幸福について
はじめて会った時から、リズは彼女が届けてくれるチョコレートのように、ただただきれいな生き物だった。
【幸福について】
「こんにちは」
「――は?」
低い声が出て、咄嗟に口元を覆い隠す。怖がらせただろうかと下を見れば、小さなおさげの女の子が、大きなカバンを持って立っている。彼女は少し緊張しているようで、口元に浮かべた笑顔はどこか引きつっている。
「カリタスのリズです。チョコレートの配達に来ました」
どういうことだよ、と説明を求めるために、彼女の後ろに立つルイスを睨む。ルイスは心底おかしそうにこちらを見ていた。腹立たしいことこの上ない顔だ。
「彼女はチョコレートショップ、カリタスの看板娘さんだ」
「へえ。で?」
「彼女の言葉の通りだ。今日彼女はチョコレートの配達に来ていて、そんでこれからお前が一緒にお茶をする相手だよ」
「――は?」
本日2度目の「は?」は一度目よりも不機嫌さを表に出したものになった。ルイスの言っている意味が分まったくわからない。あまりの意味の分からなさに、こいつ悪い薬でもやってるんじゃないかと疑っていると、ルイスは俺の心を読んだように「俺はまともだよ」と両手を上げた。
「用意させていただきます」
「ああ、よろしく頼むよ」
話の流れについていけない俺を放置して、リズと名乗った小さな子供は応接室の奥へと進んだ。窓際のテーブルの上に、カバンの中からいくつか赤い箱を取り出し、並べていく。
「話の流れが読めない」
「疲れた時には甘いものっていうだろ?」
「だから?」
「最近お疲れのボスに、かわいい部下からの贈り物だよ」
おまえのどこがかわいいんだよ、と言う代わりにため息が出た。
伸びた前髪を掻き上げてちらりと少女を窺えば、行儀よくテーブルの横に立ち、窓の向こうを見ていた。どうやらチョコレートの用意は終わったらしい。
「安心しろよ。俺の古い知り合いの店だ」
「……それはどうも」
「ああ、それと」
肩を掴まれて振り返ると、ルイスが悪戯っぽく言った。
「手ぇ出すなよ」
呆れて物も言えないとはまさにこのことか。いら立ち交じりに肩の手を振り払って彼女の元に足を進めると、後ろで押し殺したような笑い声と共に扉が閉まった。
父親の跡を継いで「ボス」と呼ばれるようになってしばらく経った。
自分よりもずっと年上の屈強な男達を引きつれて、権力ゲームの中に身を投じる日々は、想像通り吐き気がするような日々だ。
張り付けた笑顔の下に欲望を隠しながらすり寄ってくる人間をいなし、血みどろの争いが終われば、汚れた手のままいら立ちを吐き出すように女を抱く。火薬と鉄の臭いにきつい香水が混ざった香りが、一日中まとわりついていた。
自分がいつかこうなることは、よく分かっていた。
ただそれが、予想していたよりも少し、早かっただけだ。
「では、チョコレートの説明をさせていただきます」
「……どうぞ」
使用人が紅茶を用意し終えると、リズは恭しく一礼をしてから手元のメモに視線を落とした。メモを持った小さな手が震えている。
「今日のテーマは“希望”。こちらのトリュフは“雪解け”という名前です。まぶしてあるのはココナッツパウダー。くちどけがいいです。そしてこれはチョコレートの器にはちみつで漬けたナッツを入れた“宝箱”。キャラメルシロップの入ったハートの形のミルクチョコレートは“初恋”。そして……」
頬をほんのり上気させながら、一生懸命に大人びた言葉でチョコレートを説明する姿を見ていると、申し訳ないけれど笑えてしまった。すべてのチョコレートの説明を終えた後で俺の顔を見たリズは、少し不服そうに頬を膨らませた後、視線を逸らした。
「……私の説明に、至らないところがありましたでしょうか」
「いいや、ごめん。一生懸命話してくれて、嬉しかったんだ」
「そうですか」
消え入りそうな声でそう言って、彼女は視線を膝の上で握った手に落とした。それから行儀よく座ったまま、彼女は動かない。
「……どうかした?」
「ブライスさんが食べるのを待っています」
「あ、そう……」
じゃあ、とチョコレートに手を伸ばしかけて、動きが止まる。
つい一か月前、もう名前も覚えていないどこかの社長との会食で、毒を盛られた。馴染みの店だったことで油断していたのだ。スープを一口飲んだ時のわずかな違和感に気が付かず飲み込んでいたら、たぶん今ここにはいなかっただろう。すぐに吐き出したが、それでも1週間寝込むことになった。吐き気と高熱にうなされたあの一週間はもう二度と経験したくない。
「どうしたんですか?」
「いや……」
