03.
いつの間にかやってきたいつもより早い冬で、街に白が降りそそいだ。
店ではマシュマロを浮かべたホットチョコレートの販売が始まり、くちどけのいいチョコレートがショーケースに並ぶ。
私は何度も、あの部屋で、ブライスさんとチョコレートを食べる夢を見た。
03.
あの日から、私の生活はなにも変わらなかった。
私の神経はこの街で穏やかに生活できるくらいには図太いらしく、あんなものを見た後も、2日もすればいつも通りの生活の中だった。いつもの時間に起きて、いつものように客を迎え、依頼があればチョコレートを配達し、同じ時間に眠る。特別なことはなにもない。ただ、2か月に一度あったチョコレートの配達の依頼がなくなっただけだ。
ただ、それだけ。
「いらっしゃいませ」
今日何人目かの客を迎える。言われた通りにチョコレートを選び、区切りの中に一つずつ並べる。お金を受け取り、笑顔で挨拶をする。開かれた扉の向こうでは、今年何度目かの雪が降り始めていた。
滑り込むように店内に流れてきた雪が、床に触れて小さな小さな水滴になる。あと何分もしないうちに、消えてなくなるだろう。
消えないのは、あの日の思い出だけ。
心の奥底に張り付いたあの日のブライスさんの表情や、言葉たちが、ふとした瞬間に頭をもたげる。
あの出来事があった次の日、いつものように朝食を取っていると、新聞に見慣れた姿を見つけた。『マフィアの抗争激化』との見出しの下につけられた小さな顔写真は、ぼんやりして見にくかったが間違いなく彼だった。
「ブライスさん……」
「んあ?」
ジャンさんが、その言葉に新聞を折り返した。記事を見て「ああ……」と渋い顔で小さく声を漏らす。
「それ、やっぱりブライスさんだよね」
「あ、ああ……そうだな」
ジャンさんは歯切れが悪かった。
「ジャンさんは、ブライスさんが誰か知ってたんだ」
「……まあ、お前を配達に出してるくらいだから、知ってたさ」
これ以上話す気はないとでも言うように、ジャンさんは新聞を乱暴に畳んでテーブルの端に寄せた。
「ねぇ、ブライスさんは……」
「リズ」
咎めるように名前を呼ばれ、私は自分が身を乗り出していたことに気が付いた。
「やっぱりお前、買い出しから帰ってきてからおかしいぞ。なんかあったんじゃないのか」
「……なんにも、ないけど」
「そうか?」
「うん……」
「……なら、いいんだが」
そうは言いつつ、ジャンさんはちっとも納得していない表情だった。けれど無理に聞き出すつもりもないらしい。少し困ったように眉間を抑えると、もう一度私の名前を呼んだ。
「なあ、リズ。必要以上に客のことを知ろうとするな」
それはこの仕事を始めたときから口酸っぱく言われ続けてきたことだ。
「この街で生きてる人間は、多かれ少なかれ人に言えないようなことをしているし、ややこしい事情持ちばっかりだ。チョコレートを売ったり、チョコレートを食べることに、そんなことは必要ないだろ」
「うん」
「俺たちはここで、ただ客に一時の幸せを提供し続けるだけだ。それ以上に素晴らしいことはない。そうだろ?」
「……うん、そう思う」
その通りだ。余計な感情はチョコレートを売るのに必要ない。どんな人にだって平等にチョコレートを売る。それがこの店のモットーだ。知ってしまえば、きっと今まで通り接することができないような人だっているだろう。
――そうか。
瞬間、どうしようもなく理解した。
ブライスさんは、もう、私にとって特別になってしまったんだと。
私はブライスさんのことが、知りたい。
この感情に名前を付けることはできない。ただ、好奇心と愛情と恐怖がぐちゃぐちゃに混ざった熱が、腹の辺りでのたうち回っている。
けれど、私はカリタスの店員で、ブライスさんの家にはチョコレートの配達がないと行けない。そして、チョコレートの配達依頼はないまま。
