『夢列車』
初のホラー、頑張ります!
洗面台に置いてある歯ブラシの毛先が広がっていた。俺は、小さく舌打ちをして、その歯ブラシを近くのゴミ箱目掛け放り投げた。しかし、投げた歯ブラシはゴミ箱の縁に当たって地面に落下し、俺は先程よりも大きな舌打ちをしてから落ちた歯ブラシを拾いに行く。
ゴミ箱は、洗面所の壁にくっつけて置いてある。そのため、俺の目には、数十年の時を経てすっかり黒ずんだ壁の姿も自然と飛び込んでくることになる。この汚い壁を見る度、いつか掃除しなくてはと思うのだが、家賃が安いからという理由でこのボロアパートを選んだ日以来、一度もその決意が果たされることはなかった。
東京の大学に受かり、一人暮らしを始めてはや数ヶ月。小・中の時はあんなに欲しいと思っていた夏休みも、いざ大学生になり、長い夏休みが与えられると、何もすることがなく苦痛でしかない。
歯ブラシをゴミ箱に叩き投げ、新しい歯ブラシを補充しようと洗面台の棚を探すも、一本も見つからない。三度目の舌打ち。しかし、ふいにこれは外出するいいきっかけなのではないかと思い立つ。この数日間、一歩も部屋から出ず怠惰な生活を送ってきた。そろそろ外の空気を吸わなければ、何となく人間としてだめになってしまう気がする。
そうとなれば、一気に外出の準備を整えてしまおう。あまりぐずぐずしていると、残暑の熱気がまた俺を部屋に閉じ込めてしまう。
俺は、パジャマから普段着に着替え、適当に髪を整えから玄関を出る。たちまち襲い来る熱気に、一瞬部屋に引き返しそうになったが、ぐっとこらえてアパートの階段へと向かう。
階段を降り、最寄りの駅まで歩いて行く。このアパートを不動産屋に紹介された時は、駅から徒歩二分とのことだったが、実際歩くと八分くらいかかる。恐らくあの不動産の親父は競歩の選手にでも計測してもらったのだろう。
照りつける日差しの中、俺は手をうちわ代わりにして扇ぎながら駅へと歩いて行く。そして、ちょうど八分後、俺は駅へと到着した。
「誰もいねえじゃねえか⋯⋯」
中途半端な時間にやってきたせいか、全く人の気配のない駅で、俺は独り呟く。無人の駅は何となく不気味な気配が気配がしたが、とりあえず、電車がやってくるまでスマホをいじって待つことにした。
数分くらいたっただろうか。電車がブレーキをかける時の音が聞こえてきて、俺はスマホをいじっていた手を止め、顔を上げた。しかし、やって来た電車を見て、思わず眉をひそめてしまう。
「なんじゃこりゃ⋯⋯」
そこにやって来たのは、たった三両しかない、見るからに年期の入った電車だった。何度かこの駅を利用したことがあるが、こんな電車は見たことがない。あまりにも異質な雰囲気を放つこの電車に、乗り込むべきか否か。既に乗り込まない方に傾きつつあった俺だったが、その時、ふいに視線を感じ、その視線の元である先頭の車両を見ると、やたら目深に帽子を被った車掌らしき男が、窓から身を乗り出してこちらをじっと見つめていた。俺がこの電車に乗るかどうか気になっているのであろうか。それならばと、俺はその車掌に話しかけてみることにした。
「すいませーん! この電車、〇〇には停まりますか?」
すると、車掌は無言で頷き、窓から乗り出していた体を引っ込める。俺は、一言くらい喋れよと内心ぼやきつつ、まあ目的地に着くのならいいやという楽観的な気持ちでこの電車に乗ることを決めた。多分、得体の知れないこの奇妙な電車に対する好奇心のようなモノもあったのだと思う。
俺は、二番目の車両の後方のドアから、この電車に乗り込んだ。すると、誰も居ないかと思いきや既に二人、同じ車両に乗っているではないか。まさかこんな変な電車に乗ったのが自分以外にも居るとは思わず、目を丸くする。そして、自分と同じように好奇心に負け、この電車に乗った同士がどのような人物かという興味から、その二人を観察した。
一人目は、少し太り気味のサラリーマン。彼は、車両の一番後ろ、通路右側の窓際の席に座っていた。太っているからか、やたらと額の汗を拭っているのが印象的だった。
二人目は、どこかくたびれた雰囲気のOL。彼女が座るのは、車両のちょうど真ん中、通路左側の通路寄りの席だ。具合が悪いのか、彼女の顔色はどことなく青かった。
俺は、そんな二人を観察しながら通路を歩いて行き、車両の一番先頭、通路右側の窓際の席に腰掛けた。そして、まるで俺が席につくのを待っていたかのようなタイミングでドアが閉まり、電車はゆっくりと走り出した。
しばらくの間、電車に揺られながら外の景色を眺めていた俺だったが、その視線を前方に向けた時、奇妙なモノの存在に気が付いた。
(あれは⋯⋯バックミラー? 何で、電車の中にこんなモノがあるんだ?)
