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紺碧

作者: 神岡哲郎

昭和三年、長崎県佐世保市に生まれ、太平洋戦争、原子爆弾の投下を経験した作者が、自身の経験に沿って記した。

 東京都の南側に沿って多摩川という河川が流れ、都民にとっては上流から下流域まで、憩いの場となっている。梅田昭夫は数十年前に多摩川沿いのこの町へ転居していた。数年前に定年退職し、一時再就職もしたが、今では悠々自適の隠居生活であった。

 この多摩川沿いを散歩することが日課でもあり、この日も散歩の途中土手に腰を下ろして対岸を何気なく眺めていた。右手上流より爆音が聞こえ、ふとみると青く澄み切った空に米軍機と思われる機体が二機ゆっくりと飛んできた。低空を川下南西の方向へと飛び去った。

 紺碧の空に浮かぶ二機の機体を目で追ううちに、かつてふるさとでも同じような光景を目にしたことが思い出された。


 昭夫は昭和十六年に尋常小学校を卒業し、県立佐世保商業学校に進学した。その年の十二月、下校途中の昭夫は街の様子が一変していることに気付いた。商店街の電柱には一本残らず号外のビラが貼られ、道行く大勢の人が興奮した顔つきで真剣に読んでいた。号外には

「大本営陸海軍部発表(十二月八日午前6時)

 帝国陸海軍は本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」

「大本営陸海軍部発表(十二月八日午後1時)

 帝国海軍は本8日未明ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し決死的大空襲を観光せり」

 の二報が黒々と大きく踊っていた。


「やったぁ、とうとうやったばい」

「アメリカと戦争だ」

「イギリスともばい」

 同級の山口、松下と三人で胸の高まりを覚えながら、ひとつひとつの文字を丁寧に読み歩いた。商店からは軍艦マーチが鳴り響いていた。国民はこうなることを信じ、むしろ期待していた感があった。


 年が明けると学区の授業内容は一変した。英語と商業英語は廃止され、支那語(中国語)だけが残った。支那大陸とりわけ満州国との関係上廃止できないのであった。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」

 孫子の名言は捨て去られることとなる。


 満州や北支の日系企業には佐世保商業からも毎年多くの卒業生が就職している。バスケット部のキャプテンだった小野もその一人であった。彼の勤務地は海拉爾ハイラーアルである。満州の北西部、蒙古との国境近くの町である。「大連から汽車で七日間かかって漸くついた。黄砂がひどく、目も口も開けておれない状態だ」と手紙に書いてあった。他は覚えていないがこれだけは強く印象に残った。大陸は文字通り大変なところだということがわかった。

 卒業したら大連か奉天あたりの会社に就職しようか、という淡い希望はこの手紙ですっかり萎んでしまった。


 運動部は、テニス、バレー、バスケットの各部が廃止された。

 昭夫と岩永はバスケット部に入っていた。毎日ローラーを引いてコートの整備をし、大きなバケツで飲水運びをしてから練習していた。二年になったら補欠として県大会に連れて行ってもらえる、長崎に行ける、と喜んでいた矢先の廃部であった。

 残った部も県大会や全国大会が開かれなくなるというので、活動は低調になった。スポーツなどやっておれない、というのが本当のところだろう。戦争というものの影響の一つである。しかしこればかりではなかった。一番楽しみにしていた朝鮮、満州への修学旅行が中止になり、内地での旅行もできなくなった。

 教室での授業は少なくなり、軍事教練が強化された。

 五箇条の御誓文や軍人勅諭を覚えることから始まり、分隊教練、小隊教練などの基本教練を学ばされた。その後次第に実践的な訓練が厳しくなり、手榴弾投擲、匍匐前進しての対戦車攻撃などが加わった。三年にもなると三八式歩兵銃を担いでの訓練も始まり、学校は軍隊の予備校と化していった。

 学生はみな卒業後は軍人になり、敵と戦う覚悟で毎日の訓練に励んでいた。早いものは三年の時に予科練(海軍)や少年飛行兵(陸軍)、特別幹部候補生(特幹、陸軍)を目指した。昭夫と同級の岩永もその一人で、少年飛行兵を受験して合格し、早くに学校を去った。およそ二年の教育訓練を終えればすぐに出撃し、敵艦に体当たりするなどして名誉の戦死を遂げるのだろう。

 もはや人生五十有余年ではなくなった。二十年いや十八年かもしれないのだ。

 「いずれは後に続くぞ」

 十五歳の少年たちは秘かに決心していた。


 そのころにはすでに二年前に出された金製品強制買い上げ令によって、女性の指輪やネックレス、時計など、金製品はすべて供出させられていた。

 そして「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」といった標語が掲げられ、歌までができた。

 次第に戦況が厳しくなると、家庭にある鉄の釜やアルミニウムの鍋まで供出させられた。寺の梵鐘までが無くなっていった。

 

 満州事変、上海事変、支那事変と十年以上も戦争は続いていた。欧米諸国からはいわゆるABCDラインにより、厳しい経済封鎖をされ、石油、ゴム、鉄鉱石など、重要な物資は輸入できなくなっていた。

 さらに連合軍との戦いが始まったが、軍は面子にかけても引き下がることはできなかったのだろう。大東亜共栄圏を確立すれば、鉄の石油もゴムも、みんな手に入るといい、国民もそれを信じ、期待して大きな夢に胸を膨らませていた。

 まずは戦うために国民よ我慢しろ、というのが軍の本音であったろう。

 学校は私大に軍部の意のままに動かされるようになった。いや学校だけではない、日本全体がそうなってしまいつつあった。

 昭和十八年、首相・東條英機が独裁色を強めるとこれに激しく反発していた中野正剛他数名の国会議員を含む百数十名が逮捕された。当時、東條英機は検事総長にまで中野の起訴について圧力をかけるなど大変な専横ぶりであったが、検事総長はこれを拒み、中野は嫌疑不十分でいったん釈放された。しかしその後も特高警察により軟禁状態に置かれ、後に自決している。


 三年生の三学期になると、あちこちの村や工場での、稲刈り、芋ほり、排水溝づくり、ドラム缶運びなどの作業が加わり、学校での授業はほとんどなくなった。

 完封吹きすさぶ時期に行われた、干尽海岸での壕掘りはきついものだった。毎朝海軍の兵曹長が来て、

「今日はここからここまで掘れ」

 と、ノルマを課し、小旗を建てた。

「はいわかりました」

 と元気よく返事をして、午前中はまじめにやり、三時に供される蒸し芋を食べたあと、監督の目を盗んでこっそり旗を動かした。早く家に帰りたいことと、ノルマをごまかすスリルを楽しんでもいた。

 一週間後、壕が何事もなく出来上がったところをみると、敵もさるもの、こちらの魂胆を見透かして、毎日水増ししていたらしい。子供の悪知恵は老獪な大人には通じなかったのである。

 赤﨑海岸でのドラム缶運びも重労働だった。ここでは輸送船に改造された捕鯨母船第二図南丸が相手だった。図南丸が運んできた原油入りのドラム缶を、岸壁近くの空き地にきちんと並べて置く作業である。

