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かたちのないものについて 01.

全然バレンタインに間に合わなかった、バレンタインの話です。

この話を投稿するのに伴って、完結設定を一時外しました。そして、本編の誤字脱字や時系列を多少ですが修正していますで、よろしくお願いします。5話完結です。


「“バレンタインデー”?」


 ふと気が付くと、レジ脇にポストカードサイズのポップが張られていた。淡いピンク色の紙に、灰色がかった黒いインクで文字が書かれている。どこかで聞いたような単語だった。

 誰に言ったわけでもなかったが、返事が返ってきた。ジャンさんだ。ショーケースの中にチョコレートを補充しながら、「知ってるか?」と私に尋ねる。


「聞いたことあるような、ないような」

「だろうな」

「バレンタインデーって、なんですか?」


 レジにお金を入れながら、私は聞き返した。


「チョコレートを贈る日だよ。大昔の風習さ。2月14日に、大切な人にチョコレートを贈るんだと」

「はあ、変な習慣ですね」


 チョコレートなんてどこでだって、いつだって買えるのに、なんでわざわざその日にチョコレートを贈ると決めるのか、私は不思議だった。チョコレートなら、好きなときに渡せばいい。

 補充を終えたジャンさんは、「俺は少し分かるけどな」と小さく笑った。


「愛は目に見えないからな、時々そうやって形を与えて、目に見えるようにしてやりたくなるんだよ」


 ジャンさんくさいセリフ~。とか、ジャンさんよくそんな歯の浮くようなこと言えますね。とかなんとかかんとか、私は言った。多分、言った。どっちだったかな。思い出せないな。



 その時、ふいに胸元に熱い息がかかって、一気に現実に引き戻された。


 

 薄暗い天井に、激しい雨の音。時折、その隙間から聞こえる、熱い呼吸。視界の端をちらつく銀色。


「……っ、ブ、ブライスさん」

「ん?」


 いつもは正面か、もしくは少高い位置から聞こえる声は、私のさして豊満ではない胸の間から聞こえた。大変よろしくない場所である。


「は、離れて、ください」

「んー」


 イエスでもノーでもない間延びした声と一緒に、少し冷たいブライスさんの指が首筋を撫でている。くすぐったい。でも、ちょっと気持ちいい。声が出そうになるのを、ぐっとこらえる。




 私とブライスさんが恋人になってしばらく経った。

 何回かデートもした。たいていデートはブライスさんの部屋。ブライスさんは忙しい。なにで忙しいのかはあまり知らないが、私が聞いていいことではなさそうなので、聞かない。

 部屋では二人で古い映画を見たり、おいしいものを食べながらお茶を飲むのが定番だ。この前は少し高級なレストランにも連れていってもらった。


 店が休みの今日は「時間ができたからランチでも」というお誘いに乗って、ブライスさんの家への道を急いだ。が、途中雨に降られてしまって、ブライスさんの家についた時にはびしゃびしゃ。濡れ鼠になった私のために、ブライスさんはお風呂を用意してくれた。大きくてきれいなお風呂にはいい香りの入浴剤が入っていた。とろっとしたお湯に浸かると、まるでお姫様になったみたいに、ふわふわした気分になった。


「おいで、髪を乾かしてあげるよ」


 お風呂を出たと同時に放たれたその言葉で、私は完全に舞い上がった。にやけないように、頬の内側を噛みながら、私は椅子に腰かける。「乾かす前に櫛で髪を梳かすんだよ、それからオイルを塗ると髪がつるつるになる」そう言って、ブライスさんは私の髪を梳かし、シトラスの香りのするオイルを塗ってくれた。

 幸せすぎる。死んでもいい。


「ありがとうございます、ブライスさん。私、とっても幸せです」


 ふわふわした気分は心の中に留めておけなくなって、私は言葉にした。ブライスさんが、花のように笑う。きれい。


「リズ」


 甘ったるく名前を呼ばれて、甘ったるいキスが降ってきた。ブライスさんのサラサラの髪が首筋を撫でて、少しくすぐったい。

 ふわふわする。気持ちよくて、嬉しくて、あまりいろんなことが考えられなくなる。ふわふわする。いい香りがする。まるで体が空に浮いたみたい。ほら、背中もなんかふわふわするし。


 ……背中が、ふわふわ?


