01.
ショーケースの中で、宝石のようにきれいなチョコレートが輝く。
私が一番好きなのは、キャラメルシロップの入ったハート形のミルクチョコレート。
名前は“初恋”
【01.】
呼び鈴を鳴らす前に、手鏡で身なりを確認する。いつもは雑に1つにまとめている赤茶色の髪は、きれいに編み込んで大人っぽく。メイクもしっかり丁寧に。洋服も、いつものシャツとパンツじゃなくて、黒の丸襟ワンピース。履き慣れないヒールは、正直あまり好きではない。
でも、今日は特別な日。
保冷剤の入ったカバンを握りなおし、呼び鈴を鳴らすと、すぐに見慣れたスキンヘッドの男が出て来る。ごつい体にサングラス、黒いスーツの彼を初めて見た時、この街で育った私もさすがに少しドキリとした。
「こんにちは」
「ああ、元気か?」
「ええ、まあ、おかげさまで」
軽い挨拶もそこそこに、建物の中に案内される。
ふかふかした赤い絨毯の床を踏むと、いつも急に現実感がなくなる。部屋に漂うシトラスの香りには、隠れるように鉄と煙草の香りが混ざっている。建物の中にはため息が出るような豪華な調度品が置かれ、その隙間を埋めるように、いつも満開の花が飾られていた。
この街で、こんな家に住んでいる人はあまり多くはない。できるだけ見ないようにしているが、それでもついつい視線が奪われてしまう。
階段を上り、2階の一番手前にある部屋の前に来ると、スキンヘッドの彼が重厚な扉をノックし、返事を待たずに開ける。
「よろしく」
スキンヘッドの彼は、口元をわずかに緩めて言った。
「はい」
私は彼の名前を知らない。時々不便にも感じるけれど、必要以上に客に踏み込まないのが、この街で仕事をしていく上で大切なルール。
いつものように彼に短く礼を言って、部屋に入った。
踏み込むと、シトラスの香りが強くなる。
女の子なら一度は憧れてしまうようなとびきり豪華な部屋の奥。ベルベットのカーテンがかけられた大きな窓の側には淡い色の花が飾られた、二人掛けのテーブルセットが置かれている。
依頼人はいつものようにそこに腰かけて、窓の向こうを見ていた。
「ブライスさん」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。鎖骨あたりまで伸びた長い銀髪が、軽やかに揺れる。
彼の名前はブライス。真っ白な傷一つない肌に、深い緑の瞳。涼し気な目元には、泣きぼくろが一つ。糊のきいた白いシャツが、とても特別に見えてしまうくらいに、彼は美しい。ボタン1つ分だけ開けられた胸元から、隠しきれなかった色気が漂ってきて、なんだかクラクラしてしまう。
彼の緩やかに弧を描いた唇が、「リズ」と私の名前を呼ぶと、いつも胸が高鳴った。
「待ってたよ」
彼は椅子から立ち上がると、私を手招いた。
「2か月ぶりだ、リズ……大きくなったね」
「ブライスさんは、いつもそうやって言いますね。2か月じゃそんなに大きくなりませんよ。もう17ですから、成長期なんてとっくに終わりました」
「そう? ずいぶん大人びたように見えるけど。本当によその家の子供は成長が早いなぁ」
「そんなおじさんみたいなこと言わないでくださいよ……」
彼の軽口に笑いながら、持ってきたカバンの中から赤い箱を取り出し、机に並べる。
「おじさんだよ。君より一回りも年上なんだから」
そう悪戯っぽく言った彼を一瞥してから、蓋を開ける。
小さく区切られた箱の中には、宝石のようにきれいなチョコレートが整然と詰められている。彼が小さく感嘆の吐息をもらした。
「相変わらず素晴らしいね、君の店のチョコレートは」
「ありがとうございます。ジャンさんに伝えます」
一年中、分厚い灰色の雲がかかるこの街では、もうずいぶん前に平穏は失われたらしい。
街は一年を通して喧騒の中で、あたりまえのように事件が起こり続ける。警察なんて、もうとっくの昔に名前だけだ。暴力や金だけが信頼されるここで、私の育て親は、ショコラティエを生業としている。なぜこんなところでそんな仕事を、と周囲からは絶望的に理解されないが、案外仕事は順調だ。