俺の座る席から見て斜め左上の位置、先頭車両に続くドアのちょうど真上に、車に付いているようなバックミラーがあった。そのバックミラーは、この車両の通路の様子を、奥までまんべんなく映している。そして、俺がその事実を認識すると同時に、車内にアナウンスが鳴り響いた。
「⋯⋯えー、次は~『だるま』ー。『だるま』でございます」
あの無愛想な車掌の声だろうか。どことなく間延びしたアナウンスと共に告げられたのは、全く聞き覚えのない駅の名前であった。
(おいおい、本当に〇〇駅に着くんだろうな?)
目的地に本当に着くのか、全く聞き覚えのない駅を通るこの電車に不安を感じ始めたその時、ガラガラというドアを開ける音と共に、後方の車両⋯⋯つまり、三両目から何物かがこの車両に入ってきた。バックミラーには、ちょうどその入ってきた人物の姿が映し出されている。その姿を見て、思わずぎょっと目を見開く。
後方の車両から入ってきた人物は、二人いた。そのうち一人は、能で使われる般若の面を被り、黒い箱のようなモノを持っていた。そして、もう一人の方は、これまた能で使われる翁の面を被っており、こいつも黒い箱を持っていた。
見るからに怪しい格好の男が二人。俺は、何故後ろの車両に乗っている奴がいないか確認しなかったのかと、この電車に乗ったことを今更ながらに後悔した。
その怪しい二人組は、すり足のような動きで通路を少し進み、そして、先程見かけたあのサラリーマンが座っている座席のところで足を止めた。一瞬、バックミラーから二人の姿が消える。その二人が通路から座席に入ったのだと気が付いた時には、二人のお面男は暴れるサラリーマンを通路へと引きずり出していた。
(は? あいつら一体何をやって⋯⋯)
俺が抱いた不信感は、次の瞬間、翁の面の男が黒い箱の中から錆びた斧を取り出したことで、確実な恐怖へと変貌した。サラリーマンは「うわぁぁぁぁぁ!!?」と叫び声を上げ、二人組から逃げようとするが、般若の面の男が彼の体を床へと押しつける。
(は? な、何をしようとしているんだあいつらは!? と、兎に角、こんなヤバい奴がいる車両には居られない!! 早く前の車両に避難して、それから、車掌にこいつらのことを伝えないと⋯⋯!)
しかし、そう思い立ち上がろうとするが、体が全く動かない。その事実に慌て、今度は叫び声をあげようと口を開くも、声が出てこない。突然言うことを聞かなくなった自分の体に、混乱し、恐怖する。そして、動かせなくなった視線の先、バックミラーが映し出すのは、信じられないような残酷な光景。
翁の面の男が、サラリーマンの右の腕目掛け、持っている斧を振り下ろす。ぐしゃっという肉が潰れる嫌な音と共に、サラリーマンの「ぎゃあぁぁぁぁぁ!?」という悲鳴が車内に木霊する。そんなサラリーマンの悲鳴にも全く反応することなく、翁の面の男はその後も二回、三回と斧を振り下ろし、ついに四回目でサラリーマンの右腕は胴体から切り離されてしまった。
「や、やめろぉぉ⋯⋯。お、俺が一体何をしたっていうんだよぉ⋯⋯!」
サラリーマンは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら面を被った男達へと必死で訴えかけるが、その言葉も次の瞬間今度は左腕へと振り下ろされた斧により、「ぎゃああああ!!!」という悲痛な悲鳴へと変わる。
そして、俺はというと、その残酷な所行から目を背けたくとも顔を動かすことが出来ず、悲鳴を上げたくても声を出すことも出来ずに、恐怖でいっぱいの身体でじっとすることしか出来なかった。さらに、気付かなくてもいいようなことに気付いてしまう。翁の男が何回も斧を振り下ろしているのは、あの斧が錆びているからだ。その証拠に、ちらりと見えるサラリーマンの腕の切られた断面は、まるで挽肉のようにぐしゃぐしゃだった。
今、翁の面の男がサラリーマンの左腕を切り落とした。そして、休む間もなく、今度はその斧を右足目掛け振り下ろす。最早、サラリーマンは叫ぶことも出来ずに涙だけを流していた。
―その時、頭の中に少し前車内に流れた車掌のアナウンスが蘇ってきた。
『⋯⋯次は、「だるま」~』
(⋯⋯だるまには、手足がない。まさか、さっきのアナウンスは、今目の前で起きているこの惨事を、事前に伝えていたのか!?)