 二人一組でドラム缶を転がして運び、着いたら起こして整頓して置く。単純で面白くない作業に誰もがうんざりしていた。

 ある日の昼休みに、小学校からの同級生松下が、

「梅田、みんなが来いて言うとるばい」

 と呼びに来た。

「どこや」

「こっち」

 言いながら松下は歩き出した。

 三方をドラム缶の壁で区切られた空き地の正面に、柔道部や剣道部、陸上部などの連中が十人ほど、異様な顔つきで立っている。呼ばれたのは四-五人、小柄で真面目なものばかりである。昭夫が一番先に来ていたので、先頭に立って彼らと向かい合っていた。

(これはやられるな)

 その場の雰囲気が危険信号を送っていた。しかし、逃げることはできない。じっとこらえて立っていると、田島という男が出てきて

「梅田、前へ出ろ」

 と言う。

 出て行って田島の前へ立つと、いきなり

「お前、生意気だ」

 と言って、平手でびんたを食らわせてきた。一発だけだった。

 (なんでだ)

 一瞬むかっと怒りがこみ上げたが、

 (ここで喧嘩をしてもつまらん)

 と思い、痛くもかゆくもないぞ、と平気な顔を装ってさっさとその場を離れた。長居は無用だ。残りのものも次々に殴られているようだった。

 思い当たる節はあった。数日前、同級生が二年三組の学生に嫌がらせをされたというので、十数人で押しかけ、そのクラスのもの全員に、全体責任だと言って懲罰に平手打ちを加えたことがあった。そのクラスの担任が昭夫たちの数学の教師だった。授業に来たとき、

「この前、二年三組の者を殴ったのは誰だ」

 と、詰問した。が、誰も答えようとしない。暫しの間教師と学生との無言の綱引きが続いた。

(これでは引きようではないか。先生も引っ込みがつかないだろう)

 そう思った昭夫は意を決し、

「はい」

 と立ち上がった。誰かが続いて立つだろうと思っていたが、後に続くものは無かった。

(俺は首謀者ではないぞ)

 そう思いながら自分の馬鹿さ加減に無性に腹が立って、仕方がなかった。結局昭夫だけが始末書を取られて決着した。この日のこの出来事は、それが原因していたのだろう。彼らは作業の憂さ晴らしがしたかっただけなのかもしれない。後にしこりを残すことはなかった。

 あと一日にで作業が終わるという日、慰労の意味もあってか船内見学が許された。

 甲板は野球が出来ようか思うほど広く、クジラを引き上げる後部のスロープも、甲板の端に立って覗くと、引きずり込まれそうなほどの大きさだった。とにかく桁違いの規模に驚いた。

 船員の部屋は二段ベッドで狭苦しそうだったが、船長室は立派だった。応接室には大きな楕円のテーブルがあり、白いレースのテーブルクロスがかかっていた。果物籠にはリンゴやバナナ、パイナップルなど珍しい果物が山盛りである。まるで外国にいるかのような不思議な感じがした。

「うわーすごかね。バナナ一本でよかけん食いたかばい」

 山口が言った。皆がそう思った。

 バナナもパイナップルも高級果実だった。

「船長さん一人であれば食べらすとやろか」

 と松下が言う。

「いや、幹部で食べらすとやなかかね」

 まだか一人ではとても食べきれまい。

「船に乗ると外国に行かるっけん、あがんとば食べらるっとばい」

 卒業したら船長にでもなろうと思っているのか、手塚という学生がしたり顔で松下に言った。

 学生たちは口々に羨望の声をあげながら見学を終わった。何はともあれ、第二図南丸に乗れたことで十分に満足していた。まるで巨大な船に酔ってしまったような感覚でもあった。

 

 港湾での作業に比べると農作業は比較的楽で、うれしいことも多かった。二、三日から長くて一週間、出征軍人の家や村の集会所に泊まって仕事をすることがあった。農家への泊まり込みは小さな修学旅行に行ったような気分で楽しかった。

 稲刈りも芋ほりも学生たちには苦にならなかった。終われば尾頭付きの魚、撮れたての野菜の煮物やてんぷらに卵、時には刺身といった豪華なものであった。何よりうれしかったのは、外米や芋の混ざらない真っ白なご飯を、腹いっぱい食べられることだった。

 針尾島は佐世保湾と大村湾の間に浮かぶ島である。昭夫たちがこの島で泊まった農家の芋畑は高い無線塔の下にあった。

「あの無線塔から『新高山のぼれ』を送信したとばい」

 と、誇らしげな顔でお爺さんが教えてくれた。それは軍の重要な機密であったのかもしれないが、村人たちは秘かにそれを知り、自慢としていた。

 無線塔は三基、揃って鋭く天を突きさすように、誇らしげに聳えていた。

(大東亜戦争は、あの鉄塔から始まったのか)

 開戦の日の異常な興奮が蘇った。こんなところにも戦争の軌跡があろうとは、思いもよらぬことであった。鍬を握る手に力が籠ったように思えた。

 お爺さんは、元来の話好きのようで、毎晩村に伝わる昔話や、軍隊でしごかれた話をしてくれた。中でも、満州の広大な地勢や風土、新しい国家建設の模様などの軍隊での話は、学校の先輩が数多く活躍している地であると言うこともあって、昭夫たちにとって、将来につながる有意義な話に思えた。

 手塚たちが泊まった家では、お爺さんが松明を焚いて、磯に蛸釣りに連れて行ってくれたという。生きた蛸をぶら下げた彼らは帰りにバスの中でみんなの羨望の的になり、車内はひとしきり蛸釣りの話でにぎわった。

 大村湾に面した彼杵という町では土壌改良工事に加わった。田圃の水はけをよくするために、周りに溝を掘って竹を埋め込む工事で、米の収穫がよくなるということだった。二月の寒い日、町の老人たちと一緒に、一生懸命働いた。彼杵で昭夫たちが泊まった農家には、母屋の脇に新しい隠居所があり、老夫婦が住んでいた。そこの一室に厄介なったのだが、部屋には家人の気づかいか、数冊のグラビア誌がマガジンラックの中にあった。毎晩二人はそれを夢中になって貪るように読んだ。

 雑誌には明治から昭和初期にかけての様々な出来事が写真で綴られていた。昭夫は大逆事件や五一五事件、二二六事件など、それまで全く知らなかった出来事に胸をつかれた。


 分宿ではそれぞれが淋しく感ずることもあって、ある晩夕食後に集会所に集まることになった。

 この村にただ一人しか残っていないという青年も遊びに来て、仲間に加わった。彼は、嘘か本当かはわからないが、かねて目をつけていた村の娘を口説いて、雨戸の桟を外させておき、夜中にそっと心室に忍び込んで娘を抱いた話を、事細かに面白おかしく話してくれた。

 それは彼の大人を誇示する唯一の自慢話なのであろうが、雨戸の開け方や母と娘を間違えない工夫など、十五歳の中学生たちにとっては、滅多に聞けない大人の話であるから、ぜひ聞いておきたい話であった。

