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02.



 夢の中で、あの人に会った気がした。



【02.】



 1階のポストに乱暴に押し込まれた新聞を引き抜いて、2階に上がると、朝ごはんのいい香りが鼻先をくすぐる。ダイニングテーブルの上には、すでにコーヒーとトーストが用意されていた。そこに、ジャンさんが半熟の目玉焼きを乗せる。冷蔵庫から昨日の残りのチョコレートを取り出し、テーブルの真ん中に置けば、いつもの朝の風景が完成だ。


「新聞です」

「ん」


 正面の席に腰かけたジャンさんに新聞を手渡して、コーヒーを一口飲む。もちろん私のコーヒーはミルクたっぷり砂糖もたっぷり。私に言わせれば、新聞を広げながらジャンさんが好んで飲んでいるブラックは、正気の沙汰ではない。


「最近治安悪いな……」


 ジャンさんが忌々し気に呟いた言葉で、新聞を見る。誰が死んだとか、爆発があっただとか、強盗がどうだとか、抗争がどうだとか、いかにもこの街の日常らしいニュースで新聞紙はぎゅうぎゅう詰めだ。


「この街に治安がいい時期なんてあるんですか」

「それはごもっともだが、最近は特にだって話だ」


 ジャンさんは新聞を畳んでため息を一つつくと、「鍛えておかないとな」と心底めんどうくさそうに言った。

 私はそんなジャンさんの丸太のような上腕二頭筋を見ながら、それ以上鍛えたらコックコートが破裂するんじゃないですか、という言葉をトーストと一緒に飲み込んだ。

 

 比較的治安がいい場所にある、とはいえこの店はもう15回も強盗に入られている。もはや毎年の恒例行事のようになっているが、その度、強盗はジャンさんによってあっという間に撃退されてしまう。そんな武闘派なショコラティエがいてたまるか、と思うけれど、だからこの場所で店を続けてこれたのだとも言える。


「お前も気を付けろよ」

「はぁ」

「なんだ、その気の抜けた返事は」

「気を付けろって、いったい何を気を付けたらいいのか……」


 爆発も強盗も、気を付けていたからって巻き込まれないとか、そういうものではないんじゃなかろうか。

 目玉焼きの黄身をすすりながらジャンさんを見ると、ジャンさんは私の返事がお気に召さなかったようで、眉間に深い皺を寄せていた。持っていたコーヒーカップを置き、「リズ」と強い語気で名前を呼ばれる。

 失敗した。お説教モードだ。


「俺は冗談で言っているわけじゃねぇんだぞ」

「はい……」

「心配なんだ」


 父親の顔をしてそう言われてしまえば、私は何も言い返せない。


「気を付けてろ」

「はい」

「何に気を付けたら、じゃない。全部に気を付けるんだ。こんな場所に生きてるんだ。お前がここまで無事なのだって、運が良かったからとしか言いようがない。今日、お前が無事に、一日を終えられる保証だってないんだぞ」

「それは……わかってますけど……」


 俯くと、小さなため息の後に、「リズ」と優しく名前を呼ばれる。


「……俺はお前に幸せでいて欲しいだけなんだ」

「……ごめんなさい。ちゃんと気を付けます」

「気を付けてくれるなら、それでいいんだ」


 顔をあげると、ジャンさんはわずかに目尻を下げた。それから小さく咳をして、少し照れたように続ける。


「お前も体を鍛えておけよ」


 一拍置いて、そうじゃないでしょ、と思わず笑うと、ジャンさんは「なんだと!」と少しだけ不服そうだった。けれど、最後には結局、私の笑い声につられて笑ってしまっていた。


 こんなとき、私はいつもジャンさんがとても好きだと思う。


 くしゃくしゃの笑い方とか、厳しいけれど優しいところとか、全部がとても安心する。ジャンさんの作るチョコレートはまるでジャンさんみたいだ。

 食べるととても穏やかで、幸せな気持ちになる。


 だから何度も「もっと安全できれいな、違う街で暮らせ」という言葉を突っぱねて、ここにいる。この街で野垂れ死ぬしかなかった私を、幸せで満たしたのはジャンさんだ。父親はジャンさん。だから、この街を離れるつもりはない。ジャンさんの宝物のこの店で働きながら、たくさんの人にチョコレートを届ける。