こんな子供に、毒が入っているかもしれないから食べたくない、とは言いにくい。ルイスの知り合いの店とは言え、俺は面識がないわけで、不安になるなという方が無理だろう。
「あー……きみから食べて」
我ながら最低なことを言っている自覚はあるが、それでも立場的に死ぬわけにはいかない。ごめん、と心の中で謝っておいた。
「でも、私は店員ですから」
「いいよ。きみみたいなレディよりも先に俺が食べるわけにはいかないから」
リズはしばらく悩んだあと、「いただきます」と小さな声で言って、ハート型のチョコレートをつまんだ。それを一切の躊躇なく口に入れて、咀嚼する。緊張で硬かった表情が、チョコレートが溶けていく速度でほぐれていく。ゆっくりと飲み込んで、リズは「ごちそうさまでした」とはにかんだ。
「じゃあ、俺も」
「どうぞ。おいしいですよ」
白いココナッツパウダーのついたトリュフを選んで口に入れる。舌の上に乗せた瞬間、とろりと溶けて甘い香りが口いっぱいに広がった。おいしい。
その甘さになんだか力が抜けてしまって、久しぶりに椅子の背に体を預けた。
「どうですか」
「……おいしいよ」
「ありがとうございます。ジャンさんに伝えますね」
リズ心底嬉しそうに目を輝かせた。
「もっと食べてもいいよ」
「え? でも……」
「いいから、お詫びだと思ってよ」
「お詫び?」
「あ、いや。こっちの話」
リズは何度も断ったが、それでも客の要望を断りきることもできないらしい。ついに折れて、彼女は渋々チョコレートに手を伸ばした。それに続いて、もう一つ箱の中からチョコレートを選ぶ。
チョコレートを食べると、リズの目元が柔らかくなる。その表情は幼い。
「聞いてもいいかな? きみ、歳はいくつ?」
「7歳です」
やっぱり、一回りも下だ。ルイスがどういうつもりで「手を出すなよ」なんて馬鹿げたことを言ったのか、理解に苦しむ。
「きみはカリタスで働いてるんだ?」
「そうです。接客をしています」
「ジャンさん、っていうのは父親?」
「いえ、育て親です」
なんでもないことのように言って、リズは紅茶を飲んだ。「わぁ、おいしいです」と目を輝かせる姿は子供だが、この街の人間らしく、それなりに事情はあるのだろう。
「ジャンさんはショコラティエです。おいしいチョコレートを作る天才です」
「へぇ、きみはジャンさんが好きなんだ?」
「はいっ」
一切の迷いもなく、力強くそう言って笑うリズの姿はまぶしかった。
「そう……」
とてもきれいなものを見てしまった。恥ずかしさと情けなさが混じった感情で気の抜けたような返事しかできない。
自分にはこんなふうに誰かを迷いなく信じられた時はあっただろうか。ずっとずっと昔にあったような気もするけれど、もう全部、忘れた。
「……またおいで」
そう言ったのは、間違いなく気まぐれだった。チョコレートはおいしかったけれど、特別ではない。金を出せば、すぐに用意できる。ただなんとなく、純粋そうな子供に当てられただけだ。
すぐにめんどくさいことを言ったかな、と思ったけれど、リズが心底嬉しそうに笑ったので、後悔はしなかった。
それからリズは、2か月に一度チョコレートを届けにやってくる。
金を動かし、暴力で人を屈服させ、女を乱暴に抱いて、リズに会う。リズは吐き気を催すような日常に現れた、ただひとつのきれいなものだった。
チョコレートを食べて笑い、好きなものを好きだと言って、なんでもない会話に表情を変える。そんな彼女と時間はわずかだったけれど、その時間に救いさえ感じていた。「ブライスさん、またね」と手を振る彼女を見ると、どこかに忘れてきた感情を思い出しそうになって苦しい。
「最近調子よさそうだな」
ある時、車のハンドルを握っていたルイスがからかうように言った。後部座席からバックミラー越しに視線を投げ、「まあ……」と曖昧に返すと、ルイスはからからと笑った。
「いい贈り物をした部下に感謝してくれてかまわないんだぜ、ボス」
「……そうだな」
「お、素直だな」
事実として、リズがチョコレートの配達をするようになってから、調子がいいのだ。
「かわいいなぁ、あのお嬢ちゃん」
「……そうだな」
「手ぇ出すなよ。あいつの育て親に散々釘刺されてんだ」
「まさか、あんな子供に……」
あくびを噛み殺しながらそう返す。この後はどこぞのマダムと会食だ。めんどくさい女だ。どんな要求をされるかと思うと、げんなりする。
「子供が女になるのなんてすぐだぜ」
まさか。と心の中で返して、目を閉じた。いつかリズがあの金と色に目がくらんだ女のようになるなんて、想像もできなかった。
けれど関係が何年も続くと、ルイスの言葉を意識せずにはいられなくなった。
