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04.


 この家でブライスさんに会うとき、私はいつも特別だった。いつもと違う綺麗な服を着て、いつもよりしっかりメイクをして、髪も整えた。

 でも、今日、呼び鈴を鳴らした私は、ただのリズだ。カリタスの制服に着古したコートとマフラー。走っている間に髪はほどけてボサボサ。メイクもほとんどしていない。

 それが少し、怖かった。



【04.】



 呼び鈴を鳴らすと、しばらくの沈黙の後、ゆっくりとドアが開いた。


「こんにちは」

「お嬢ちゃん……」


 顔を出したのは、スキンヘッドにサングラスの彼だ。ええと確か名前は


「……ルイスさん」


 いつかの夜に、ブライスさんがそう呼んでいたはずだ。

 サングラスの彼は、私がそう言ったのを聞くと、少しだけ驚いて、それから困ったように「ああ」と短く返事をした。


「今日はどうした? チョコレートの配達は、頼んでないが」

「今日は、個人的にブライスさんにチョコレートを渡したくて来ました」

「ボスに?」


 ボス、と口に出して、彼はしまったと口を押えた。ルイスさんはバツの悪い顔で、「今のは……」と訂正の言葉を探し、私は彼がいいフォローを見つけ出す前に「そうです」と返した。

 ルイスさんはしばらく考え込んだ後、


「……入りな」


 とドアを開けてくれた。

 久しぶりにふかふかした赤い絨毯を踏む。いつも夢の中に飛び込んだかのように現実感がなくなるけれど、今日は胃が鈍く痛んだ。部屋を漂うシトラスの香りに隠れた、鉄と煙草の香りをいつもより強く感じる気がする。豪華な調度品の隙間を埋める花たちは、今日はいない。


 ルイスさんは、私を、3階の一番奥の部屋に案内した。


「ノックして、入りな」

「……はい」


 励ますように肩を叩かれ、私は意を決してノックをした。中から短い返事があり、取っ手を押す。その手は力なく、ぶるぶると震えていた。


 踏み込んだ先は、ずいぶん殺風景な部屋だった。

 女の子の夢みたいな豪華な調度品も、淡い色の花の置かれたテーブルセットも、ベルベットのカーテンがかかった大きな窓も、なにもない。

 広い部屋にはベッドとテーブル、備え付けのクローゼットだけ。ベッド脇の、カーテンのない窓から差し込む鈍い光だけが、うすぼんやりと部屋の中を照らしていた。


「……ブライスさん」


 名前を呼んだだけで、胸が苦しかった。


 ベッドに腰かけ、俯いていた彼はゆっくりと顔を上げた。結われていない長い銀髪の隙間から覗いた深い緑の瞳が、私を捉えると大きく見開かれる。


「……リズ」


 ブライスさんはずいぶん疲れているように見えた。涼し気な目元には、深い隈が刻まれている。よれたYシャツのボタンは上から3つ目まで外され、首にはグレーのネクタイがだらりと掛けられている。

 私はその時初めて、ブライスさんの体を這うように刻まれたタトゥーに気が付いた。


「どうして……」


 ふらふらと立ち上がろうとした彼の元へ駆け寄り、その肩を抑えてもう一度ベッドに押し戻す。まとわりついた火薬の香りが鼻先を掠めていった。


「忙しいときに来てしまってごめんなさい。座っててください」

「いいんだ……いや、よくない。リズ、どうして来た。チョコレートの配達は頼んでいないはずだ」

「はい、頼まれてません」

「だが、それは……」


 ブライスさんの視線が、私が手に持つカバンに向けられる。


「これは、私が個人的に、ブライスさんに届けにきたものです」

「……なに言ってるんだ、リズ」

「椅子をお借りしても、いいですか」


 彼は「いい」と言わなかった。戸惑いがちに揺れる瞳で、ただ私をじっと見つめるだけだ。けれど彼は「だめだ」とも言わなかった。

 壁に寄せられた机の椅子を引いて、ブライスさんの正面に腰かける。


「説明してくれ、リズ」


 ブライスさんは眉間のあたりを抑えながら、低い声で言った。


「俺は君に、別れをはずだが」


 足元に置いたカバンからチョコレートの入った赤い箱と、新作の入った小さな紙袋を取り出して、膝の上に置いた。


「……私にとっても、ブライスさんとチョコレートを食べる時間は特別でした」


 蓋を開けて、ブライスさんに差し出す。彼は困惑していたが、やがてあきらめたように一つ、ナッツの入ったチョコレートをつまんだ。


「いつもと違う服を着て、メイクをして……私にとってブライスさんは、ずっとずっと大人で、すごくかっこいい人だったから、いつも少し緊張しました」


 もちろん、今も緊張しています。と付け足すと、ブライスさんがわずかに口元を緩めた。


「ブライスさんがチョコレートを食べて、ほんの少しだけ幼く見える笑い方をするのを見るのが、とても好きでした。いつまでもその時間が続くんだと、思っていました」


 ブライスさんはチョコレートをかじった。私もそれに倣って、ジャンさんからもらった紙袋からチョコレートを一粒取り出してかじった。かじった後で、あまり好きじゃないお酒の風味が強いものだと気が付いた。ほのかに甘い香りが抜けた後で、アルコールの強い苦みが舌の上に広がる。袋の中にはメモが一枚。