そして、俺が出したその結論が、まさしく正解であることを伝えるかのように、翁の面の男は、一段と大きく斧を振りかぶり、いつの間にか左足だけになっていたサラリーマン、その残った最後の足を切り離した。サラリーマンは、一瞬身体をびくんと跳ねさせただけで、もう反応すらしていない。もしかしたら、死んでしまったのかも⋯⋯。
その時、ドアが開く音と共に、三人目のお面の人物が姿を現した。しかし、屋台で売っているような安っぽいひょっとこの面を被ったその人物は、他の二人と比べて明らかに背が低く、鮮血を思わせる真っ赤な着物を纏っていた。
「だーるまさんが、こーろんだ!」
車掌の声とは明らかに違う、幼い少女のような声が車内に響く。その瞬間、急に電車がブレーキをかけ、その反動で俺の身体は前へと持って行かれる。
「あ⋯⋯、う、動けるぞ!! それに、喋れる!!」
電車が止まったせいか、今まで1ミリたりとも動かなかった身体が、急に自由を取り戻した。身体が動くなら、こんな電車、さっさと降りなければ。そう思い窓に手をかけたところで、足にコツンと何かがぶつかった感触を感じた。
(見ちゃ駄目だ!! 絶対に見たら駄目だ!!)
しかし、そんな意志とは裏腹に、視線は自分の足下へと向かってしまう。
⋯⋯そして、そこには、手足を切り落とされ、まさに『だるま』状態となったサラリーマンが、血まみれの顔でこちらを見上げていたのだった。
「助けてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
「うわあああああああああああああああ!?」
―気が付くと、俺は布団の上で叫び声を上げながら跳ね起きていた。そこには、当然助けを求めるサラリーマンの姿も、そして怪しいお面集団の姿もなく、ここ数ヶ月何度も見た、薄汚れたアパートの壁だけがあった。
「な、何だ⋯⋯夢だったのか。全く、驚かせるなよな⋯⋯」
さっきまで見ていた光景が夢であったことに安堵の息をつく。胸に手をやると、まだバクバクと激しく心臓が動いているのが分かった。
「そ、それにしても、随分ヤバい夢だったな。まさか、夢の中で人が殺されるところを見るなんて思わなかったぜ。疲れてるのか?」
未だに払拭しきれない恐怖を誤魔化すように、一人しかいない部屋で喋り続ける。口を動かしていないと、あのお面集団がひょっこり目の前に現れてきそうで怖かった。
「よし、とりあえず、一回顔でも洗ってすっきりしよう! ⋯⋯そうだよ、あれは夢だったんだから、早く忘れてしまわないと」
あれは夢だ。あれは夢だ⋯⋯。そう何度も自分に言い聞かせるが、一向に恐怖が収まる気配がない。一旦この気持ちを整理しようと向かった洗面所であったが、そこであるモノを見つけ、思わず固まってしまった。
「何で⋯⋯何で、ゴミ箱に歯ブラシが捨ててあるんだよ。あれは⋯⋯あれは、夢じゃなかったのか?」
そこにあったのは、ゴミ箱に捨てられた、すっかり先端が広がってしまった歯ブラシ。咄嗟に、ゴミ箱の中から、その歯ブラシを拾い上げる。⋯⋯この歯ブラシ、確かに、さっき見た夢の中で、自分がゴミ箱に捨てたモノだ。
歯ブラシを持つ手が、恐怖で震える。その震えは徐々に大きくなり、とうとう歯ブラシを床に落としてしまったところで、耐えきれなくなって洗面所から逃げ出した。
そして、そのまま寝室に戻り、震える身体を隠すように毛布の中に入った。その日は、一歩も外に出ることもなく、風呂にも入らず、ずっと毛布の中で震えて縮こまっているうちに、いつの間にか眠りについてしまった。
俺は、上下に身体を揺らされるような感覚を感じ、目を覚ました。すると、目の前に飛び込んできたのは、見覚えのあるバックミラー。反射的に悲鳴を上げようとしたが、声は出てこない。
(何で!? どうして俺はまたこの電車に乗っているんだよ!!)