ジャンさんに「ブライスさんのところから、次の配達依頼が来ないね」と尋ねてみたが、「まあ、そんなこともあるさ」と軽く流されてしまった。仕方ない。ある日ぱったり来なくなる常連客はいくらでもいる。うちの味に飽きたのか、それともこの街からいなくなったかのどちらかだ。別に、珍しいことではない。
地面が白み始め、時計の音がやけに大きく聞こえる。厨房で作業をするジャンさんの気配を感じながら、そっと目を閉じれば、思い出すのはあの日の銀色と赤。
ブライスさんは、今、なにをしているんだろう。
「こんにちは」
ドアベルが鳴ると同時に、甘ったるい声が店内に響いた。
「あ、いらっしゃいませ。お久しぶりです」
「そうねぇ、久しぶりね、リズ」
久しぶりに見た彼女は相変わらずの美女っぷりで、そのグラマラスな体を、この前とは違う男性の腕に沿わせている。彼女は高い真っ赤なヒールでショーケースに近づくと、赤く艶めく唇を尖らせて「どれもおいしそうで選べないわぁ」と甘えた声で、隣の男性を見上げた。
ジャンさんと同じ歳くらいの彼は、そんな彼女を猫でも可愛がるかのように撫でてみせた。
「ねぇ、リズ。おすすめはある?」
「……あ、ええ。あります。最近は寒くなりましたので口どけのいいものが人気で」
いけないいけない。すっかり二人の甘い雰囲気に飲まれていた。慌ててチョコレートの説明を始めると、「あら」と彼女が不思議そうな声を上げる。
「どうしましたか?」
「……リズ、あなた、なんだか雰囲気が変わったわね」
「え?」
長いまつ毛に縁取られたまん丸な目に至近距離で見つめられ、少し体を逸らす。彼女はどこから見ても完璧に美女だ。緊張してしまう。
「そ、そうですか?」
最近はメイクも変えていないし、髪も切っていない。どこも変化はないはずだ。……もしかしたら、太っただろうか。
ひやひやしながら、観察するように私を見る彼女の言葉を待った。
「……ああ」
しばらくして彼女は意味深に目を細め、納得したように頷いた。
「なんですか?」
「リズ、あなた恋をしたのね」
「こっ」
恋?
予想外の答えに固まっていると、深紅に彩られた長い爪が前髪に触れた。
「大人の顔になってる」
「お、大人の顔ですか?」
「ええ。前までのあなたは、きれいなもので満たされたかわいいリズだったけど、今は少し影がある」
べったりと張り付くような話し方と、彼女の甘ったるいバニラの香りで酔いそうだ。
「恋を知ったのね」
形のいい唇が弧を描く。
「まさか、そんな、恋なんて」と心の中で笑った。それなのになぜか、私の口からは全然違う言葉が出た。
「……でも、これは恋じゃないんです」
今にも泣きだしそうな、情けない声が出た。
「まあ、なぜ?」
「……どろどろで、重たいんです。分からないけれど、苦しいんです。恋なんて、そんなきれいなものじゃないんです」
こんなのどうかしてる。名前も知らない常連客の一人に、相談なんかして。
彼女と男性は互いに顔を見合わせ、それから小さく吹き出した。
「やだぁ、リズ、本当にかわいいのね、あなた」
「どうして、笑うんですか」
恥ずかしくなって袖で顔を隠すと、「ごめんね」と彼女が笑った。
「恋って、そういうものよ」
「え?」
「どろどろのぐちゃぐちゃで、重たくて、嫌になって、それでもその人のことを知りたい、愛されたい、特別になりたい、そう思うのが恋よ」
恋が甘くてきれいなものなんて、幻想よ。
秘密を教えるみたいに、彼女はショーケースに身を乗り出し、私の耳元で小さくささやいた。
「いいわね、恋」
私から離れると、彼女はうっとりとそう言った。
その時初めて、私は彼女の顔をしっかり見たような気がした。上唇の右上にあるほくろにも、初めて気が付いた。完璧に美しい彼女の笑顔は完璧ではなく、少し寂しそうに見えた。そして、それがどうしようもなく色っぽい。
◇
本格的な冬が到来し、もうすぐ新しい年がやってくる。