 そう、決めている。




「ありがとうございました」


 珍しい親子連れの客に手を振って、一息ついたところで店の前の街燈に灯りが灯った。ずっと壊れていたのがようやく直ったらしい。


「リズ」

「はい」


 厨房で作業をしていたジャンさんに呼ばれ、中を覗く。彼は出来上がったチョコレートに筆を使って細工を施している最中だった。


「棚からはちみつと、ドライオレンジ取ってくれ」


 視線をチョコレートに向けたまま、ジャンさんは言った。

 指示通り材料の棚を覗くと、ドライオレンジはあるが、はちみつの瓶はない。


「はちみつないですよ」

「なに?」


 手を止め、ジャンさんは顔を上げた。


「下の引き出しに予備があったはずだが……」

「下にもないです」

「……しまった、買い忘れたな」

「ああ、私、買ってきますよ」

「だめだ」


 当然「頼むよ」と言われると思っていたので、予想外の返事に財布を探す手が止まった。


「え?」

「だめだ。最近は治安が悪いと言っただろう。それにもう夜が近い」


 朝の新聞の記事をまだ引きずっているらしいジャンさんは、そう言って再び作業を始めた。


「すぐに使いたいんじゃないんですか?」

「そうだが、まあ、別に明日の昼間でも……」

「大丈夫ですよ、別に。子供じゃあるまいし、ただのおつかいじゃないですか。店だってすぐそこですよ」

「それはそうだが……」


 ジャンさんはしばらく黙り込んでいたが、やはり首を振った。


「だめだ。今日は悪い予感がする」

「はあ。平気ですよ。もー」

「こら、リズ」


 そこまで「行くな」と言われると、逆に行きたくなってしまう人間心理。上着を羽織ってポケットに財布を押し込むと、チョコレートを持ったままのジャンさんから非難の声が上がった。


「大丈夫ですって。ちゃんと気を付けますから」

「ああもう! 明るい道を選んで歩けよ。そんでできるだけ急いで帰ってこい!」

「はぁーい」


 店の外に出ると、冬の気配を感じる風が通り抜けた。体がぶるりと震える。帰ったら少し早いけれど、ホットチョコレートを飲んでもいいかもしれない。マシュマロを乗せた、ミルクたっぷりのホットチョコレート。

 想像すると、お腹が鳴った。ジャンさんの言った通り、できるだけ早く帰ろうと、小走りに道を進んだ。



 なじみの商店ではちみつと、そしてホットチョコレートに乗せるマシュマロを買って、大通り出た瞬間だった。

 来た道の真ん中で車が盛大に爆発したのは。

 一気に炎が上がり、銃を持った男たちが集まってくる。幸いけが人はいないようだが、周囲には怒号が響く。


「またか。最近多いな。マフィアの抗争だよ」


 店から顔をのぞかせた店主が、困ったように言った。


「今日は店を閉めるよ。落ち着くまで店の中で待ってなさい」

「……いえ、大丈夫です。遠回りですけど、反対の道から帰ります」

「大丈夫かい?」

「はい」


 その時、なぜ店の中で待たなかったのか、自分でも理由は分からない。

 ただ何となく、私は自分をとても幸運だと思い込んでいたのかもしれないし、ジャンさんに早くはちみつを届けたかっただけなのかもしれない。ホットチョコレートを飲みたいだけだったのかもしれないし、はたまた、もうこの街の生活に慣れすぎて、感覚が麻痺していたのかもしれない。



 ただ言えることは、私はこの時の決断を、今、ひどく後悔しているということだ。



 いつもは絶対に通らない路地で、私はその人に会ってしまった。

 街燈の灯りで丸く照らされ場所に立っていたのは見惚れるような銀髪。いつもと違うのは、髪が緩いハーフアップにされていること、そして、振り返った彼が、赤く染まっていたことだ。


