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共望

作者: 田村まめ

やさしくてあたたかくて、愛のある堕落を書きたくて書きました。

じゅうう、と音を立ててフライパンの上の卵の流動が止まっていく。

目玉焼きは、外側がカリカリしているくらい焼くのがいい。

火を止めて真っ白なお皿に移してテーブルに乗せる、その足のままアパートの部屋の扉を開けた。


隣の部屋のインターフォンを鳴らすと同時にドアノブを回す。どうせ鍵はかかっていないんだし。それだとインターフォンの意味ないよ、なんてぐちぐち言われていたのももうずっと過去の話だ。

「あー、また散らかして…」

玄関に投げ置かれたままのサンダルはいちども洗われたあとがないし、ひとたび部屋に入れば脱ぎ散らかされた服が落ちている。

「ほら、ご飯にしますよ!」

「のぞみちゃん…せめて、ふろに…」

「だめ!わたしこれから学校なんですから。遅刻して反省文書きたくないんです」

ベッドの上で布団と一体化する男を何年前のものかわからない蝿叩きでばしばし叩いた。


「いただきます」

「どうぞー」

貧しい女子高生の部屋にテレビなんてものはないから、静かなものだ。かちゃかちゃと食器の音だけが響く。ちらりと時計に目をやってから男…関さんに話しかけた。

「今回はどういう話なんですか?」

関さんは小説家だ。

すごく売れている、というわけではないけれど、誰もがいちどは名前を聞いたことがあるような。

「『凶暴』」

らしくないタイトルだな、とは思ったけど言わなかった。

「いや、タイトルのことじゃないんですけど…」

まあいいや、と目玉焼きをつつきながら、はたと気づく。

「…関さん」

「ん?」

「今日、早く帰ってきますね。いつもので大丈夫ですか?」

「……ああ」



早く帰る、と決めたらしなければいけないことがいくつかある。

三年生だから部活はないけれど、その代わりに講習があるのだ。

いちばん確実なのは仮病をつかうことだから、マスクをつけて、授業中も咳をしてみたり、ぼーっとした雰囲気を出してみたりする。


必死の仮病は効果てきめんで、講習を休むと言ったら先生はこころよく承諾してくれた。

教科書も辞書も置き勉したからいつもより軽い。本当は当番だった教室掃除も用事があるからと抜けてきた。同じく当番のかれんを購買のプリンひとつで買収して、口裏を合わせてもらった。

先生に見つかったら仮病だとばれてしまうだろう階段の二段飛ばしと廊下ダッシュを駆使して昇降口についた。


自転車は本当はすきじゃないけれど、今日ばかりは仕方ない。ツーロックは時間がもったいないからしなかった。

ガシャンとストッパーを足で蹴ってサドルに跨る。そのまま学校近くの、いつもお世話になっている花屋に向かった。



隣の家のインターフォンを鳴らしながら扉を開けた。

「関さん!行きましょう」

「…ああ」


わたしの両親は三年前に、交通事故で死んだ。

家と家族をいっぺんに無くしたわたしは親戚の家をたらい回しにされたあげく、このおんぼろアパートに押し込まれたのだ。手元に残されたのは保証人の欄が埋められたアパートの契約書と、両親が遺したすこしのお金だけだった。

そうして途方にくれるわたしを助けてくれたのが、隣に住む関さん…正確に言えば関さんとその奥さん、小百合さんだったのだ。


肉じゃが作りすぎちゃって。

インターフォン越しに聞こえてきた小百合さんの声は肉じゃがなんかより温かくて、久しぶりに触れた人の優しさに当時中学三年生だったわたしは思わず泣いてしまった。

その日から小百合さんはさばの味噌煮やらおでんやらを作りすぎたと言ってはおすそわけしてくれるようになって、しばらく経つと朝と夜は隣にお邪魔してご馳走してもらうようにもなった。

はじめて黄緑のお弁当箱を手渡されたときは感動のあまり写真部の友だちにお弁当とのツーショットを撮ってもらった。


それから一年後、小百合さんが亡くなった。

交通事故だった。


小百合さんがいなくなったあと、関さんは堕落した生活を送るようになって、小説だって書けなくなってしまった。

ご飯、どうですか。

小百合さんのお葬式のあと一週間経って、関さんの部屋のインターフォンを鳴らした。返事は帰ってこなかったけれど、がちゃりと扉を開けて入り込んで、無理矢理ご飯を食べさせた。

前に教えてもらった肉じゃがは、なんとか小百合さんの味を再現できていたようで、関さんはひとくち食べたあと、ようやく言葉を発した。

……さゆり……。



毎月、小百合さんの月命日には関さんとお墓参りに行くことにしている。今日がその日だ。

お供えするのは百合の花束、それから個包装されたひとくちチョコレート。食べ物はお供えしたあと持ち帰るかその場で食べてしまわなければいけないから、あまり多くは持ってこれない。