 チョコレートの名前は「あい」。


「ブライスさんに、恋人ができたらもうここには呼べないと言われたとき、とても悲しい気持ちになりました」

「……うん」

「あの夜、別れを告げられた時、大切にしていた宝物が壊れたみたいな気持ちになりました」

「……うん」


 目の前のチョコレートがぐにゃりと歪んだ。


「……好きです」


 震える声で言葉にすると、抑えきれなくなって涙が溢れた。

 そんな情けない顔見られたくなくて、必死に顔を覆った。


「……好きです、ブライスさん、私、あなたに恋をしているんです」


 あの夜から私の中でぐちゃぐちゃに混ざってのたうち回っているそれが恋だなんて、認めたくなかった。でも、言葉にすると、それが恋なんだと認めてあげられる。

 私は配達がなくてもブライスさんに会いたい。チョコレートを食べたい。もっとあなたのことを知りたい、愛されたい、特別になりたい。ずっと、特別でいたい。


 落ちた沈黙が、背中にのしかかるようだった。どんな答えが彼の口から紡がれるのかと思うと、心臓が張り裂けそうだった。

 沈黙を破ったのは、ブライスさんの掠れた声だった。


「……リズ」


 両頬を優しく挟まれ、顔を上げるように導かれる。

 ブライスさんは、わたしのひどいことになっているであろう顔を見て、顔を綻ばせた。


「ひどい顔だ」

「……知ってます」

「俺はひどい人間だよ。あの夜、分かっただろう?」

「……それでも、好きです」

「俺は、君には幸せになってほしかったんだけどなぁ」


 ブライスさんはそう言って天を仰いだ。そして、長い息を吐く。

 鼻をすすりながら彼の白い首筋を見ていると、「そのチョコおいしい?」と唐突に問いかけられる。そのチョコがどれを指すか気が付くまでしばらく時間がかかった。多分、半分かじったままのこれだ。


「少しお酒の香りが強いですけど、おいしいですよ。今度出す新作らしいです」

「そうなんだ」

「はい」

「食べさせて」

「……え?」


 もう一度こちらを見たブライスさんは笑っていた。正確にはブライスさんの口元だけは笑っていた。深い緑の目は細められ、あの夜のように鋭い光で私を見ている。

 反射的に身を引きそうになると、頬に添えられた手の力が強くなる。


「両手がふさがってるんだ、早く」


 心臓が爆発しそうな恥ずかしさと、泣きたくなるような嬉しさで、私はどんな顔をしていいのか分からなくなった。

 震える手で、かじりかけのチョコレートを緩やかな弧を描く口元まで持っていく。


「ど……どうぞ」

「ありがと、リズ」


 ブライスさんは緩慢な動きでチョコレートに唇を寄せる。その輪郭を確かめるように唇でなぞって、深く息を吸う。指先を唇が掠めるたびに、心臓が悲鳴を上げた。


「いい香りだね」


 指ごと口に含まれて、小さな悲鳴が漏れた。ブライスさんが上目遣いに笑う。暴力的な甘い雰囲気に飲まれて息さえままならない。


「……ブライスさん」

「ん?」


 何かを言いたかったわけではなくて、ただ名前を呼びたかっただけ。胸が詰まって、吐き出さないとどうにかなってしまいそうだった。

 ブライスさんは私を見て、唇を舐めた。


「リズ」


 瞬間、視界いっぱいに広がった深い緑。それがブライスさんの瞳だと気が付いたのは、唇をぬるりと舐められた瞬間だった。身を引こうとしても、頬を掴んだ手が許してくれない。

 こういう時、息はどうしたらいいんだろう。目は閉じるの、開けておくの? 人生で初めてのキスにしては少し刺激が強すぎる。

 どうしていいのか分からず、目を白黒させる私なんてほったらかしにして、ついに唇を割って舌が入ってくる。甘いチョコレートの香りと、苦いお酒の味を感じて、ついに目を閉じた。

けれどそれは浅はかだったことを思い知る。視覚がなくなった分、より深く口元に意識が集中してしまう。

 口の中を好きに荒らされ、上あごを撫でられると自分のものではないような、鼻にかかった甘ったるい声が出た。恥ずかしい。死ぬ。でも嬉しい。泣きそう。


 もう頭の中はどろどろに溶けて、まともにものを考えられない。


 息が苦しくなったころ、私の唇を甘嚙みしてから、ブライスさんは離れた。


「リズ」


 息も絶え絶えな私と違って、ブライスさんは涼しい顔だ。


「すきだよ」


 もう一度寄せられた彼の唇を受け入れると、また涙がこぼれた。

 どろどろで、ぐちゃぐちゃでになって、お互いの境目まで曖昧になった口の中はチョコレートの味。

 


 甘くもなくて、きれいでもない、私の初恋が溶けていく。



END

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