嬉し恥ずかしのむずがゆい話であるから、みんな耳をそばだて、胸をワクワクドキドキさせながら聞いた。

 青年の話が一段落して、一瞬静かになった。少年たちの顔を見回していた青年は、何を思ったか唐突に、

「明日、俺が連れて行ってやる。行きたいものはおらんか」

 と言い出した。

 少年たちは苦笑いをしながら、互いに顔を見合わせた。そのとき、

「俺が行く」

 と、川中が手を挙げた。彼は留年生で皆より一つ年上である。年長者としての自分を誇示したかったのかもしれない。

 翌晩遅く、人が寝静まる頃を見計らって、二人は目指す娘の家に向かった。畑の中の幅の狭い道を暫く行くと、道は左に折れて石垣に突き当たった。その石垣の上に家はあるらしい。階段を上ると目の前に広い庭があり、朱面に大きな母屋が建っていた。

 川中はほの暗い月明かりに身を細めながら、青年の尻に鼻面をくっ付けるようにして、抜足差足進んだ。敵陣に忍び込むかのような気分がして、身震いがしたようだった。漸く母屋の横手に着いた。

 青年はじっと耳を澄まして中の様子を窺っていたが、頃や良しと雨戸を繰って戸袋に入れようとした。キキッと雨戸が鳴いた。青年は黙って立ち上がり、ズボンの前釦をはずして敷居に小水を注いだ。やや時を置いて再び雨戸を繰った。今度は雨戸は音もなく動いた。娘が桟を外しておいてくれた証拠である。

 草履を懐に入れて縁側に上がった。二人は四つん這いで奥の娘の寝所へ進んだ。青年は右手の障子をそっと開けた。中には二組の赤い布団が敷いてある。様子を窺い、四つん這いのまま入って、彼が枕元で何かを囁いたとたん、むくっと上体を起こしたのは、目指す娘ではなかった。

「あんた、誰ね」

 低い声の主は母親であった。

 青年と川中は慌てて元来た縁側から外へ逃げ出し、庭を抜けて石垣を飛び降りた。集会所に逃げ帰った二人の敗残兵は、ただ顔を見合わせて苦笑いするよりほかになかった。


 その年の五月十五日、佐世保商業の学生たちは学徒動員第一弾として、川棚軍需工廠で魚雷づくりをすることになった。

「佐世保には大きな海軍工廠があるとに、なんで川棚に行くんだ」

「校長があっさり引き受けたんだろう」

 と不満を漏らすものが多数いたが、決ってしまったものはどうにもならなかった。

 川棚の海軍工廠は佐世保海軍工廠の分工廠という位置づけであったが、川棚は佐世保の南東約二十キロ、大村湾に面した町であった。

 寄宿舎に入れられ、それぞれの向上に配属されて各々四班に分かれ、昼夜一週間の交代制で働くことになった。

 外米交じりのご飯におかずは胡瓜か沢庵、生みそに大根の具入りの薄い味噌汁。たまに鯵の煮つけという粗末な食事であった。その上外出もできなければ家族との面会も食物の差し入れも禁止、というひどい生活を強いられた。

 およそ四か月を過ぎたある日、四、五年生主だったものが秘かに自習室に集まった。

「みんなどう思うとるとや。飯は不味かし、外出も面会もでけん。今まで我慢したばってん、此処にはもうおられんばい。そう思わんかね」

 五年生の木次という男が口を切った。

 木次は五年生中一番の優等生で、一組の級長をしていた。温厚で人柄もよく、生徒からも教師からも信頼されていて、校内では知らないものはいない人物であった。だがこの日はいつもと違っていた。

「そうばい、もう五か月位になるとに、何時までこがん状態が続くとやろか」

 やはり五年の石井が続いた。彼は二組の級長で全国中等学校柔道大会優勝の選手である。

「どがんしたら良かかね。思うとることば言うてくれんや」

 木次は下級生にも意見を求めた。

「こいじゃ刑務所の囚人と同じばい」

 四年の山口は佐世保海軍刑務所の所長の息子とは小学校で同級だった。よく官舎に遊びに行って、庭のいちじくの木に登り、こわごわ塀の中を覗き見したものであった。

「違うとこは、足に鎖のついとらんだけばい」

 というと、

「ハハハ」

 と笑い声が上がった。

「先生から言うて貰うたらどがんですか」

 四年の川中の意見である。

「長さんに言うたばってん、自分たちではどがんもならん言わしてた」

 石井が答えた。長さんとは国語の教師のことである。

「ここは軍の施設やっけん、軍のやることに学校は何も言われんし、でけん。て、言わすとばい」

「先生がだめなら俺たちでやるしかなかばい」

 山口が言った。

「何ばすっとや」

 石井が聞いた。

「家に帰りたか。帰りましょうや」

 言葉は優しいが、山口の言ってることは凄味があった。

「どがんして帰るとや。汽車の切符は公用以外は買われんとばい」

「歩いて帰れば良かでしょうが」

 川棚から佐世保までは二四、五粁。道は海岸沿いで曲がりくねっている。歩いて帰るとすれば五時間以上はかかるだろう。大変だが家に帰ろうという意見に反対する者は無かった。みんな家が恋しく、親の顔を見たいのだ。

「よかかみんな。やればストライキだぞ。憲兵隊につかまればどがんひどか目にあうかわからんぞ。そして退学処分になるかもしれんぞ。それを覚悟のうえでやるか」

 木次が真剣な顔で見まわした。

「退学になればここに居らんですむばい」

 川中がぼそりとそうつぶやいた。そうだ、という声が上がった。よしやろうと決まった。

「三年と四年は外そう。五年の非番のものだけでやろう」

 下級生をひどい目に合わせたくないという木次や石井らの意見に、下級生は逆らえなかった。が、川中だけは

「四年も非番の者ば入れてくれんですか。五年生だけじゃちょっと少な過ぎまっせ」

 と、発言した。彼は一年の時に病気で休学して留年した、自称五年生である。その意見が通って、四年生も加わることになった。

 やるからには正々堂々とやろう、と意見が纏まり、決行の日時、集合場所、持っていく荷物の分量も決まった。それまでは極秘、全員にこれを徹底する必要がある。それは各室長の役目と決まった。

 天気の良い日を選び、帰省隊は残留の下級生に見送られて、勇躍寄宿舎を出発した。唇をかみしめ、しっかり前を向いて静かに歩いて行った。

 戦時中あってはならないストライキである。海軍中尉の舎監はびっくり仰天、慌てて憲兵隊に電話した。海軍から陸軍への通報である。

 四列渋滞で歩いていた学生たちは、四、五粁行ったところで、サイドカーで追ってきた五、六人の憲兵に捕まった。

「俺たちから海軍のほうに良く言っておくから、心配するな」

 憲兵は思いのほか優しい態度であった。そのほうが温和しく収まると思ったのだろう。

 しかし、工廠に連れ戻されて海軍に引き渡された後の対応は厳しいものだった。

 空工場のコンクリートの床に正座させられ、首謀者は誰か、煽動者は誰と誰だ、と、一人一人厳しく追及された。だが、そんな者はいない。みんなでやったんだと言い張った。

 予想していた通り、軍人精神注入棒でさんざん尻を叩かれた上、長時間の腕立て伏せ、駆け足等の手洗い体罰を受けた。

 夕方、漸く解放されて寄宿舎に帰ったストライキ組の顔には、「やったぞ」という思いからか、満足の入りが満ち溢れていた。

 風呂場で裸になた木次たちの背中には、一面赤くミミズ腫れしていた。四年の手塚は、それを尊敬と多少の畏怖の念をもって眺めた。

「背中を流しましょうか」

 と声をかけたが、痛いからいいよ、と断られた。

 翌日から、また何時も通りの日課が続いた。しかし幾日たってもストライキ事件の処分はなく、舎監や教員も責任を問われた形跡はなかった。結局誰も責任を取ることなく、内々に握りつぶされたらしい。