「……ブライスさん」

「なんだい、リズ」

「えっと……ベッドが濡れます」

「そんなこと、気にしなくていいよ」


 気が付けば、背中にふわふわしたベッド。正面にブライスさん。押し倒されている、と思ったのも束の間。熱烈なキスが降ってきたところまでは記憶にある。

 多分そこで脳がオーバーヒートした。完全に違う世界へ飛んでしまっていた。とにかく、この状況はよくない。やんわりとブライスさんの肩を押した。


「あ、の」

「ん?」

「ブライスさん」

「んー」

「心の、準備が」


 まだ。

 みなまで言わずとも、私の弱々しく消えた語尾がイエスの意味でないことは伝わったらしい。

 ブライスさんはゆっくりと体を起こすと、そのまま私の隣にごろりと横たわった。目元を腕で抑え、長い息を吐く。


「……ごめんね」


 腕をずらして、ブライスさんは小さく笑った。


「い、いえ」


 どちらかと言えば、悪いのは私の気もする。

 男性と付き合ったのはブライスさんが初めてだが、付き合った男女がなにをするかくらいは知っている。そして私は、そういうことをするのに尻込みするような年齢ではないし、むしろ興味だってある。

 けれど、考えてしまうのだ。

 多分、いや、確実に、ブライスさんは私が初めての相手ではない。きっと彼にふさわしい大輪の花のような女性や宝石のように美しい女性と、そういうことをしてきたんだろう。それに比べて自分は……

 もちろん、ブライスさんはそんなこと言わないし、実際のところあまり気にしていないだろう。だから、これは私の心の準備の問題だ。


「私のほうこそ、ごめんなさい」

「謝らないで、リズ」


 ブライスさんの細くてきれいな指が、私の目尻を優しく撫でた。

 彼の笑顔は溶けそうに甘い。この顔を世界で私だけが見られるんだと思うと、温かいものが心に満ちると同時に、ほんの少しだけ醜い優越感が頭を出す。


「愛してるよ」




【かたちのないものについて】




 あの日、彼の口から放たれたたった6文字が、それから一週間以上たっても、私もまともな精神状態にしてくれない。

 というか、ブライスさんの恋人になってから、私にまともで平穏な精神状態がもたらされたことなど、一瞬たりともないかもしれない。穏やかな“いつものブライスさん”から時折放たれる甘ったるい言葉は、私にはちょっとばかり刺激が強い。


「――ズ、リズ」


 時々、夢みたいな気持ちになる。ブライスさんが、私を好きだなんて、そんな。

 

「おい、リズ!」

「っ、はい!」

「……俺のスクランブルエッグがスクランブルエッグ味のマヨネーズになる前に、その手を止めてくれ」


 気が付くと、新聞の向こう側のジャンさんの目が、私の手に向けられている。握ったチューブから滝のように流れる白いマヨネーズ。ジャンさんの皿の上には、ほとんど本来の黄色が見えなくなった哀れな朝食のスクランブルエッグ。


「ご、ごめんなさい」

「2日前はケチャップまみれ」

「うっ」

「5日前は俺のコーヒーにチリソースをぶち込んだな」

「ご、ごめんなさい」

「謝らなくてもいいんだぞ。俺は、娘が初めての恋人のことで頭がいっぱいになって、一日のほとんどを夢心地で過ごしていて、本当によかったと思っている」


 最近の失態を早口にほじくり返されて、私はもう言葉もない。

 すごすごと、スクランブルエッグにかかったマヨネーズをスプーンですくって、自分のスクランブルエッグにかけた。もうこの際、スクランブルエッグにはなにもかけない派、とか言っていられない。