今度は、最初から電車に乗ってしまっているという事実に、激しく動揺し、恐怖する。これは夢だと何度も自分に言い聞かせても、全く恐怖が収まることはなかった。
「えー、次は、『目黒』~。『目黒』でございます」
そして、唐突に流れる車掌のアナウンスが、恐怖にさらに拍車をかける。『だるま』と車掌が告げた後、サラリーマンに何が起こったかを考えると、聞き慣れた『目黒』という地名でも、安心することなど出来なかった。
案の定と言うべきか、直後、ドアが開かれ、三両目からあのお面集団が姿を現す。前回と違い、最初からあの着物の少女も一緒に居た。
バックミラーには、通路を進んでいく三人の姿が映っている。サラリーマンが座っていた席を通り過ぎ、徐々にこちらへと近付いてくる三人。迫り来る気配を肌で感じ、俺は半ば発狂しかけていた。
しかし、三人は、こちらへたどり着く前に、通路のちょうど中間辺りの位置で立ち止まり、そして翁と般若の面の男が座席へと消えた。あの場所は確か⋯⋯と、記憶が蘇ったのと同じタイミングで、先程存在を思い出したばかりのOLが二人の面の男に引きずられて通路へとその姿を現した。
「いや!! やめて!! お願いだから殺さないで!!」
OLは、ヒステリックな叫び声を上げて抵抗しようとするが、サラリーマンの時と同じく、般若の面の男がその身体を床へと押しつけ、身動きを封じる。
そして、これまた前回と同じ黒い箱を持った翁の面の男が、その中から何かをとりだしたのが見えたが、取り出してすぐ男がこちらに背を向けてしまったため、何を取り出したのかまでは分からなかった。ただ、包丁を研ぐ時のような、シャリ、シャリ⋯⋯という音だけは聞こえてくる。その音は徐々にその激しさを増していき、それに比例するようにOLの悲鳴もますます大きくなっていく。
(⋯⋯こ、今度は、一体何をしようっていうんだ?)
伝わってくる情報が音だけのため、余計にいろいろな想像をしてしまい、ますます恐怖と混乱が強くなっていく。一体何分経ったのだろうか。いや、もしかしたら既に何時間も経っているのかもしれない。恐怖で曖昧になる時間感覚の中で、翁の面の男がついにそれまで繰り返していた動きを止めた。こちらに背を向けた姿勢から、横で倒れているOLの方を向く翁の面の男。その手には、筆とすずりが握られている。
今から書道でも始めるとでも言うような、突然の筆とすずりの登場に、一瞬思考が停止する。しかし、般若の面の男がOLの目を無理矢理こじ開け、そしてこじ開けたその瞳へと下ろされようとしている筆を目にして、俺はようやく車掌のアナウンスの意味を理解した。
『⋯⋯次は、「目黒」~』
きゃあああああああ!!!という甲高い悲鳴が耳を貫く。しかし、翁の男は、その腕を休めることなく、OLの瞳、その白目の部分を墨で真っ黒に塗りつぶしていった。
その光景を見ているだけで、自分の目が墨で塗りつぶされる痛みを想像してしまう。堪らず目を閉じようとするが、この電車は逃げることを許してくれない。俺は、またしてもこの惨状を見続けることしか出来なかった。
「前が見えないわ。真っ暗!! 何も見えない!! あはは、アハハハハハ!!」
あまりの恐怖におかしくなってしまったのか、狂ったように笑い声を上げるOL。その時、突然般若面がOLの上半身を起こした。真っ黒なOLの両目と、バックミラー越しに目が合う。思わず、音のない悲鳴が喉の奥で漏れた。