 ほどなく家族との面会や、食べ物の差し入れが許されることになった。学生たちは秘かにほくそえんだ。


 工場は鍛造、鋳造、機械、精密等幾つかの部門に分かれている。学生も数人ずつ分散して各工場に配属されている。

 昭夫は同級の高田、大石らと精密工場に配属された。旋盤やボール盤、フライス盤などを使って、挺身隊や報国隊の女学生と一緒に魚雷の爆破装置の製造にあたっていた。

 工場に最も早く配属されたのが佐世保商業だった。その後同県の成徳、平戸、島原、壱岐、対馬の高女や宮崎、延岡、都城、鹿児島などの高女と、宮崎、鹿児島から数校の商業学校の男子生徒が配属されてきた。

 新しい学生が来ると、機械の操作や部品の作り方を教えなければならない。時にはハンドルを持つ手が重なることもある。

 街では立ち話も憚られるじだいであるから、無垢な少年少女達は、僅か二、三日の短い間ながら、潤いのある時間を楽しんだ。

 だが、楽しいことばかりではなく、悲惨な大事故も発生した。

 第二工場で働いていた三年生の吉永という男が剪断機の操作を誤り、自分の右手の指を切り落としてしまった。

「後の面倒は海軍が見る」

 ということで決着したそうだが、この事故は公表されず、そのうえ工場内の者には固いかん口令が敷かれたため、他の工場の者は全くその事故を知らぬまま働いていた。

 昭夫も自分で操作していた旋盤で目を怪我した。ハンドルを握って金具の削り具合を見ていた時、カチッという音がして、突然左の目に焼け付くような痛みが走った。小さな切り子が眼鏡の玉に当たって跳ね返り、目に跳びこんだのだった。幸い白目の部分だったため大事に至らず、休むことも無かったが、それが原因したのか、間もなく修練所に入ることになった。

 入所者は動員学徒と徴用工員が半々で総員三十名。工員はみな軽い肋膜があるものだという。動員学徒に病人はいない。そこでは毎朝搾りたての牛乳を飲むことができ、食事も寄宿舎とは比較にならぬほど立派だった。

 仕事は何もなく、牛や山羊の世話だけ。あとはカッターの漕艇訓練や手旗信号の練習などで一日が終わる。昭夫は小学校五、六年のとき海洋少年団に入っていたため、手旗信号は得意であった。だからここでは何の苦労もなかった。

 そこでの二か月間眼鏡を使わず、毎日治療を受けていたお陰で、眼の傷はすっかり良くなり、〇.三だった視力も〇.七にまでなった。これは予想もしなかった、まさに怪我の功名であった。

 昭夫が修練所でのんびり過ごしている間に、工場ではまた剪断機で大事故が起こった。動員学徒の一人が新しく来た女学生に機械の操作を教えていた時のことだった。ひととおり操作を教え、実際に材料を切断してみようと鉄板を一枚刃の下にあてがった。位置は少しずれていたが、テストだからと構わず、女学生から目を離し、スイッチを入れた。ガチャンと機械の音がしたとたん、キャーっと言う悲鳴が上がった。女学生の手から鮮血が噴き出ている。

 女学生は歯の下にあてがった鉄板の位置を直そうと手を出してしまったのである。両方の手の指が無残にも切断され、あたり一面血の海となった。

 吉永の事故では海軍が責任を持つ、ということで決着が着いたらしいが、軍隊では女性の面倒を見るわけにはいかない。治療や一時の補償は海軍が負担するとしても、その後どうするか悩んだらしい。

 結局はその後一年もたたないうちに終戦を迎え、海軍はなくなった。吉永についても責任を持つといった士官たちは復員してしまい、何の補償もなくなった。いわんや女学生をや、である。


 十二月の末になって突然、正月だけは家に帰してやる、という達しがあった。ただし、汽車に乗ってはいかん、歩いて帰れという。

 大晦日の朝、佐世保商業の学生たちは全員悦び勇んで寄宿舎を出発した。ストライキをして歩いた道を、今日は憲兵に捕まる心配もなく帰れるのだ。足取りも軽く、浮き浮きした気分で歩いて行った。道半ばを過ぎて針尾島と早岐はいきの間の狭い瀬戸にさしかかった時、昭夫は何故か彼杵そのぎの町を思い出した。

「彼杵で面白い話を聞かせてくれた人はどがんしとらすかなぁ」

 と手塚に話しかけた。

「もう兵隊に行っとらすかもしれんぞ」

 会ってみたいが、彼杵は逆方向、家路を急ぐ今その暇はない。川中はずっと先を歩いている。

 早岐を過ぎ、大塔だいとうに差し掛かるころには、足取りはすっかり重くなった。この先日宇ひうとの境にはだらだらと長い上り坂がある。そこを歩くのはきつい。

「トンネルを行けば近道ばい」

 手塚の声に一も二もなく賛成して、昭夫は線路に上がった。

 線路は坂の登り口を横断している。ガードの手前を上るとすぐ左手にトンネルがある。恐れ気もなくトンネルに入って行った。

 前方に見える出口の明かりを目指して線路の真ん中を歩いた。トンネルの中ほどまで来たとき、突然鋭い汽笛が二度鳴って、出口を真っ黒い機関車が塞いだ。

「汽車が来た」

 先頭を歩いていた昭夫は咄嗟にそう叫んだ。近くに避難用の穴は無く、やむなく左側の溝に身を伏せた。手塚も同じように伏せた。トンネルの中で汽車に出会ったら、汽車に頭を向けて伏せろ、ということをいつしか聞いていた。

 汽車が近づくにつれてトンネル内に轟音が響き、黒煙が渦巻いた。石炭の燃えるにおいと煙で目や口は開けておれない。蒸気のしぶきが耳元にかかる。機関車が脇を通り過ぎたのを見計らって、恐る恐る頭を回してみると、大きな貨車の車台が頭をかすめるようにして走ってゆく。次から次へと轟音を立てて切れ間なく続く。生憎長い貨物列車だった。

 無地に通り過ぎるまではほとんど生きた心地がしなかった。ようやく列車が通り過ぎ、皆走ってトンネルを飛び出し、すぐに道路へ出た。

 家に帰るため、洗濯しアイロンをかけたばかりの制服は、袖や膝が煤で真っ黒に汚れてしまった。トンネルを歩いて通ろうなどという悪さをした罰とあきらめるよりほかはなかったが、人に見られるのが恥ずかしかった。家はもうすぐだ。