「き、気を付けます」

「毎日聞いてる」

「……仕事では、失敗はしてませんよ」


 下がった株を少しでも上げようと出た一言も、


「当たり前だ。仕事にまでそのふわふわした雰囲気で来るなら、もう店に立たせないぞ」


 と、一蹴。

 穏やかな朝食のテーブルを重たい雰囲気が覆い、私は無言でスクランブルエッグをすくった。やっぱりマヨネーズとスクランブルエッグの相性はよくない。原材料が卵のものを、卵にかけてどうするんだ。

 ラジオが流すアップテンポの曲が、空しく響く。


 正直、これではいけない、と分かっている。制服に着替えて、髪をまとめて店に立つ。


 開店してしばらくすると、今日初めての客が入る。その後も、ちらほらと客が続いた。私は一人一人丁寧に接客し、チョコレートを売る。会計の際にバレンタインデーの宣伝をするのも忘れない。

 時計が13時を指したところで店の看板を一旦クローズにする。昼休憩だ。その後はブライスさんの家にチョコレートの配達に出る予定がある。


「少し早いですけど、出てもいいですか」


 ブライスさんとはあんなことがあった後だし、朝ジャンさんと話したことも、まだ引きずっている。少し頭を冷やして、いろいろ落ち着かせる時間が必要だと思った。

コックコート脱ぐジャンさんにそう言うと、ジャンさんは顔をしかめた。


「……昼飯は?」

「そこらへんでサンドイッチとか、適当に買って食べます」

「……気を付けろよ」

「はい」

「変なところに寄り道したりするなよ」

「……はい」


 2階へ上がり、ワンピースに着替えてから飾りのついたバレッタで髪をまとめ直し、コートを羽織った。首に巻いた白いマフラーはブライスさんからの贈り物だ。

 店に降り、配達用のカバンに用意されていたチョコレートを詰める。


「リズ、持ってけ」


 ぶっきらぼうな言葉が、ショーケースの上に持ち歩き用のカップを用意した

 「なんですか?」と蓋を開けると、ふわりと湯気が上がる。中身はマシュマロの乗ったホットチョコレート。その上には生クリームたっぷり。店のメニューにはない、私の大好物だ。


「寒いから、早く帰ってこいよ」


 言葉の裏に隠された“朝は言いすぎて悪かったな”の言葉を汲みとってから、カップ片手に私は「いってきます」と店を出た。




 今日も街は灰色。人通りはまあまあ。BGM代わりに聞こえるのは、どこか遠くで鳴るサイレン。まともに機能していないとはいえ、仕事熱心な警察もそれなりにいるらしい。

 マフラーに鼻まで埋めて、いつもよりゆっくりとした足取りでブライスさんの店に向かう。今年の冬はとびきり寒いけれど、今はその痛いくらいの冷たさが丁度よかった。


 まだ、朝のマヨネーズたっぷりのスクランブルエッグが胃に溜まって気持ち悪いので、顔なじみの店で安いビスケットを2枚買って、店の前の花壇に腰かけ、ホットチョコレートを飲みながらちびちび食べる。

 街の埃っぽい空気も、たまには悪くない。


 ふと、足元に温かいものを感じた。見下ろすと、黒い猫が私の左足に纏わりついている。


「や。こんにちは、猫さん」


 小さく挨拶をすると、猫は頭を上げこちらを見てから「にゃあ」と元気よく返事をした。まるで私の言葉が通じているかのようなその仕草に、少し興味が引かれた。


「私に用事かな?」


 猫は私の顔を見たまま、もう一度「にゃあ」と鳴いた。こんな偶然が2度も続くと、少しワクワクした気持ちになった。まだブライスさんの家に行くまでには時間がある。私は膝を折って、猫の頭を撫でた。


「なんの用事ですかにゃー」

「にゃう、にゃう、にゃぁ!」

「……きみ、本当に人間みたいだね」


 猫は私に何か訴えかけるかのように鳴き続ける。にゃうにゃう、にゃあん。うんうん、なるほど、全然分からない。


「ごめんね、私、猫語はちょっと……」


 謝罪の気持ちを込めて顎の辺りを撫でやると、指先が何かに触れた。


「あ、きみ、飼い猫なんだ」


 指が触れたのは革の首輪だった。随分古く、もうほとんど切れかかっている。けれど首輪にはしっかりとプレートが付いていた。ほとんど擦れて見えないが、子供のものと思わしき字で名前もかかれている。


