」
動きが止まった。鎖骨の中央辺りをブライスさんの唇が掠める。
「あの男は“レオーニ”で、恋人の俺が“ブライスさん”?」
今度は私の動きが止まる番だった。頭の中でその言葉を反芻して、ようやく理解する。
「え……、さん付けで呼ぶのが気に入らないってことですか?」
まさかそんなことで、とも思ったが、
「そうだよ」
とブライスさんは顔を上げた。
「そんなことですか?」
「“そんなこと”? リズはもう少しこれを続けて欲しいってこと?」
「いっ、いいえ!」
寄せられた唇を咄嗟に押し返して、私は大きく首を振った。
ようやく「ふ」とブライスさんが顔を綻ばせる。柔らかな光をたたえた瞳が向けられて、肩から力が抜けた。
いつもの、ブライスさんだ。
「正直なところ、気に入らないことばかりだけど」
「ご、ごめんなさい」
「いいよ。俺のこと呼び捨てで呼んでくれるなら」
「えっ」
鼻先が触れ合いそうな距離まで顔を近づけられ、一瞬息が止まる。「キスなんて、何回もしたのにね」そう言ってブライスさんは、多分目を白黒させる私を笑った。そして「早く」と掠れた声で催促する。
そんなの、ずるい。
「ブ、」
「ん?」
「ブラ……」
「早く」
「ブ、ブライ……」
恥ずかしい。けれど言わなければ永遠にこの甘ったるい檻の中からは逃げ出せない。
あと一文字、お腹の下あたりに気合を入れて、一気に
「3分だ」
言えなかった。無遠慮に開いた運転席のドアから、ルイスさんが滑るように中へ入ってくる。バックミラー越しにこちらへ視線を投げると、「邪魔して悪いが」と平然と付け加えられる。
後部座席で第一ボタンを開けて横たわる私。それに馬乗りになるブライスさん。
…………。
「ぎゃーーーっ!」
色気もなにもない、羞恥心が爆発した悲鳴が出た。ブライスさんを押しのけて、転がるように車から出る。出た時に顔から転び鼻を擦ったが、そんなことも気にはしていられなかった。
「リズ、大丈夫?」
「だっ、だだだだ大丈夫です!」
「鼻の頭真っ赤になってるよ」
「いいんです。生まれつきなので!」
嘘です。生まれつきなんかじゃないです。でもそんな意味不明な嘘が出てしまうくらいに混乱しているんです。分かって。
と、情けなさやら恥ずかしさやらで絡まった言葉は、空気を吐くだけになった口からは出ず、代わりに涙の浮かんだ目が雄弁に伝えた。
「ふふっ……ごめんよ」
笑いを堪えたようにブライスさんは言って、これ以上は何もしないと両手を上げた。
「心の準備が必要なんだもんね」
「はい、そ、そう、です」
「大丈夫、ちゃんと待っててあげるよ」
「そ、そうしてください」
恥ずかしさで、ブライスさんが直視できない。
足元に視線を落としたまま、私はブライスさんとルイスさんに別れを告げて、カリタスに戻った。店のドアを閉める前にもう一度振り返ると、ブライスさんはまだ窓から私を見ていた。目が合うと小さく手を振ってくれる。そんな些細なことがうれしい。でも、恥ずかしい。人間は難しい。いろんな感情がいつも絡み合っていて、素直になれない。
私は多分とても情けない笑顔を作って、ブライスさんに一度手を振ってから、ルイスさんに頭を下げて店に戻った。
◇
顔を真っ赤にしたお嬢ちゃんがよろよろと店の中に入ったのを見送ってから、アクセルを踏んだ。と、同時に後部座席の窓が閉まる。後部座席の男は、こらえていたものを吐きだすように声を上げて笑った。
「はは……くっ……あー、楽しい」
「それはそれは。こっちは冷や汗ものだがな」
その男が声を上げて笑ったのを見たのはもうずいぶん久しぶりだが、今はそんなことに感慨深くなっている場合ではない。腕時計が指す数字は、予定の時刻を大幅に過ぎている。次の予定に遅れることは許されない。「飛ばすぞ」の一言で、車のスピードをぐんと上げた。
後ろの男は能天気なものだ。まだ笑いが収まらないのか、俯きがちに肩を震わせている。
「……まあ、よかったのか」
「ん?」
「さっきまで、ひどい顔だったぞ」
街にたくさんいる“うちの耳”の一人が、「最近、ブライスの女について調べている男がいる」と伝えてきたのはつい先刻のことだった。普段は頑なに寄ろうとしないカリタスに、予定の間を縫って車を停めた。
窓ガラスから見えた、そこにいるはずのない白い服に、ブライスは車が止まるやいなや飛び出した。
バックミラー越しに一瞬だけ見えた顔は、完全にキレていた。おいおいそんな顔でお嬢ちゃんの前に出る気かよ。ここでは銃は抜かない約束だぞ、とかいろいろ思ったが、こちらが注文をつける前にブライスは店に入ってしまった。
「あーあ……」
そんなことはあり得ないだろうと思いつつも、万が一に備えて頭の中で、あの表の警官をやってしまった場合のことを考えておく。穏便に、穏便に。が、どう考えたって穏便にまとまりそうな話ではない。
「勘弁してくれよ……」
しばらくして、表の警官の服を着た男が店から出て行った。それから、ブライスとお嬢ちゃんが出て来る。ブライスは笑顔だったが、ほの暗い目を見て全て察した。