「……小百合さん、お久しぶりです」

丁寧にお墓をタオルで拭いて綺麗にする。

「関さんはまだまだ立ち直れないそうですよ、全く大人げないですよねえ」

「余計なお世話だ」

ふたりとも手を合わせて小百合さんに思い思い話しかける。

風が吹いて百合が揺れるたび、小百合さんが話を聞いてくれているような錯覚がする。


「…帰るか」

「そうですね」

最後にひとくちチョコレートをぱぱっと頬張ってタオルとお線香、ろうそくとマッチを片付ける。来月また来ますね、と呟くと、百合が心細げに揺れた。


「なにか、食べていかないか」

「えっ」

関さんが家以外で食べたところを見たことがないので驚いた。小百合さんの和食以外は食べないと思っていたけれど、どうやら違うらしい。

「あそこにファミリーレストランがあるけれど…」

「いっ、いえ、和食にしましょう。すぐそばに天ぷら屋がありますから…!」

何か言いたげな関さんを無視して天ぷら屋に引っ張っていく。


失敗した、と思ったのは店に入ってからだった。

まず、思った以上に値段が高かったということ。特別認められているバイトの給料がほとんど生活費で消えてしまうわたしにとって、この出費は痛い。

それから――クラスメイトがいたこと。

「……のぞみ」

べつに悪いことをしているわけじゃないけれど、なんとなく目を逸らしてしまう。

「やっぱり、本当だったんだな」

「なにが?」

目を逸らしててもわかる。彼はずっとわたしを睨んだままだ。

「……援交。してるって、噂」

「違う!」

「じゃあなんでそんなオヤジと一緒にこんな店来てんだよ」

「それは…」

そうだ。どうしてわたしは関さんと一緒にいるんだろう。

ひとりにしておくとご飯も食べないだろうから?

お世話になった恩返しをしたいから?

「知ってるよ…でも、」

「何も知らない! お前は、何も! 俺が…」

かたん、と音がして、ふたり同時に口をつぐむ。関さんがカウンターに座った音だった。

「…おまかせ御膳、ふたりぶんください」

「かしこまりました」

「のぞみちゃん、座りな。俺が誘ったんだ、奢るから。ね?」

結局関さんともクラスメイトとも話さないまま、おまかせ御膳が出されたので黙々と食べた。

うまく割れなかったわりばしの棘が喉もとにひっかかるように言葉を出せなくさせていた。


しばらくすると、関さんがしみじみといったふうに呟いた。

「…のぞみちゃんも大人になったんだなあ」

「え?」

意味を聞きたかったけど、なんとなく関さんはこれ以上話さないだろうと思ったから聞かなかった。


店から出ると、ひゅう、と吹いた風がつめたくてきもちよかった。喉もとの棘はいつのまにか消えている。

「…関さん」

「ん?」

「天ぷら、食べられたんですね」

すると関さんはふっと笑って、実は大好物なんだと言った。

小百合が苦手だっただけなんだとも。

じゃあ今度作ってみますと伝えると、楽しみにしてるねと言ってくれた。


次の日、隣の部屋にはもう誰もいなかった。


散乱していた部屋の物は魔法が解けたように消え去っていて、ただひとつテーブルだけが寂しそうに取り残されていた。

テーブルの上には一冊のレシピ本。

『基本の洋食』と書かれたそれは分厚くて、試しにめくってみると確かにオムライスやナポリタンなどの作り方が載っていた。

「…気付いてたんだ」

関さんは小百合さんのご飯じゃないと食べないだろうって思っていたから、小百合さんから教わった和食ばかりを作っていたこと。

だから昨日、外食しようって、言ったんだ…。


もういちど、関さんに会いたい。

大丈夫だ、だって来月になれば、関さんは小百合さんに会いに…。


一ヶ月経った。

本当は学校だったけれど、はじめて無断欠席をした。いつもの花屋に行って花束を買い、ひとくちチョコレートとタオル、お線香、ろうそく、マッチを自転車のかごに入れる。

やっぱりすきじゃないんだよなあ、乗るのも、見るのも。

交差点はひとつひとつ止まって、ゆっくりお墓に向かう。

今日は朝から夜までずっと、関さんが来るまで待つつもりだった。駐車場に自転車をとめて、かごから全部出して抱えて、いつものように歩いていく。


「あ……」

お墓には、真新しい百合の花が供えられていた。



「のぞみー、帰ろうぜー」

「あっ、うん……」

あれからわたしは毎日変わらず生活していて、変わったことといえば料理のレパートリーに洋食が加わったことと、掃除は自分の部屋だけでよくなったことくらいだ。

あのとき天ぷら屋でばったり会ったクラスメイトは、こうして何かとわたしに構ってくる。


「あ、新刊出てる」

本屋の前を通ると無意識に関さんのことを思い出してしまうから、ずるい。

「誰の?」

「俺のすきな作家……、竹内さんってひとの」

ふうん、と山積みにされた竹内さんとやらの本を見る。


『共望 竹内関太郎』


「あっ!」

そうだ、小百合さんが関さんって呼んでいたからそのまま呼んでいたけれど、関太郎の関だったんだ…。

それに、きょうぼうって、凶暴じゃなくて共望……?

共、望……。

ポップをじっくりと読む。


『作者の体験が織りまぜられた新作。あたはたかくてやさしい、ちょっと変わった隣人のお話』


「これ、わたしだ……」

ぺら、とページをめくる。


『彼女は二度も母親を失った。

妻の望みは彼女が立派な大人になること。

それまでわたしが見守らなければ。

それはわたしの望みでもあるのだから。』


やっとわかった。

わたしが助けていたんじゃない。

助けられていたのは、わたしのほうだったんだ。


関さんは、わたしのことを、ずっと見守ってくれていた。



もう関さんは、小百合さんのお墓参りには行かないだろうを百合の花もひとくちチョコレートもわたしが言い出したことだし、それに、万が一わたしとはちあわせたりしないように。

初夏の風はあたたかくて爽やかで、切ないような気持ちになる。


この前受けた模試は結構いい結果だったし、徒歩のわたしに付き合って自転車をひっぱってくれるクラスメイトはいいやつだし、講習も課題もあるけれど、高校生は楽しい。


バイト代が入ったら、あの本を買ってみようかな、なんて。

花屋の前を通ると、店先で百合の花がやさしく揺れていた。

最後まで読んでくださり、ほんとうにありがとうございました!

楽しくかけてよかったです。

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