「……“飼い猫だった”、かな?」


 首輪の雰囲気からすると、捨てられた猫のようにも見えるが、毛並みはいい。どこかの誰かに手入れしてもらっているんだろうと思う。


「にゃぁ!」


 突然、猫が私から走って離れた。

 そのままどこかへ行ってしまうのかとも思ったけれど、猫は細い路地の前で立ち止まり、こちらを見ている。


「……“ついて来い”って?」


 猫語は分からない。猫の気持ちも分からない。でも、なぜかそう言っているんだと思った。

 普段なら絶対にそんなことはしないけれど、今日の私は立ち上がり、猫の後ろを追った。猫はそのまま細い路地に入る。


 薄暗く、人一人が通るのやっとの道を抜け、少し開けた場所まで出た。埃っぽい。息を吸うと喉の辺りがイガイガする。飲みかけだったホットチョコレートを一口飲んで、喉を潤しながら周囲を見渡した。

 ずいぶん人が来ていないようだ。雑多に積まれた木箱やゴミで、スペースはほとんど埋まってしまっている。宝物でもあるんじゃないかと思ったが、なんてことない、ただのありふれたこの街らしい光景だ。


「おーい。猫さん?」


 そして気が付くと猫もいない。


「まあいいや。ちょっとわくわくした……し……」


 見渡して、ふと気が付いた。木箱の奥から、誰かの足が見えている。そして、よく見ればその場に続くように地面が黒ずんでいる。


 ――血だ。


「だっ、大丈夫ですか?!」


 私はほとんど無意識にその人の元へ駆け寄った。

 側に行くと、鉄の匂いがむわりと香って、思わず口元を抑える。倒れていたのは、まだ若い男性だった。歳は自分と同じか、少し上だろうか。いや、そんなことはどうだっていい。問題は、その男性がひどい怪我をしているということだ。

 見慣れない褐色の肌と夜のような漆黒の髪には、べったりと血がついていて、一瞬、死んでいるんじゃないかとさえ思った。けれど腹部を抑える手に触れると、「う」と唸って眉間に皺を寄せたので、生きてはいるらしい。


「……お、お兄さん……」


 その手を握ると、男性はゆっくりと目を開けた。黒い瞳が虚ろに宙を彷徨って、こちらを捉える。


「大丈夫ですか?」

「……誰だ」


 ひどく掠れた声が、苦し気に言葉を紡いだ。口の端から、空気と一緒に血が漏れる。


「通りすがりです。待っててください、今、医者を呼んできます」

「……いい」


 立ち上がろうとすると、とても死にかかっているような人間だとは思えない力で腕を引かれた。


「いい、医者は呼ぶな」

「でも、」

「いいから」


 もう一度腕を引かれ、私は仕方なく彼の隣に座り込んだ。彼は私が座り込んだのを確認すると、腕を離した。掴まれていた場所には、指の形に血が付いている。


「でも、こんなに出血していたら危ないですよ」

「いい。ほとんど、返り血だから」


 返り血、と聞いて、思わず彼の全身を見返した。これ全部、返り血。つまり、彼が殺した人の血。

 頭のなかには、すぐに、ありとあらゆる良くない可能性が浮かんだ。彼が殺し屋で、「俺を見たやつは生かしておけねー」と殺されるパターン。どこかの危ない組織の人で、「俺を見たやつは生かしておけねー」と殺されるパターン。どこかの危ない組織に狙われている人を助けてしまって、その組織に「こいつとかかわりを持った人間は皆殺しだー」とぶっすりやられるパターン。どれもこれも見事にバッドエンド。