 それぞれが家が近くなると列を離れ、帰っていった。

 昭夫も家近くまで来ると、疲れも忘れて走り出した。

「ただいま」

 大声を上げると、台所にいたのか母が前掛けで手を拭きながら出てきた。

「あれ、帰ってきたのかい。よう帰れたね」

「うん、昨日帰ってよかことになったけん」

「そうね、よう切符の買えたね」

 汽車の切符は私用ではなかなか買えないことは誰でも知っていた。

「うんにゃ、歩いてきたとよ」

「そうかい、それじゃ疲れたとじゃろう」

 そういいながらも母は家へはいる事を禁じて裏から風呂場へ導いた。そして盥を出して

「この中にみんな脱いで入れなさい」

 と言って出て行った。

 昭夫は言われたとおり汚れた上着やセーター、下着など、褌にいたるまで脱ぎ捨てて、素っ裸になった。

 その間に母は新しい下着や衣類を持ってきてくれた。

 寄宿舎には蚤、虱がはびこっていて、学生たちはその害に悩まされていた。シャツの襟元や裾の折り目、セーターのゴム編みなどの部分は彼らの絶好の棲家であった。学生たちは工場から帰ると電熱器にセーターをかざして、這い出てくる白い虫を一匹一匹つぶすのを日課にしていた。


 昭和二十年になると戦局はますます厳しさを増し、無差別の都市爆撃が激しくなった。いよいよ内地に上陸してくるのか、日に日に緊張が高まった。

 三月になり、突然卒業が告げられた。五年のところを無理やり四年に繰り上げられて卒業させられた。

「卒業してもこの儘ここで働くんだとよ」

「進学すればここから出られるそうばい」

 情報は寄宿舎を走った。

 そいじゃ、どっか学校へ行った方がましばい、とばかり、進学を望むものが多かった。

 昭夫と高田、手塚らは一緒に青年師範学校に進学して、川棚を離れた。青年師範学校は諫早市内の小高い丘にあり、青年学校の教員を養成すると言う名目で創立された。しかし、その本来の目的は、中学を卒業者たちを一日も早く軍隊に入れようと、陸軍が画策して作った学校であったようだ。

 募集の謳い文句は「一年修了すれば特別甲種幹部候補生(特甲幹)を受験でき、合格者は予備士官学校に入り、二年修了で少尉に任官する」と言うものであった。

 それを証明するかのように、学校に二年生男子の姿は無かったし、農村に青年は残っていなかった。

 学生には国から毎月三十五円の支給があった。そのうち五円は強制貯金として天引きされるので、学生の手には三十円が入る。学生寮は無いので、学生はほとんどが下宿生活である。下宿代は二十五円から三十円、貧乏人にとっては有難い学校であった。

 言うまでもなく学生は、教師よりも特甲幹を目指していた。どうせ兵隊になるのなら、徴兵で行くよりこっちのほうが叩かれるのは少ないだろうし、格好もいい。

 創立されて僅か二、三年、戦時下の急増であるから、設備らしいものは何も無い。校舎は木造平屋建、校長室と職員室に教室が四室。あとは作業場と倉庫が一棟という質素な造りであった。

 校門は運動場の土手を切っただけで門柱は無い。登校時には門の両脇に立っている藁束を竹槍で五回突いて入る決まりになっていて、元気の無い突き方をすると、

「気合が入っとらんぞ、やり直せ」

 と、石山と言う教授が職員室から顔を出して怒鳴る。だが彼は女子には怒鳴らないので、それを知った学生は、なるべく女子と一緒に校門を入る事を覚えた。

 学部は農学部だけ。従って実習が多い。学校の周りには先輩たちが開拓したと観られる畑があって、数種類の麦や野菜が植えられていた。

 入学してまもなく、その畑の一面に薩摩芋の苗を植え付けることになった。運動場の下に苗床があって、そこで苗を取った。

 学生の多くは下宿の飯だけでは腹が持たず、何時も空腹を抱えている。

「この芋は食えるかなぁ」

 一人が種芋の土を鎌で削り落として齧りついた。つられて手を出したものが二、三人いたが、

「いやー、こりゃ食えんばい」

 と言って投げ出した。はじめに齧りついた男はそれでも黙々と齧り続けていた。みなは唖然として互いの顔を見合わせた。

 昭夫と高田は三十円で肉屋に下宿していたので、食事には恵まれていた。学校から帰ると必ずおやつも出してくれた。

 この畑はしばらく手が入っていなかったらしく、四方八方に延びた蔓と雑草に覆われて、畝の見分けも出来ないほどだった。このままでは芋の収穫は期待できないだろう。

「食糧増産のため、そして出生軍人のためしっかり頑張れ」

 石山教授の号令で、二人一組で畝の両側から作業に掛かった。学生たちは十七、八歳と若い。畑の草取りや蔓返しは造作も無い楽な仕事であった。

 作業は順調にはかどり、少し早いが昼飯にでもしようかと声が上がり始めたときである。

 突然右手上空に爆音が轟き、それが合図でもあったかのように、けたたましくサイレンが鳴り響いた。

「空襲警報だ」

 数人が声を上げた。まったく予期しない空襲である。畑一面に緊張がみなぎった。皆急いで周りの木陰に身を隠した。

 こんな真昼間に空襲とは、滅多に無いことである。見上げるとB29が銀色の巨体を煌かせながら、誇らしげに二機編隊で飛んでくる。

 紺青の空には真綿をちりばめたように真っ白なくもが浮かんでいる。B29は綿雲を縫いながら、右斜前方から低空をゆっくり飛んできた。他に敵機らしいものは見当たらない。二機だけでの空襲と言うのは何かの間違いで、ただ敵機というだけでサイレンを鳴らしたのだろうと思いたくなるほど静寂な光景だった。

 B29はこれまでは数十機の戦闘機や爆撃機を引き連れ、一万メートル以上の高度で飛来し、雨霰と焼夷弾や爆弾を投下していったと聞いていた。こんなに手の届くような低空を飛んでくるとは、聞いた事も無かった。しかし、いったい何をしに来たのかわからないため、油断は出来なかった。

「頭の上を飛んどるわけじゃなかけん、爆弾が落ちてくる心配はなかばい」

「機銃掃射されるかもしれんぞ」

 迂闊にからだをさらすのは危険だ。皆口々に叫びながら木陰に身を寄せて、じっと敵機の動きに目を凝らしていた。敵機の前方は丸く雲が切れて、美しい青空が顔をのぞかせていた。二機はそこに向かっているらしい。迎撃の我が軍機の姿はどこにも見当たらない。

 澄み切った青空、浮かぶ白い雲、陽光の中に煌く敵機。その光景は美しい絵画のようであった。

 敵機に何の抵抗も出来ない悔しさと惨めさを味わいながらも、昭夫はそう思った。だが、口には到底出せない事だった。そのように感じたことを、昭夫自身不思議に思えた。国民総てが戦っているときだった。っ敵を眺めながら感じる事ではなかった。恥ずかしいとは思わんのか、と自らに言い聞かせるように叱った。

 二機が昭夫たちの上を通過して、先頭の機体が青空の円の中に入ると、その真ん中付近で黄色い箱をひとつ落とした。とたんにするすると氷魚が伸び、上部に白い傘がぱっと開いた。