案の定、ブライスは車に彼女を引っ張り込んで組み敷いた。ああ、哀れなお嬢ちゃん。「3分」は、せめてもの情けだ。彼女は可愛らしいが、大切なのはブライスだ。
煙草をふかしながら、ぼんやりカリタスの方を見た。
窓から恐ろしい顔をした昔なじみの男が目を光らせている。ため息しか出ない。
3分を少し過ぎたころ、車の中に入った。盛大な悲鳴と共に、お嬢ちゃんが転がりながら車から飛び出す。顔は茹蛸、鼻の頭を擦りむき、涙目で話す姿は哀れっぽく、笑える。しっかりと店に入る前に頭を下げる姿も可愛らしい。
そんな彼女に見事に毒気を抜かれたブライスは、今やすっかり元通りだ。
「安心したよ」
「リズは素直だから」
「違いない。あの男に育てられて、どうしてああ育つかね」
あの暴力的な男に育てられ、なぜああなるのか。ジャンの昔の姿を知っていると、尚更だ。
「まあ、とにかくよかった。表の警官を殺したら、それこそ面倒だ。今はいろいろ立て込んでるからな。何事も穏便に済ませたい」
「はっ。こんな街でこんな仕事をしてて、何が“穏便に済ませたい”だよ」
ブライスは「くだらない」と吐き捨てて、目を細めた。
「大人になるっているのは、矛盾を抱えることさ」
「あーあ、すっかり老け込んで」
「とにかく、上手くやれよ」
「……そうか。じゃあ先に謝っておくよ、ルイス」
決められた予定を読むように淡々と、ブライスは言った。
「次にリズに触れたら、俺はあの男を殺す」
◇
お風呂を終え、ひんやりとした廊下の空気から逃げるように部屋に戻った。薄暗い部屋の端で、消えかかったストーブの火がちらひらと揺れていた。ストーブを消して、カーテンの隙間から入る街灯の灯りを頼りにベッドへもぐりこむ。少し冷たいシーツの中を探り、湯たんぽに足を付けた。
ふう、と息を吐く。
仕事をしている間はあまり思い出さないが、一人になると思い出す。
『きみをここから連れ出す』
そう言って、数日前、店を去ったレオーニさんの姿を。
冗談やめてよ、と笑って過去の思い出にしてしまいたい。けれど、レオーニさんの目は真剣そのものだった。笑い飛ばして、思い出なんかにできるようなものではなかった。
「本当に、また来るのかな……」
心に押しとどめておくには不安が大きくて、言葉にした。
怖い。
ただ、レオーニさんが怖い。
レオーニさんを助けたことは後悔していない。けれど、こんな風になるなんて思わなかった。ただ、あんな寒いところで傷つく彼を放っておけないだけだったのに。
「もし、また来たらどうしよう……」
眠気に引きずられ、ゆっくり目を閉じた。その時だった。
雷が落ちたような音がして、建物が揺れた。
「わっ!? な、なに!?」
慌ててベッドから飛び降りて、カーテンを開ける。窓を開けると、うちの店と隣の建物の間あたりに、車が突っ込んでいる。車のボンネットはへしゃげ、道に細かい部品のようなものが散乱している。人が乗っていたら大変だ。
それに、うちの店の窓ガラスも割れてしまっているらしい。店の前の歩道には、ガラスの破片が散らばっている。
「た、大変!」
部屋から出ようと扉を引いたとほぼ同じタイミングで、外からもドアが押された。不自然な軽さのせいでよろめいた私を、ジャンさんの腕が抱きとめる。
「リズ、大丈夫か!」
「ジャンさん」
「怪我は?」
「ない。ジャンさん大変、事故だよ! 車が突っ込んで、店の窓が! 車の中に人が残ってるんじゃ……!」
「落ち着け。俺も見た。下には俺が行くから、お前は部屋にいろ」
「でも!」
「いいから」
肩を押され、部屋の中に押し戻される。不満だが「お前が下手に怪我したら誰が店の片付けするんだよ」と言われてしまえば仕方がない。小さく頷くと、ジャンさんは「よし」と子供にするように私の頭を掻き撫でた。
「必要になったら呼ぶから、それまでは部屋にいろ、いいな」
「……分かりました」
ジャンさんの足音が遠ざかり、私はもう一度窓から外を見下ろした。
近所の人が出てきて、車の中を覗き込んでいる。ほうきやちりとりを持った人も出てきた。私も、呼ばれたらすぐに出られるように上着だけでも羽織っておかないと。
椅子に掛けておいた厚手のカーディガンを取って、袖に片腕を通したところで、ふと、感じた。
――人の、気配。
「……リズ」
私は聞こえるはずのない声に導かれるように、ゆっくりと振り返った。
視線の先にいた人物を見て、“まさか”と思うと同時に、“やっぱり”とも思った。
「レオーニさん……」
あの日店に来た時とは違う、黒っぽい服に身を包んだレオーニさんが、夜の闇に溶けるようにドアの向こうに立っていた。
「迎えに来た」
「迎えに来たって……私は……」
レオーニさんを見て感じたのは紛れもない恐怖だった。開いた窓の下にはジャンさんも、近所の人たちもいる。助けを呼べば、すぐに誰かが来てくれる。
それなのに、私の足は縫い留められたかのように動かず、声を忘れたかのように口も動かない。
じっとりと背中に汗をかいた。
「待たせて悪かった」
「レ、オーニ、さん……」
「兄さんと一緒に行こう」
兄さん。
誰に向けられたのか分からないその言葉を聞き返す前に、私の視界は真っ暗になった。