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妖霊 2(饗宴)

 

 ぱちぱちと火の粉が爆ぜている。

 街のあちらこちらに置かれた篝火が、朱金色の炎を躍らせている。

 炎は影を生み、影は闇を生んでいる。

 明るいのは炎のまわりだけで、周囲はむしろ深い闇の底に沈んでいる。

 崩れた建造物が、ごろり、とした瓦礫となって、散らばっている。

 その瓦礫に、炎が影を落としている。

 空気を焦がす匂い。それ以上に強烈な血の匂い。

 降り注いだ人の肉が、瓦礫にこびりついている。

 血はすでに乾き始めているが、染みついた匂いは、鮮血よりも強く異臭を放っている。

「ぐうっ――」

 瓦礫に手をかけた男が、口を押さえて、胃の中身を吐いた。

 身なりからして最下層民である。

「手を休めるな」

 叱責が飛んだ。こちらは衛士である。

 数十人の衛士とそれに倍する最下層民が瓦礫を片づけている。とは言え、実際に作業をしているのは最下層民である。衛士はそれを見ているだけだ。

 のろのろと最下層民が動く。

 動きが鈍いのは、疲労のせいもあるが、慢性的な栄養失調のせいだ。

 全員が、痩せている。

 肌の色は悪く、眼の下にはクマが出来ている。ろくに食べていないのだ。先ほど吐いた胃の中身も、ほとんどが胃液だった。

「ちっ」

 衛士達が舌を鳴らした。

「少しも片づかないぞ」

「人手が足りん。明日、出直すか。――おい。少しでも片づけておけよ」

 衛士達が立ち去ろうとする。

「あの。食事を……」

 ひとりが口を開いた。

「あ?」

「食事をいただけると……」

「配給は三日後だろうが」

「……」

「瓦礫が片づかないと配給も無いかもしれんな」

 くはは、と衛士は笑った。

「帰って美味いものを食うか」

「そいつはいい」

 くはは、くはは、と笑う。

 笑いながら去っていく。

 その姿を、最下層民達は無言で見送る。土気色の痩せた貌で。クマの浮いた貌で。

 のろのろと動き始めたのは、片づけなければ配給も無い――に反応したからだ。

 瓦礫に眼を向け、愕然と動きを止める。

 そこには、何も無かった。

 ごろごろと散乱していた瓦礫が。

 そこかしこに潰れていた無数の遺体が。

 乾きかけ、粘ついていた大量の血溜まりが。

 何も無く、ただそこに、赤い地面だけが残っている。

「な、なにが……」

 背中を丸めた最下層民達が口を開く。老人ではないが、背骨を伸ばそうとしない。


 気力を失くした男を食べても美味しくないわ――


 妖艶な声が響いた。

 首を巡らしても、そこには誰もいない。


 誇りを取り戻したら食べてあげるわ――


 ふふふ、と女の声が笑う。


 胸を裂いて――

 心臓をとりだして――

 熱い血を啜ってあげるわ――


 ふふふ、

 ほほほ――


 嬌笑が渦を巻く。

 瓦礫の消えた赤い地面の上で。

 崩れなかった建造物と建造物の間で。

 建造物の形に切り取られた漆黒の空の彼方で。

 茫然とする最下層民達を嘲笑するように、女の嬌笑がぐるぐると響き続けた。



 建造物の外壁に設けられた石の階段を、松明の明かりが登っていく。

 衛士達であった。

 階段は狭く、一列になっている。遠目で見れば、炎の明かりだけがジグザグと折れ曲がりながら、壁を這って行く。

 先頭の衛士が足を止めた。

 手に持っていた松明を、ふいっ、と動かした。

 背後にいた数人が、松明の動きに合わせて視線を動かした。

 そこに、子供が、いた。

 五、六歳の少女だった。

 足首まで届くような長い髪が、ゆるやかな風に揺れている。

 細い絹糸のような髪だった。染めているのか、淡いピンク色をしている。

 人形のような少女だった。

 白い貌はいかなる表情も浮かべていない。

 小さな手に、人の頭ほどありそうな、大きな玉を抱えている。

 少女の玩具だろうか。透明なガラス玉である。

 ガラス玉を透かして、少女の服のリボンが拡大して見える。生地はシルクのようだった。ペティコートを何枚も重ね、スカート部分を花のように膨らませている。

 下層民の身なりではない。貴族の迷子だろう――と衛士達は思考した。

「お嬢ちゃん――」

 ひとりが声をかけようとして、ぎくり、と口を閉ざした。

 場所は狭い外階段だ。隊列は一列。松明は右の方向に動いた。手すりの向こう側。