「あ、落下傘だ」

 一斉に声を上げて全員立ち上がった。

 学生たちは落下傘の実物を見るのは初めてであった。物珍しさが先にたって、怖さは全く感じていない。

「何ば落としたとやろか」

 傍らにいる高田が話しかけたが、昭夫はそれには答えられず、

「中に何が入っとるとやrか」

 と、同じような疑問を口にしただけだった。

 三日前、広島に新型爆弾が落とされた事は新聞で報道されていはいたが、落下傘が落とされた事は昭夫たちは知らなかった。

「救援物資ば落としたじゃなかね」

 間をおいて手塚が行った。

「捕虜収容所に落としたとかも知れんばい」

 そう言うものもあったが、捕虜収容所があるのか、誰も知ってはいなかった。

 落下傘はゆらゆら揺れながらゆっくり落ちていった。程なく落下傘は左手後方の山並みの影に音も無く姿を消した。そのときすでにB29の姿は見当たらなかった。

 立ち上がっていた学生たちが漸く腰を下ろしかけたときである。山陰から物凄い光線が空を走り、次の瞬間大爆発音が耳を劈いた。全員とっさに木陰に身を伏せたが、誰一人怪我をしたものは無かった。振り向くと落下傘が消えたあたりから、巨大な黒煙が火を吹き上げながら、もくもくと凄まじい勢いで立ち上がってきた。火山の噴火かと思われるほどの大火柱と黒煙は瞬く間に空を覆い、明るかった青空は暗黒の空へと変貌させられた。爆発音が断続的に続いた。

「何だろう」

「空襲されたとやろか」

 空に敵機の機影はなく、見えるのは煙だけである。空襲にしては様子が変だった。

「何処かが艦砲射撃ばやられとっとじゃなかろうかね」

「長与あたりがやられとっとかも知れんぞ」

 学生たちは思い思いに言った。長与に重要な軍事施設があろうはずは無く、特に根拠があるわけではなかった。煙の方角からそのように考えただけだった。

 曖昧なままに話が終わって、昼にしようかと弁当に手をつけ始めたとき、どこからともなくB29が再び姿を現した。今度は黒煙の周りを半周するようにしてから何処かへ飛び去った。

 山陰の爆発音は一向に止んでいなかった。学生たちはこのとき落下されたものが人類史上嘗て無い原子爆弾であるということは知る由も無かった。

「しつこい艦砲射撃だな」

「何隻くらいの艦隊で来とっとやろか」

 そんな事を話しながら、昼飯を終えた。午後の作業は簡単だった。周りを綺麗に片付けて、そろそろ帰ろうかと言う頃、細かい灰が降ってきた。山陰の黒煙は徐々に白いものに変わっていった。

 帰路の農道では、頭上に降ってくる灰を面白がって追いかけ、手づかみにして喜ぶものが幾人もいた。そのために四列縦隊の体系は乱れたが、学生たちはまだ十七、八歳、好奇心を残した年齢である。目くじらを立てるほどの事ではなかった。昭夫も頭上に舞い落ちる黒焦げた紙片を素手で掴み取った。

 まだ死の灰などと言う言葉も無く、その灰の恐ろしさを誰も知らない。止めろと言う者もいなかった。石山教授も黙ってみているだけであった。

 これも戦争なのか、と、昭夫は思いながら歩いていたが、一億総決戦とは言うが、何をどうしたらよいのか、わからなかった。何を武器として敵に立ち向かったらよいのか、誰も何も言わない。指揮官にすらわかっていないと思われた。手製の竹槍で、国民一人ひとりが自分の判断で戦えと言うのか、まことに心もとない思いがした。


 帰校すると自体は急変していた。

 長崎が大空襲を受けて全滅状態になった。市内在住の者は長崎に救護に行くので急いで帰宅し、身支度を整えてすぐ駅に集合せよ、と言う。

 駅には市内各所から在郷軍人や町内会、国防婦人会、医師、看護婦など大勢の人々が集まっていた。グループごとに固まって汽車を待っていた。緊張からか口元は堅く、話をするものも少なかった。

 汽車を待つうちにさまざまな情報が耳に入ってきた。正規の救援隊しか長崎へは入れないと言うことだった。救護班の腕章をつけたものだけが汽車に乗る事が出来、残りの者は市内で救護活動をする事になるらしい。

 青年師範の学生たちは、身体は一人前だが、十七、八歳でまだ救護の知識などは十分ではなく、経験も無い。結局長崎へは行けないこととなった。

 夕方近くになってホームがざわめいた。一斉に長崎方向に首を伸ばし、線路に落ちんばかりにして覗き込む。汽笛を鳴らして汽車が駅に入ってきた。どの窓からも人の顔が突き出ている。恐怖と不安の名残か、表情は皆くらい。

 中ほどの客車が昭夫の前を通り過ぎようとしたとき、一人の女性が急に振り向いた。長い髪が風に煽られて、真っ黒に焼けた顔が露になった。停車とともに髪はばさりと前に落ち、髪の奥に二つの目がギラリと光った。

 地獄から来た者でもあるかのように思えたが、咄嗟にそう感じた自分を恥じた。

 ホームに降り立った人々の顔には、緊張した中にも安どの表情が窺われた。

「大変でしたでしょう」

「お怪我の痛みはいかがですか」

「お疲れでしょう、ご苦労なさいましたね」

 ひとり一人を丁重に労わる婦人会の人々の声には、温かいものがあったが、どこか喉に詰まったようでもあった。

「ありがとうございます」

「お蔭様で助かりました」

 人々の笑顔には救われる思いであった。みな一様に元気であるかのように装ってはいるが、心身ともにぼろぼろになっているであろうことは見て取れた。それが証拠に男も女も誰一人として満足な服装はしていなかった。シャツは破れ、血にまみれ、泥に汚れた肌があちこちにむき出されていた。中には上半身裸という男性もいた。

 ホームの端にいた手塚が車内に残っている人はいないかと、デッキを覗き込んだとき、一人の婦人がよろめきながらホームへ転がり落ちてへたり込んだ。中年の婦人のようだが、身体には何一つ纏っていない。顔は真ん丸く膨れ、身体のあちこちも赤黒く腫れあがっている。ひどい火傷た。動けない身体で必死に何か言っているようだった。

「何、おばさん、何」

 屈み込んで耳を近づけた。

「ミズ、、、水」

 か細い掠れ声だが、どうにか聞き取れた。ホーム上に俯し、両手を合わせて必死に懇願している。炭化したような皮膚なのか、布とも紐ともつかないように垂れ下がっていた。よく生きておられると思わないではいられないほどの重症だった。

 手塚は脇にいる学生たちと目を合わせて頷きあった。学生たちは黙って婦人の周りを囲むと背を向けて壁を作り、人の目を遮った。

 このような重傷者に水を飲ませるのは禁物であったのかもしれない。しかし、全裸に近い姿のまま縋るように懇願するこの人を見捨てる事は出来なかった。しばらく互いに顔を見合わせていたが、

「水を汲んで来いよ」

 と言う誰かの声がした。「水を飲ませても飲ませなくても、この人はこのままでもとても助かるまい。それなら望みどおりに水を飲ませてやりたい」皆の思いはほぼそのようなものであったろう。