「……ブライスさん……」


 名前を呼んだ声は、情けなく震えていた。

 ブライスさんは私を見ると目を見開いたが、すぐにいつものような穏やかな笑みを浮かべた。


「……やあ、リズ」


 いつも名前を呼ばれるととても嬉しいのに、今は肩が大きく跳ねた。


「どうして、ここに?」

「あ……その……おつかい、で」


 はちみつとマシュマロの入った紙袋を抱える腕に力が入って、ガサリと音が鳴る。


「そう。こんなに遅くに、危ないな。心配だよ」

「……すみません」

「次からは気を付けるんだよ」


 なんでもないいつもの会話なのに、震えが止まらない。

 彼の頬から胸元までを真っ赤に染めるのは、血だ。そしてそれは彼のものじゃない。足元で倒れて動かない彼のものだろう。そして多分、彼の命を終わらせたのは、ブライスさんの右手に握られた銃だ。


 足元に溜まる赤を気にもせず、ブライスさんはただ緩い笑みを浮かべている。


「……しまったな、リズには見られたくなかったんだけど」


 ブライスさんは親指を唇に押し付け、俯いた。


「まさか、きみがいるなんてなぁ」


 前髪の隙間から投げかけられた視線に、心臓が握られたような感覚がした。

 その目は、あの部屋で、チョコレートを見る時の彼とは違う。冷たくて、鋭くて、怖い。獣のような目だった。


「ボス!」


 道の奥から走ってきた人影が、街燈の灯りの中にやってくる。スキンヘッドにサングラスの彼。いつも屋敷で私を招き入れてくれるあの人だ。

 私が気が付いたタイミングから一拍遅れて、彼も私に気が付いた。「お嬢ちゃん……」と、驚き交じりの声が彼の口から零れ落ちた。


「ルイス、そっちは」

「え? あ、ああ……もう、片付いた」

「そう」

「ボスは」

「俺は見ての通り、無事だよ」


 そう言って、ブライスさんは足元の男の脇腹あたりをつま先で強く押した。


「馬鹿な男が一人いただけだ」

「ならいいんだ」


 サングラスの彼はほっとしたように言った後、ブライスさんに黒いファーコートを渡した。血で汚れるのも気にせず、それを羽織って、彼は深く長い息を吐いた。


「……どうする」

「ん?」

「見られただろ」


 自分の話をされている、と気が付いたのは、二人の視線が自分に向けられてからだ。

 サングラスの彼が腰もとに手を入れて、銃を引き抜く。「どうする」の言葉の意味が分かったのも、その時。


「いいよ。それ、片付けて。怖がってるから」


 その動きを手で制して、ブライスさんは一歩こちらに踏み出した。ぱしゃ、と足元の赤が音を立てる。


「リズ」


 名前を呼んだのはいつもの声。あの部屋の窓際のテーブルセットの椅子に腰かける、優しいブライスさんの声。


「きみとチョコレートを囲むティータイムは、特別だったよ」

「……ブライスさん?」

「どんどん大きくなるきみが、甘いチョコレートを食べて顔を綻ばせているのを見るのが好きだった」


 物語を読むようにブライスさんが紡ぐ言葉は、まるでお別れの言葉だ。


「いつまでもその時間が続けばいいと、思っていたよ」

「ブライスさん!」

「さよならだ、リズ」


 追いかけようと、咄嗟に動き出した足は、丸く照らされた場所の一歩の前で制される。こちらに掌を向けたブライスさんが、ゆるゆると首を振った。


「だめだよ」

「……待って、ブライスさん」

「それ以上来ちゃいけない」


 ブライスさんの言葉は重かった。その言葉の通り、私の足はもうそれ以上動かなかった。


「俺ときみは違う」


 ブライスさんはくるりと背を向けた。銀色の髪が揺れても、もうシトラスの香りはしない。立ち込めるのは、吐き気がするような鉄と火薬の臭いだけ。


「きみには幸せになってほしいんだ」


 どこかで聞いたことのあるセリフを残して、ブライスさんとサングラスの彼は、暗闇に溶けるように消えていった。



 それから彼が、カリタスにチョコレートの配達を頼むことはなかった。


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