リズは次第に大人になった。体つきが丸くなり、髪も伸びた。初めて口紅を付けてきた日は驚いた。けれどその次には「前髪を切るのに失敗した」ともじもじしながら部屋に入ってくる。
子供が大人になる瞬間を目の当たりにしているようでクラクラした。
「ブライスさん? 大丈夫ですか? ぼーっとしてましたよ」
「あ、ああ。大丈夫」
「疲れているんですね」
リズは困ったように笑って、チョコレートの並んだ箱を差し出す。
「これが一番甘くていいですよ」
ハートの形のかわいいチョコレートを示されて、それを食べる。食べるとミルクチョコレートの中からキャラメルシロップがどろりと溶け出す。
「……甘いね」
「ふふ。でも、私そのチョコレートが一番好きなんです。そういえば、はじめて会った時にも持ってきたんですよ。“初恋”っていう名前のチョコレートです」
ふわりと笑ったリズの顔を見て、息が止まった。突然、世界に名前をつけられた気分だ。自分の中にあった感情の名前が“初恋”だと理解してしまった。自分の中に、こんなに甘くてきれいなものがあるなんて知らなかった。
心の底から、リズに幸せになってほしいと願える。
でも、同時に自分から離れて欲しくないとも思う。
相反する感情を抱えながら、まるで子供のように悩んだ。
リズを幸せにするのは、たぶん彼女のようなきれいな人間だ。そうであって欲しい。でも、いつか彼女の隣に立つであろうきれいに生きてきた男を想像すると、殺意が湧く。
そして、ついに抱えきれなくなって、吐き出した。
「君に恋人ができたなら、もうここには呼べないからね。確認だよ」
まん丸に開かれたリズの目を見て後悔した。
彼女は迷子のように不安そうな顔をしていた。
「さよならだ、リズ」
別れを告げて、後悔した。でも正しい道だったと分かっている。
10年近く続いた特別な時間を失って、それがいかに大切だったのか思い知った。吐き気がする日々に飲み込まれ、呼吸さえままならなくなった頃、彼女が会いに来てくれてどんな気持ちだったかーー。
「――ブライスさん」
「え?」
名前を呼ばれて顔を上げると、不機嫌そうに頬を膨らませたリズがこちらを見ていた。「聞いてました?」と問われて「聞いてなかった」と返すと、彼女は「もー」とチョコレートをかじった。
リズが好きなのは、甘いチョコレート。ナッツが入ったものや、お酒の風味がするものは、少し苦手。今日もその口に運ばれたのは、キャラメルヌガーたっぷりのミルクチョコレートだった。あの日、口づけた唇みたいに甘いチョコレート。
ああ、あの時のリズは可愛かったな。あのまま押し倒さなかった自分を褒めてやりたい。
「ブライスさん? 大丈夫ですか? 今日はなんだかぼーっとしてますね」
「ん? ごめん、少し考え事をしてたんだ」
「ごめんなさい。今日はお忙しかったですか?」
「いいや。来てくれて嬉しいさ」
チョコレートショップの店員とその依頼主じゃなくなっても、リズはチョコレートを持ってやってくる。
けれど彼女は好きなときにやってくるし、もちろん俺も、好きなときにリズに会う。
「ねえ、リズ、来週の週末あたりにディナーに行かない?」
「え?」
リズが目を輝かせた。
「いい店があるんだ」
「い、行きたいです!」
「そう? じゃあカリタスの仕事が終わったら迎えに行くよ」
「はい。じゃあ、おめかしして待ってます」
おめかし!
あまりの可愛らしい発言に、変な声が出そうになって下唇を噛んだ。
心底嬉しそうに頬を染めて、うっとりと目を輝かせるリズの顔を見ていると、胸のあたりがあたたかいもので満たされていく感覚がある。
あの武闘派のショコラティエに、さぞかし大事に育てられたんだろう。
「夜は遅くなっても大丈夫?」
「はい。ちゃんとジャンさんに伝えておきますね」
「……リズはさ、どこまで分かってんのかな?」
「なにがですか?」
「いいや、こっちの話」
あわよくば、なんて下心にまったく気づかず首を傾げるリズに微笑みかけると、彼女ははにかんだ。
チョコレートを一つ選んで食べると、中からほのかにジンジャーの香りがした。ほろ苦い。
リズには幸せになって欲しい。こんな街でそう思うことは馬鹿げているのかもしれないけれど、そのきれいな気持ちに嘘はない。
でも自分の中は汚い感情や、血生臭い思い出でぐちゃぐちゃで、そんな俺がこれから彼女をどれだけ傷つけるか想像もできない。罪悪感を感じる一方で、ほの暗い喜びが胸を染め上げる。ごめんな。先に謝っておくよ。きっとこれからたくさん泣かせてしまう。
どこまでも甘くて、きれいな、きみを。
END