 次にどうするべきか考えて、固まっていると


「……おい」

「ひゃい!」


 唸るような声で現実に引き戻される。

 彼は浅い息を繰り返し、それでも目だけは刃物のように鋭くこちらを見ている。

 恐怖で、ごくりと喉が鳴った。


「……もう、どこかへ行ってくれ……」


 苦し気に吐き出して、彼は目を閉じた。口の端から漏れる不規則な呼吸と合わせて、胸が上下する。

 きっと、放っておけばこの人は死ぬだろう。そんなこと、この街では珍しくない。けれど、


「飲んでください」


 私は足元に置いておいた、飲みかけのホットチョコレートを、彼の口元に寄せた。


「……いい」


 彼は忌々しそうにそう言うと、顔を逸らした。でも、私だって「ああそうですか」とは言えない。もう一度口元に飲み口を寄せて、「飲んでください」と先ほどよりも強く言った。


「いい」

「とにかく、飲んでください。すぐに医者を呼んできます」

「いい」

「このままだったら、死んでしまいますよ」

「いい。死んだって、いい」


 彼は頑なだった。「いい」以外の言葉を知らないかのように、それ以外の言葉を紡がず、カップに口も付けなかった。

 残念なことに、私もそこそこ頑なな性格だ。どれだけ拒否されても、カップを口元から離さなかった。

 根競べだ。遠くでサイレンと誰かの笑い声が聞こえた。


「あなたは死んだっていいと思っているかもしれないけれど、私はもう生きてるあなたを見てしまったので、ここで死なれたら夢見が悪いです」


 頑なな私たちの根競べは、最終的に私の勝利で決着がついた。

 小さな舌打ちを一つ。そして、彼はわずかに体を起こし、震える手でカップを持つと口に流し込んだ。ごくり、ごくりと、ゆっくり二口飲んで、お兄さんは口元をぬぐった。


「甘……」

「そう、甘いですよ。生クリームたっぷりなので」

「死ぬほど甘い」

「甘くて人死んだことはないですよ。安心してください」


 チョコレートは太古の昔、万能薬だったと聞いたことがあるようなないような気もする。彼の疲れや傷を治す一助くらいにはなってくれるかもしれない。

 カップをお兄さんの脇に置いて、私は立ち上がった。


「とにかく、手当できそうな人を呼んできます。大人しく待っててくださいね。すぐ、戻ってきますから」


 お兄さんは返事をしなかった。

 後ろ髪を引かれる思いだったが、私はすぐに店へと戻った。店先に立っていたジャンさんは「配達はどうしたんだ?」と不思議そうに私を見たが、服の袖辺りについた血を見つけると、表情を曇らせた。


「配達中に、倒れている人を見つけたの。ひどい怪我してる。ジャンさん、助けて」


 ジャンさんは怒ったような呆れたような顔をした後、額を抑えて深いため息をついた。


「……おい」

「はい」

「そういうことに首突っ込むなって、何度も言ってるだろ」

「はい。でも、無理でした」


 そう言うと、ジャンさんは目を丸くした。何か言いたげに口が動いたが、結局出たのはため息だけ。そんなにため息ばっかりついてると、幸せが逃げちゃうんじゃないかと心配になる。あ、でも、ため息つかせてるのは私か。


「……もういい、案内しろ」

「ジャンさん、ありがとう」


 ジャンさんは店に戻ると、2階から救急箱と上着を持って降りてきた。さっき開けたばかりの店の看板を、もう一度クローズに変えて、元来た道を走る。途中、灰色の空から真っ白な雪が落ち始めた。大粒の雪は、きっとすぐに積もるだろう。こんな寒いところは体によくない。早く、彼を助けに行ってあげなければ。