「よし、俺が汲んで来る」

 そう言うと手塚は憲兵や警官の目を盗むようにして、水を探しに行った。

 運よくホームの端に水道があり、薬缶もあった。手塚は急いで水を汲むと、何気ない振りをして婦人のところへ戻った。

 憲兵も警官もホーム一杯の被爆者たちの整理や避難場所の指定や、案内する救護班の割り振り等に忙殺されて、手塚たちの動きには気付いていないようだった。

 水を飲ませても大丈夫だろうかと、さすがに手塚はためらいを覚えたが、このために汲んで来たんだ、と自分に言い聞かせて薬缶の蓋に水を注いだ。

「おばさん、はい水だよ」

 婦人は蓋の穴からこぼれる水を気にする様子も見せず、震える手で息もつかせず飲み干した。顎から胸にかけて滴った水を手で拭いながら、その手も舐めた。そして「あぁ」と満足そうにため息ともつかない声を上げ、小さく肩で息をついた。真っ赤に腫れあがった顔に一瞬白い歯がこぼれた。

 あぁと言ったか細い声は感謝の言葉であったのか、身も心も焼き尽くされた儘、廃墟の中を彷徨い、漸く水を口に出来た安堵の声だったのだろうか。続く言葉も発することなく、婦人はホームに横たわった。

「死なさったとやろか」

「いや、判らんばい」

 学生たちには生死の判断をする事はできなかったが、このままこの婦人をここに置き去りにする事は出来ない。

「毛布はなかかな」

 手塚は言うと、自ら駅の事務室に行って宿直様に使っていた古毛布を一枚貰ってきた。毛布を婦人にすっぽりとかけて、そっと黙祷を捧げた。周りにいた他の学生たちもそれに気付いて静かに黙祷した。

 

 愛一陣の案内役になった昭夫は、避難所と鳴った高女へ向かって出発した。幸い第一陣の被爆者たちは皆自力で歩ける人たちであった。駅裏の細い野原の坂道を互いに肩を組み、手を引きながら上がっていった。

 九州の夏は日が長い。まだ明るい野の道を行列はゆっくりと進んだ。

 その頃漸く片付いた駅のホーム上に毛布に気付いた在郷軍人が、つかつかと寄ってきて、

「何だこれは」

 と言いながら、毛布をめくった。

「こりゃあひどか、もう死んどらすばい」

 そう言うと、見守っていた手塚たちに

「表に大八車のあるけん、そいで中学まで運べ。後は向こうの指示を受けろ」

 と言い捨てて立ち去った。手塚たちは言われたとおりに婦人を大八に乗せた。


 高女へ向かった被爆者たちは、途中漸く安心して気もほぐれたのか、ポツリ、ポツリと、被爆時の模様を語りだした。

「私は家で片付けばしよったとですよ。そろそろ昼の支度ばせにゃあと思うて窯のところに行ったとです。そしたらピカっときたんで『何じゃろか』と思うた瞬間、どかーんて凄か音がして、気がついたら土間の入り口まで吹き飛ばされとったとです。気がつくまでにどの位時間の掛かったとか知らんですばってん、気が付いてみたら、家は潰れとるし、何が何だかさっぱり分からんとですよ。脇に丈夫な台があったけん、それに材木が止まって私は潰されずに済んだとですばい。まあ、ガラスや板で怪我したくらいで助かったけん良かとですよ」

 前を歩いている小母さんが元気な声で話していた。

 昭夫と肩を組んでいるおじさんは

「工場で仕事ばしよったとき、どかーんときて吹っとばされ、壁に叩きつけられたとです。帽子も作業着も何もかものうなってしまって、シャツとズボンだけになったとです。それも、こがんボロボロに破れてしもうて、一体何が起こったとですかね。さっぱりわからんとです。家はどうなっちょるかと町へ出てみたら、何処もかしこも崩れとって、あっちこっち燃えとるとですよ。途中で助けを求めて手を上げている人が居らしたばってん、どがんもでけんじゃった。死人の転がっとる中を歩き回って、漸く家に着いてみたら、滅茶苦茶に潰れてしもうて、家の者は誰もおらんし、何処に行ったかも分からんとです。暫くぼけっと立っとったら、警防団の人が来て、救護所のでけとるけんそこへ行きんしゃい、て教えて貰ろうたとです」

 肩で息をしながら、喘ぎ喘ぎ話してくれた。

 燃え盛る街中を家人を探し、救護所はどこかと尋ね歩き、死体に躓き、救いを求める人々に心を残しながらも、徒手空拳、我が身も怪我人。為すことも無く、立ち去らざるを得ない非情の身の辛さを痛いほど味わったのであろう。被爆者は誰もが同じような経験してきたはずである。

「私は鉄砲を撃ったわけじゃ無し、戦争しとったわけでもなか。そがんとに何でこがん目にあわにゃならんとじゃろか」

 後方で女性の声がした。五十くらいの小母さんは、俯いて歩きながら一言一言を噛み締めるようにして言った。

 自分は戦争をしていたわけではない、それなのにどうしてこんなひどい目に合わされるのか、ということだ。平凡な一市民の怒りと怨念の籠もった悲痛な叫びである。

 これまで軍は絶えず一億総決戦を唱え続けてきた。その最中にこんな事を言うのは大変勇気の要ることである。もし憲兵にでも聞かれたらただでは済むまい。何の欲望も無く失うものも無い。その上、実際に実を持って空爆を体験した者だからこそ言えるのだろう。その言葉には計り知れないほどの凄みと重みがあった。

 被爆者たちの足取りは当然ではあるが軽いものではなかった。これからいく高女に果たして何が待っているのか、案内役の学生たちも知らない。高女には町内会や婦人会の人達の手によって幾つかの教室に筵が整然と敷き並べてあった。筵とは言っても、通常はアンペラと呼ばれている粗末なもので、とても寝床代わりに敷くようなものではない。しかし、急場の間に合わせとしてはそれしか無かったのであろう。

 被爆者たちも不平がましいことは一言も言わない。「ありがとうございます」とむしろ感謝の言葉で横になった。枕は藁半紙一枚であった。それに黄色い軍用の古毛布が一枚、上掛けとして用意してあるのがせめてもの慰めであった。


 第二陣は諫早中学校だった。高田たちは大八車で怪我人を運ぶ事になった。男が五人、腹を怪我しているので横にはなれない。荷台に座って互いに肩を組めば何とか行けるだろうと考えた。幸い中学校迄は平坦な道である。荷台を平らに保ってそろりそろり慎重に進んだ。