比較的治安がましな場所に構えた小さな店には、どんな仕事をしているのかは知らないが、金回りのよさそうなご老人から、小銭を握りしめてやってくる子供まで、様々な人間がやってくる。店の名前は『カリタス』。太古の言葉で愛を意味するという店の名前にふさわしく、ジャンさんはどんな人間にも平等に、愛がふんだんに詰まったチョコレートを売った。
ブライスさんはそんな店の常連客の一人。もう10年近く前から、2か月に一度、私はこうして彼の家にチョコレートを届けている。
「今日のテーマは花だそうです。こちらのタブレットチョコレートはバラの香りをつけたもの。名前は“秘密”。飾りの花びらも食べられます。こちらの花の形をかたどったものは“はる”。ハートの形は“初恋”。中には、キャラメルシロップが入っています。東の国の花の砂糖漬けが入ったこれは“ゆめ”」
ケースの中に入っていたジャンさんからのメモを読み上げると、ブライスさんは「いいねぇ」と顔を綻ばせた。と、同時に、部屋の中に若い女性の使用人が入ってきて、紅茶のポットとカップを机に並べていく。
注がれた飴色はいい香り。きっと高級な茶葉なんだろうな、と使用人の優雅な動きを見ながら思う。彼女は全ての用意を終えると、ブライスさんに一礼をしてから部屋を去った。
テーブルの上に用意されたティーセットは2人分。
「じゃあ、食べようか、リズ」
「はい」
ブライスさんはたくさんいる店の常連客の一人だけど、少しだけ特別だった。
彼はいつも私にチョコレートを届けさせ、そしてそれを二人で食べるようにと依頼するのだ。
最初はとても緊張したし、嫌だった。こんなにもきれいな人の前で食べるのは恥ずかしいし、なによりもお客様だ。お金を払っているのに、それを店員が食べるのはやっぱりよくないと思う。何度「私が食べる分がもったいない」と言っても、彼は「おいしいものは誰かと食べたいだろ」と笑い、私はいつも丸め込まれてしまっていた。
だんだんそんなやり取りも不毛に感じてきて、ここ何年かは受け入れてしまっているけれど、やっぱり多少の罪悪感のようなものはある。
「どれから食べようかな」
ブライスさんは、形のいい唇を親指で抑えながら、視線を迷わせていた。
考え事をするときに、親指で唇を抑えるのはブライスさんのクセだ。
「私のおすすめはタブレットのチョコです」
「じゃあ、それにするよ」
白い指がチョコレートを持ち上げ、ゆっくりとした動作で口に入れる。指についたチョコを舐め取ってから、彼はため息交じりに「おいしい」と言った。
「……よかったです」
「おやおや、リズ。顔が赤いね。どうしたんだい? 見惚れた?」
「……ブライスさんって本当に自分のことよく分かってますよね」
からかうように言われて、つい、少し拗ねた子供のような言い方で言葉を返す。ブライスさんはけらけらと笑って、紅茶に口を付けた。
彼にしてみたら、私は本当にまだまだ子供だろう。顔を真っ赤にして手で仰ぐ仕草が、いかにも子供っぽいとは分かっているけれど、そうでもしないと頭が爆発しそうだ。美人は3日で飽きるなんて、嘘だと彼を見ていると思い知る。
3日で飽きるどころか、私は会う度に、彼に引き込まれているような感覚さえあるのに。
「最近はどうだい?」
「そうですね。おかげさまで、店は忙しいですよ」
「リズは?」
「私ですか? 私は……別になんとも……健康ですよ?」
「はは、健康なのはいいことだ」
キャラメル味のチョコレートを半分かじって、紅茶を飲む。スッキリとした味は、甘いチョコレートによく合う。ジャンさんはチョコレートにはブラックのコーヒーがいいと言うけれど、私は紅茶が一番合うと思う。
「そうじゃなくて、異性関係とか」
「いせいかんけい……?」
「恋人はできたかい、ってことだよ」
明後日からの質問に、盛大にむせた。寸前のところで紅茶を吹き出しそうになるのをこらえ、口元を抑える。「大丈夫?」とブライスさんが慌てた声で背中をさすってくれるけれど、こうしたのはあなたです。
「だ、大丈夫です」
「そう? 水を持ってこさせようか?」
「いえ、咽ただけですから」
ようやく呼吸を整わせ、ブライスさんを見上げる。文句の一つでも言おうかと思ったが、彼は本当に心配そうに私を見ていて、なんだか気が抜けてしまった。