 猫に導かれた細い路地に入って、彼が倒れていた場所までやってくる。


「……あれ?」


 けれどそこに、彼はもういなかった。私が置いていったホットチョコレートの入ったカップも、どこにもない。


「道間違えたのかな……」

「いいや」


 後ろからついて来ていたジャンさんはそう言うと、彼がいたであろう場所で膝を折った。隠すようにゴミが詰まれてはいるが、少しどけると血がべっとりと残されている。


「お兄さんいったいどこに……」


 探しに行こうと動いた足を「リズ」というジャンさんの声が止めた。


「追うな」

「え……」

「ここまでだ」


 そう言うと、ジャンさんは立ち上がり踵を返した。「待って」と後を追うと、返ってきたのは「だめだ」という冷たい言葉だった。


「これ以上は危険だ。父親として、それは許さない」


 そう言われてしまえば、私に反論はできない。言葉も、あのお兄さんへの申し訳なさもぐっと飲み込んで、歩き始めたジャンさんの少し後ろに続いた。店へ戻ると、ジャンさんはブライスさんの家に今日の配達の断りの連絡を入れ、もう一杯ホットチョコレートを作ってくれた。

 ひどく体の冷えた私は着替えを済ませて、それを飲む。

 もう私にできることは少ない。警察へ連絡はしたが、多分そんな方へまで手は回らないだろう。あとは、あのお兄さんが無事であることを祈るだけだ。


「休むか?」

「ううん。平気です」

「じゃあ、そろそろ店開けるぞ」

「はい」


 時々、寂しくなる。

 この街はやっぱりどこかおかしくて、ここで育った私もおかしいのかもしれない。あんな風に怪我をした人を放って、私は平気でチョコレートを売ることができてしまうんだから。


「悪いな、リズ。俺はお前が一番大切なんだ」


 ジャンさんがそう言って、私の背を軽く叩いた。私は小さく笑って「知ってますよ」と答えた。




 結局、あれからあの男の人は見つからなかった。

 生きてるか死んでるか。できれば生きていてくれたらいいなぁと思いながらも、毎日仕事をしていく中で、彼のことは徐々に過去の苦い思い出として消えつつあった。


 そんな時、彼は再び私の前に現れた。


「いらっしゃいませ」


 ドアベルが鳴って、厨房で片付けを手伝っていた私は店に出る。ドアの前に立っていたのは、褐色の肌に黒髪の、あの男性だった。


「あ、お、お兄さん!」


 慌てて駆け寄ると、お兄さんは、あの日とは打って変わって「やあ」と柔らかな表情を見せてくれた。


「よかった……無事だったんですね」

「ああ」

「大人しくしててって言ったのに、どうして行っちゃったんですか!」

「すまない」


 お兄さんは困ったように眉尻を下げて、私を見た。あの時は血濡れで分からなかったけれど、こうしてみると、ずいぶん綺麗な顔をしている。端正な顔立ちと褐色の肌には、純白の服がよく似合う。

 にしても、見たことのない服だ。ロング丈の上着に、白いタックの入ったパンツ。黒いネクタイ。上等そうなネクタイピンや、パリッとしたシャツ。黒い手袋。警官の制服に似ている気もするけれど、ここの警官の制服は真っ黒のクタクタのシャツだけだったはず。そもそも制服をちゃんと着ている警官をろくに見たことがないので、なんとも言えないのだけれど……


「お兄さん、あの……」

「レオーニだ」

「え?」


 お兄さんの手が、私の手をすくい上げるようにして握った。


「レオーニ」


 それが名前だと気が付くまでに、少し時間がかかった。


「あ、レオーニ、さん」

「さん、なんていいよ。気恥ずかしいから、レオーニと呼んでくれ」

「レ……オーニ……」


 誰かを呼び捨てにしたことなんて生まれて一回もなくて、「レオーニ」と呼ぶ方が、私には気恥ずかしかった。けれど名前を呼んだレオーニさんが、なんだか泣きそうな顔で笑ったので、それ以上何も言えない。


「えっと、今日はどうしたの? チョコレートを買いに来たの?」

「いいや」


 レオーニさんは、ぐいと私の手を引いた。「わっ!?」と姿勢を崩し、そのままレオーニさんの胸元へダイブする。鼻を打ってしまい、じんじんと痛んだ。慌てて体を離そうと腕を突っ張ると、それよりも強い力で引き寄せられる。

 状況を理解できないままに見上げたレオーニさんは、ゆっくりと、小さな子供に語りかけるように言葉を紡いだ。



「リズ、きみを、ここから連れていく」



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