そして、OLの身体を起こしたのが合図だったかのように、今までじっとして動かなかった着物の少女が、とてとてと駆け足でOLの正面へと回り込み、すとんと座り込んで変わり果てたOLの顔をじっと見つめる。
「やっぱり私、『中目黒』がいいな!」
恐らく少女のモノであろう、高い声が車内に響く。その直後、再び車掌のアナウンスが流れた。
「行き先を変更いたします。次は、『中目黒』~『中目黒』です」
まるで、少女の声を受けて車掌がそれに応えたかのような絶妙なタイミングだ。いや、実際にそうなのだろう。その証拠に、少女は「ありがとうしゃしょー!」と声をかけ、般若の面の男は再びOLを床へと押し倒した。
翁の面の男は、筆とすずりを一旦床に置き、黒い箱から、今度はたこ焼きをひっくり返す時に使うような錐を取り出した。
翁の面の男が取り出した錐、『中目黒』という先程の『目黒』を連想させる単語から、最悪の想像が頭をよぎる。
そしてまさに、翁の面の男がやったのはその最悪の想像そのままの行為であった。
翁の面の男は、錐をOLの瞳にぶすっと刺し、まるでたこ焼きを焼くときのように、眼球をくるんとひっくり返した。そして、まさに、顔の中にあった部分、眼球の裏側を、先程と同じく墨で真っ黒に塗りつぶしていく。
そして、もう片方の瞳も同じように中まで黒く塗りつぶしたところで、電車のブレーキがかかり、前回と同じように、身体の自由を取り戻した。
「は、早く醒めろ!! 醒めてくれぇぇぇぇ!!!」
しかし、前回とは異なり、なかなか夢から醒める気配がない。今朝歯ブラシをゴミ箱で見つけた時と同じ、まさかこれは夢ではなく現実なのではないかという恐怖が襲い来る。
「そ、そうだ!! 窓!!」
思い立つや否や、すぐ窓に手をかけた。運の良いことに、鍵はかかっていないらしく、普通に開く。これでここから逃げられると、ほっと一息ついたその時。
「⋯⋯ねえ、また逃げるの?」
「うわああああああああああああ!!!!!」
気が付けば、またしても叫び声を上げながら布団から跳ね起きていた。全身は汗でぐっしょりと濡れていて、あんな夢を見てしまったせいか息も荒い。
(いや⋯⋯あれは、本当に、夢なのか?)
今もまだ、少女の囁き声が耳に残っている。これが全部夢であってほしいと祈る気持ちと、これは現実だと恐怖する感情がひしめき合い、訳が分からなくなりそうになる。
「そ、そうだ。洗面所、あそこに行けば⋯⋯」
そこで、そんな混乱する気持ちに一つの結論を出すために、俺は洗面所へと向かうことにした。そこに、もし毛先の広がった歯ブラシがまだ置いてあれば、あの奇妙な電車も仮面集団も全部夢だ。俺は、歯ブラシを買いに行ったりなんかしてない。あの朝から全部夢だったんだで話は終わる。
やや駆け足で向かった洗面所。洗面台の上には、毛先の広がった歯ブラシが置いてあった。しかし、その歯ブラシは、まるで何か汚れたモノを磨いた後だとでも言うように、茶色く汚れていた。
そして、俺はソレを見てしまう。汚れきった洗面所の壁、その汚れの一部を磨き落とし、書かれた文字を。
『次は、お前の番だ』
「あ、ああああああああ⋯⋯!!」
あの悪夢は、現実の出来事だったのだ。壁に書かれた事実上の死刑宣告に絶望し、頭を抱えて床にうずくまる。
―ドンッ! ドンドンドン!!!