 別の大八車に亡くなった婦人を乗せ、手塚たちが運んだ。

「これも運命だよね」

「水ば飲ませたけんね」

 そう言いながら毛布をしっかり掛けてゆるゆると運んだ。人目につかないように列からは少しはなれて。

 翌日、昭夫と高田はリヤカーを引き、手塚は小野と大八車を引いて中学校へ行った。中庭に入って教室の出入り口で待っていると、廊下の奥から警官が出てきた。

「おお、来たか。ちょっとここで待っててくれ」

 それだけ言うとすぐに引き返した。その素振りには随分待ったぞという素振りがありありと感じられた。

 暫くして置くから重そうな筵の包みを三人の大人が運んできた。一目でそれは遺体であることが分かった。遺体は昨夜自分が寝床として使ったであろう筵に包まれていた。

 三人は黙ってリヤカーに積み込むと、

「まだあるから待っとれ」

 と言い捨てて戻っていった。次々に運ばれた遺体は合計四体。亡くなられた方には気の毒なことであるが、戦時下で物資不足の元では、こうしてリヤカーに積み重ねて運ぶのもやむを得ないことであったかもしれない。

 それでも昭夫と高田は悲痛な思いでリヤカーを引いた。火葬場に着くまで、とうとう一言も言葉を交わさなかった。遺体を四体も積んで運ぶところを、町の人に見られたくはなかった。ひっそり、こっそりと、人にわからないように気遣いながら運ぶのに懸命で、とても会話をする気にはなれなかった。


 手塚たちの大八車も同じようにして後に続いた。火葬場に着くと憲兵が出てきて、「ここから中には入るな」と言う。昭夫たちとすれ違いに帰っていくリヤカーや大八車が数台あるところを見ると、中はもう一杯で、安置する場所も無いのかもしれない。夏の暑い日が続く。何日も火葬しないわけには行かないだろう。

「これじゃぁ火葬もでけんやろね」

「そうやね、どがんすっとやろか」

「一緒に積み重ねて、油を掛けて焼くとじゃなかか」

 先に帰って大人たちの話し声が耳から離れない。

 帰りの学生たちの足取りは重かった。振り向くと煙突から白煙が立ち上っていた。


 その後数日かかって被爆者たちは汽車やトラックで各地の収容所に移された。

 さらに市内には、親類縁者を頼って避難してくる被爆者も大勢いた。ところが一週間もしないうちに、髪の毛が抜け落ちたり、腹が膨れたりしてきた。何が原因かどんな病気か分からない。伝染を恐れてこのような被爆者たちは防空壕などへ入れられる事もあったようだ。

 こういう話は電波のようにすばやく伝わってくる。暗い冷たい壕の中に寝かされ、得体の知れぬ、治療もされない病に苦しむ人の心は一体どのようなものだろうか。さぞ侘しく、辛く、悲しいものであろう。後に知った事ではあるが、被爆直後にもそのあまりの苦しさからか、自殺をするものも少なくは無かったという。さらに年月を経ても、自由に動かないからだ、十分な庇護を受けられない為の生活苦から自殺をしたものも数多くいたようだ。

 昭夫の下宿先にも親戚の姉弟が非難してきた。姉は十七、八歳か。何処にも怪我をしている様子は無く元気だった。弟は頭や顔に傷があり、包帯を巻いている。ところが四、五日たったある日、突然姉の姿が見えなくなった。何処へ行ったのかと尋ねると、

「姉ちゃんは防空壕にいるよ」

 と言う。そこはもう、生きては帰れない所だ。だが、弟はそれを知らない。

 間もなく彼女の死を知った。近くの教会で、身内だけで密やかに弔ったという。


 長崎での被爆者は川棚の海軍病院へも収容された。重傷者が多かったのか、多数の使者が出たらしい。

 十二日の朝、川棚に残されて働いていた松下たちは、トンネル工事に出勤するため、いつもの通り四列縦隊で寄宿舎を出た。門の前の町道の片側に異様な木箱が並んでいた。坂道の下から上まで、数え切れないほどであった。

「おい、あれは何だ」

 問いかける松下に先頭から間を置かず返事が返ってきた。

「死体の入っとるばい」

 木箱は杉板を粗く組み合わせただけで、中は丸見えである。

「これが棺桶かね」

「そうらしかね、ばってん二つも、三つも入っとるぞ」

「棺桶の足らんじゃったとやろ」

 隙間からのぞくと、みな裸同然、大火傷をしたのか、火膨れたような皮膚が痛々しい。

「可愛そうじゃね、こがんとに入れられて」

「これが戦争ていうもんかね」

 木箱の一つ一つに瞑目し、成仏を祈りながら出勤した。

 工場は、トンネル工場とは名ばかりで、山腹を繰り抜いた洞窟の中にある。風通しは悪く、湿気が多い。その日は一日中憂鬱で、仕事は捗らなかった。

 遺体はいくつあったのか、朝の光景を思い浮かべながら頭の中で何べんも数えた。

 戦争は人を人として扱わず、動物か物のように手荒く粗末に扱う。松下は情けない気持ちを抱いたまま宿舎に帰った。朝の木箱はいずれかに運ばれ、姿はなくなっていた。その後数日、小高い山頂付近から白煙が絶え間なく立上がった。


 すでにその頃空爆の被害は日本全土に及んでいた。軍事基地よりも密集する民家や街並みが集中的に狙われ、家を失い、傷つき、命を落とした人々は数百万にも上った。

 日本にはもう戦力は残っていない。無差別な都市爆撃によって、日本国民に戦争の実態をみせつけ、厭戦観を芽生えさせようと企てたに違いない。


 八月九日、B29は悠々と低空を飛んできた。日本には迎撃する飛行機も高射砲弾も十分ではない事を確信して、原子爆弾による攻撃を仕掛けたのである。

 八月十五日正午、重大放送があるという。だが、学校にラジオは無い。近所の農家の庭先で玉音放送を聞いた。

 座敷の箪笥の上に石碑のような形のラジオが載っていた。古いラジオだったのか、雑音が多くて庭先にいる学生には、内容は全く聞き取れなかった。

「いよいよロシアとも戦争だ」

 宣戦布告の勅語と聞き違えてしまった。

 数日前、ロシアが日ソ中立条約を破って満州に攻め込んできたのは承知していた。

 同盟国であった伊太利亜が破れ、独逸も負けてしまい、日本は世界中を敵に回して独りで戦う事になったのだが、それでも学生たちは日本が敗れるなどとは思いもしなかった。「神国日本」などということを信じていたのだった。

 学生たちはその後四日間、校舎脇の土手に防空壕を掘り続けた。大村航空隊の双葉機が「戦争はまだ終わっていない。われわれは負けていない。さあ以後の一兵まで戦う」というビラを撒いてくれたおかげで、逆に終戦を知った。笑うに笑えないお粗末な決着であった。

 くにのために捧げるはずだった命だが、もうその必要は無くなった。これから何のために生きるのか、誰もが唖然として心は用意に定まらなかった。

 数日後教室での授業が再開された。

 石山教授が来て Government of the people by the people for the people と板書し、

「これからの日本は、民主主義国家である。人民の人民による人民のための政治を行う」

 と、滔滔と語りだした。つい先日までは、シナ後で捕虜の訊問の仕方を講義していた教授である。

 あまりの豹変振りに昭夫はあきれてしまい、ノートをとる気にもならなかった。

 もともと教師になるつもりなどなかった。一年で中退することにした。

 他の学友たちも多かれ少なかれ同様であった。

 学業も中途半端で、軍人にもなれず、学生たちの青春は幕を閉じた。


 

作者は本稿作成後平成27年7月26日、他界した。その後長男が校正、アップロードした。

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