年末に、思い出したようにやってきた強盗は、いつものようにジャンさんが一瞬で撃退した。久しぶりの強盗に、ちょっとだけ彼の目が輝いているのを、私はショーケースの裏に隠れながら見た。彼が鍛えた上腕二頭筋は無事にその役目を果たしたのだ。
相変わらずの日々が続き、ブライスさんからのチョコレート配達の依頼も来ない。
ショーケースには宝石のようなチョコレート。丸、四角、花の形。そのすべてに丁寧な細工が施され、中には趣向を凝らしたガナッシュが詰まっている。甘くて、きれいな、チョコレート。
私はそれをいくつか選び、店の箱に入れて、配達用のカバンに入れた。
「ん? 今日配達の依頼なんてあったか?」
厨房から、出来立てのエクレアを持ってきたジャンさんが不思議そうに聞いた。
「ないです」
その答えに、ジャンさんは首を傾げた。
「これは、私が、個人的に配達したいものです」
「個人的?」
説明を求めるジャンさんの顔を見て、一度深呼吸をしてから、言った。
「ブライスさんに、チョコレートを」
ジャンさんは一瞬なんのことか分からなかったようだが、すぐに目を見開いた。なにか言いたげに口を開いたが、結局出てきたのは深いため息だった。頭を抑え、「冗談だろ」と呆れたように言う。
「一応聞くけど、なんでだ」
「……分かりません。でも、ブライスさんに会いたいんです」
ジャンさんはその答えに、もう一度深いため息をついてから、はっきりと「だめだ」と言った。
「依頼がないのに、なんでチョコレートを届けるんだよ」
「それは……個人的な、贈り物と、いうことで」
「おまえなぁ、客に深く関わるなってあれほど言っただろ!」
いら立ちを隠さないジャンさんの声に、今度は私が腹立たしい気持ちになった。
「……別に、いいじゃないですか。個人的なことです」
「よりにもよってブライスとはな……あの野郎、リズに手出すなって条件だったのに」
「手なんか出されてません! 私が勝手に好きなだけです!」
咄嗟に口を押えるが、もう遅い。私は自分の口から出た言葉が信じられなかったし、ジャンさんもその言葉が信じられないようだった。互いの顔を見たまま、黙り込む。
店の奥でオーブンが焼き上がりの音を知らせるまで、私たちは黙ったままだった。
「……なにか、焼けましたよ」
「……エクレアの、生地だ」
ジャンさんは本日3度目の深いため息をついてから、エクレアをショーケースの上に置いて、「なあ」とこちらを向いた。
「お前、本気か?」
「……まだ、分かりません」
「あの男は、ろくでもない男だぞ」
「私の前では、そうじゃないです」
「なんかあって、傷つくのはお前だ」
ふと、ブライスさんの顔が浮かんだ。真っ赤な血溜まりの中で、柔らかく微笑んだ顔。
私はあの顔を見たことがある。初めてブライスさんの家にチョコレートを届けた日、彼は同じ顔をしていた。きれいで、寂しそうな笑顔。
「……いいです」
傷ついたって、かまわない。今、会いに行きたい。
「それでも、行きたいです」
絞り出すように言った言葉が、ジャンさんに届いたのかどうかは分からない。
ジャンさんはぼりぼりと頭を掻くと、そのまま厨房へ戻っていってしまった。厨房から聞こえる物音を聞いていると、なんだか胸が詰まって、鼻の奥がつんとした。
込み上げてくるものをこらえるために、俯いて唇を噛む。
「はあ、まったく……」
不意に頭に大きな手が載せられた。その手は乱暴に頭を撫でて離れ、代わりに別の何かが置かれる。
「ついでに持ってけ。新作の試作品だ」
「ジャ、ジャンさん~」
「情けない声出すな。ほら、さっさと行け」
頭の上に置かれた小さな紙袋を受け取って、配達用のカバンに入れる。
ジャンさんは、困ったように笑って、もう一度私の頭を撫でた。
「早く帰って来いよ」
「はい」
コートを羽織って、マフラーを巻いて、店を飛び出した。外は冷え切って、空気に触れた部分は痛いくらい。吐いた息は真っ白で、視界を霞ませた。