「……どうしたんですか、急に、彼氏できた? なんて……」
「あれ? これってセクハラかな?」
「いえ、セクハラではないですけど……」
ブライスさんは席に戻り、もう一粒チョコレート選んだ。今度はハートの形のそれをつまんで、半分だけかじる。真ん中からどろりとシロップが流れ出て、彼の指を伝った。
「君に恋人ができたなら、もうここには呼べないからね。確認だよ」
柔らかく微笑んだ彼の言葉を、私はなぜか、しばらく理解できなかった。
◇
カリタスは古いレンガ造りの2階建ての建物で、一階の店舗部分は細い通りに面している。店に戻ると黒塗りの高級車が止まっていて、店から品のよさそうな老人と、艶やかな赤髪のグラマラスな美女が、仲睦まじく腕を組んで出てきたところだった。彼女もまた、この店の常連だ。ファーコートを羽織った華奢な腕は、いつも違う男性に巻かれている。
「こんにちは。いつもありがとうございます」
「あらぁ、リズちゃん」
彼女は私に気が付くと、真っ赤な唇で美しくほほ笑んだ。
「大きくなったわねぇ」
今日2回目のセリフに、1回目と同じように返した。
彼女は小さく笑って、
「そうねぇ。相変わらず、かわいいのね、リズ」
と私の前髪に触れてから、男性のエスコートの元、車に乗り込んだ。車を見送ったあとも、彼女の香水の甘ったるい香りが、しばらくそこに残っていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
店に入ると、ショーケースの向こうに立っていたジャンさんが小さく手をあげた。黒いコックコートがジャンさんの筋肉質な体に悲鳴を上げている。いいかげんサイズを変えたほうがいいと思うのだけど、この方が筋肉質で強そうに見えるだろ、と言って絶対に少し小さめのサイズを買うのだ。
「配達終わりました」
「ん。ご苦労さん」
もうすぐ閉店の時間だ。ショーケースの中のチョコレートはあとわずか。新商品の赤いルビーのようなチョコレートはもう完売していた。ブランデーの味が強くて私はあまり好きではないけれど、大人のみなさまにはなかなか人気があるらしい。
配達用のカバンを片付けながら、私はショーケースを拭くジャンさんの背中に問いかけた。
「ねぇ、ジャンさん」
「ん?」
「私って子供っぽいですか?」
「……はぁ?」
ジャンさんは手を止め、怪訝そうに振り返った。
「どうした急に」
「いえ、なんとなくなんですけど……」
「……子供っぽいわけじゃないが……まあ、大人っぽくもないな……」
少し悩んで、ジャンさんはそう言った。曖昧な答えがちょっと不服である。
「どこが子供っぽいですか?」
「なんだ、やけに食い下がるな」
「いいから、教えてください」
ジャンさんは少し伸びた顎の髭を引っ張りながら、しばらく唸ったあと、「顔か?」と言った。
「……顔? 童顔ってことですか?」
思っていたよりも不機嫌な声が出て、ジャンさんは慌てて「いや、そうじゃないんだ」と眉間を抑えた。
「なんだろうな……上手くいえないけど、お前はまだ、小綺麗に見えるんだよ」
「……小綺麗?」
「可愛らしいってことさ」
褒められているのかけなされているのかよく分からないフォローに首を傾げていると、真鍮のドアベルが鳴り、店内に客が入ってくる。話は終わり、ジャンさんは店の厨房へと入っていってしまった。
「いらっしゃいませ」
接客用の笑顔を作って、ショーケースの前に立つ。納得はできなかったが、話は終わりだ。
顔に大きな傷のある中年の男性は、これから会う恋人に渡すチョコレートを適当に見繕ってほしいと言った。残ったショーケースの中から、女性に人気のものをいくつか選んで、金の箔押しがついた赤い箱に入れた。一つの仕切りの中には、一つのチョコレート。溶けてくっついてしまったら、せっかくのきれいな形も味もダメになってしまうから。
――恋人ができたなら、もうここには呼べないからね。
包んだ箱にリボンをかけながら、ブライスさんの言葉を思い出した。長い付き合いなのに、あんなことを言われたのは初めてだ。
なぜか、胸のあたりがジクジクと痛む。