その時、玄関のドアを何物かが激しく叩く音が聞こえてきた。思わず悲鳴を上げ、より一層うずくまる。その間も、ドアを叩く音はますます激しくなっていった。
「やめてくれよぉ!! 何で、何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ!! お願いだから⋯⋯お願いだから、消えてくれぇぇぇぇぇぇ!!!」
恐怖が限界を超え、ノックの音をかき消さんとそう叫び声を上げた。その瞬間、今まで続いていたノックの音が突然止み、静寂が訪れる。そして、代わりに聞こえてきたのは、ガタンガタンという振動音。
「はは⋯⋯ははははは!!」
もう笑うことしか出来なかった。顔を上げずとも、体に感じる振動から、ここがあの電車の中であるということはすぐに分かった。何をしても無駄だったのだ。最初にこの電車に乗ってしまったあの時から、こうなることは既に決まっていたのだ。
そして、相変わらず間延びした車掌のアナウンスが、俺の死刑執行が行われる駅の名前を宣言した。
「えー、次は、『かおなし』~『かおなし』でございます」
背後から、ドアを開く音が聞こえてきた。顔を見ずとも、それがあのお面集団であることは分かっている。案の定やって来た般若の面の男に、俺は抵抗することも声を上げることもなく床に押し倒され、手足を押さえつけられた。
翁の面の男が、俺の顔の横で黒い箱の中に手を突っ込んでいる。俺は、その時初めて、その黒い箱にやたら凝った装飾が施されていることに気が付いた。
翁の面の男が箱から取り出したのは、毛先の広がった歯ブラシだった。しかも、よく見ると俺が使っている歯ブラシではないか。そのことに少し驚き、「え?」と思わず声が出てしまったが、すぐにそんなことはどうでも良くなった。
翁の面の男は、その手に持った歯ブラシで、俺の顔をめちゃくちゃな力で擦ってきた。何度も何度も、とても人間とは思えない力と速度で、俺の顔をごしごし磨いてくる。
まず、唇が裂けた。次に、眼球が傷つけられ、目が見えなくなった。眉はごっそりと剃り落とされ、鼻の先端がもげた。あまりの痛みと、徐々に顔のパーツが破壊されていく恐怖に、声すら出なかった。
しかし、ふいに翁の面の男の手が止まった。歯ブラシで擦られたせいで、ぼんやりとしか見えないので、何が起こったのかは分からないが、何かアクシデントが起こったのかもしれない。そして、いつの間にか俺の手足を押さえつけていた般若の面の男の腕が離れていた。俺が、あまりにも無抵抗なので必要ないと思ったのかもしれない。
そのことに気が付いた時、俺の中に眠っていた、生への渇望が、ふつふつと湧き上がってきた。その感情は、火山のように爆発し、俺の身体を動かした。
(やっぱりまだ死にたくない!!俺は⋯⋯俺は⋯⋯生きたいんだ!!)
般若の面の男が、俺を掴まえようと手を伸ばしてきたが、すんでのところでその手を躱し、俺は車両の前方へと走り抜けた。
(俺が座っていた、あの席⋯⋯あそこの窓からなら、逃げることが出来る!!)
今は、顔の痛みや背後にいる男達への恐怖も忘れ、ただただ生きて帰ることだけを考えて、足を動かす。そして、ついに目的の座席がある場所までたどり着いた。俺は、窓に向かって手を伸ばし、そして⋯⋯
「ねえ、次はあなただって、言ったよね?」
ぼやけた視界のせいで、声をかけられるまで気が付かなかった。あの着物の少女が、俺が座っていた座席に腰掛けていたのだ。俺は、少女に腕を掴まれ、とても少女とは思えない怪力で通路へと投げ飛ばされた。そこには、あの二人の男も既にやって来ている。
「毛先の広がった歯ブラシは、交換しないと。例えば、そう⋯⋯」
そう言って、少女は翁の面の男に何かを手渡した。じっとその物体を見つめ、やっとその正体が分かったと同時、ソレを使われることを想像して思わず叫び声を上げる。
「お、おい、やめろ⋯⋯。それで⋯⋯タワシで、俺の顔を擦るってのか? 冗談だろ? なあ、おい⋯⋯やめろぉぉぉぉぉ!!!!!」
翁の面の男が、その手に持ったタワシを、俺の顔に押し当てた。次の瞬間、ずるっと皮がむける嫌な感覚と共に、俺の意識は闇の中へと消えていった。
〇〇〇〇〇
乗客が誰も居なくなった電車は、ガタンゴトンと音を立てて走り続けていた。そして、車内に車掌のアナウンスが響く。
「えー、次はー終点ー。終点でございます。終点の駅は⋯⋯」
おまえのところだ
この話の教訓:「毛先の広がった歯ブラシは機能がだいぶ低下するから、早めに交換しろ」
歯ブラシを見たときや、目黒駅の名前を聞いた時にこの話を思い出してぞっとしてくれたら、この小説を書いたかいがあったというモノです。