 少女は、階段の外に立っているのだ。

 足場は、何も存在しない。

「な……な――」

 声をかけようとしていた衛士が驚愕の声を洩らす。

 少女の眼が、衛士達に動いた。

 大きな眼は、空のように蒼かった。だが。

 左眼だけが血のように紅い。

 少女の口が動いた。


 落ちちゃえ。


「え――」

 衛士達の足が浮いた。

 背中から落ちていく。

 手から離れた松明が、くるくると回りながらその後を追う。

 ジグザグの階段に沿って並んでいた明かりが乱れ、踊り場で跳ねて、地面に落ちる。肉のぶつかる音と、骨の折れる音が響いた。

「な、なにが……」

 呻きながら、何人かが身を起こす。

 前列にいた者ほど被害が少ない。後列の者達は、ほとんどが圧死した。肉を突き破った骨が、赤い血を糸のように絡みつかせている。 


 あら。死ななかったのね。うれしいわ――


 ぞくり、とするような、妖艶な声が響いた。

 無事だった者達が振り返る。

 そこに、女が立っていた。一瞬、足下を見たのは、少女の後だからだ。

 長い脚線が眼に入る。スリットの入ったスカートは、脚の付け根の位置まで開いていた。

 蛇のように白い肌。ぬめるような艶が脳を直撃する。

 下着はつけていない。

 胸元は大きく開き、双つの果実が芳醇な匂いを放っている。

 紅い唇が、濡れたような笑みを浮かべている。

 認識できたのは、そこまでだ。濁った脳は、水のように流れる女の髪も、髪と同じ色をした女の眼も見ていない。

 その眼が、右眼だけ血のように紅いのも――

 女の手が近づいた。

 衛士達に触れる。

 その瞬間、衛士達の身体は破裂した。沼底から噴き出したガスが水面で膨らんで破裂するように、衛士達の全身に無数の水泡が生まれ、その全てが破裂した。

 霧のように噴き上がった血が女の全身を濡らす。

 女の貌も。胸も。服も。足も。深い沼のような色をした髪も。

 血のように紅い唇に妖艶な笑みを浮かべ、細長い舌で、口許に垂れてくる血を舐める。

 その時にはもう女の貌は白かった。どこも血に濡れていない。

 あれほどに浴びた血が、どこにも残っていない。

「ひいっ――」

 圧死した衛士達。その死体を跳ねのけて飛び出した者がいた。生き残りがいたのだ。

 女に背中を向けて逃げて行く。

 妖艶な眼で、女がその背中を見る。

 生き残りの足がもつれた。地面に倒れ、手をついて身体を起こす。起こそうとして、硬直した。手の下に、女の身体があった。

 手は地面についている。その下に、女の身体がある。

 地面の中に、沈んでいるのだ。

 沈んでいるのが、透けて見えた。

「な――」

 ぽてりと肉厚の唇に、妖美な笑みを浮かべている。

 背後の女ではない。貌が違う。身体つきも違う。

 豊満な胸。大きく張り出した腰。だが、腹部は引き締まっている。

 女体として完璧なプロポーションであった。

 足は長い。腕は――見えなかった。

 ドレープの多い服は、腕の部分だけ、ぺたりと潰れていた。

 それが何を意味するのか。生き残りの脳は動かない。

 背後で、ぐちゃり、と肉が潰れるような音が響いた。

 音に反応する獣のように、生き残りは首を巡らした。

 衛士達の死体がそこに積み重なっていた。その死体を、女の細腕が掴んでいた。

 地面から生えた二本の腕が、死体を掴んでは、地面の中に引きずり込んでいる。死体の重量を感じていないようだ。何体かを同時に掴んで、ずぶ、ずぶ、と引きずり込んでいく。死体同士がぶつかり合い、肉が潰れる。生き残りはその音を聴いた。

 気がつけば、死体の全てが消えていた。

 時間にして、数瞬だった。

 眼は、ストップモーションのように、女の腕が動くのを見たが、細い腕が、ズダ袋のように死体を振り回すのを見たが、時間の経過はわずかだった。

 眼を逸らして戻せば、死体が消えたようにしか見えなかっただろう。

 ず、と音をたてて、女が身体を起こした。

 地面の中から起き上がってくる。

 両腕が、生えていた。

 生き残りは貌を上げた。両手をつき、膝もついている。

 その前に、女が立った。

 細かく縮れた髪は、闇のように黒い。

 生き残りを見下ろす眼は、下瞼のラインがザクロの実のようなカーブを描いている。

 両眼が血のように紅かった。

「な、なんだ。なんなんだ。おまえ達は――」

 生き残りが、悲鳴に近い声で言った。


 ルエルラメムの妖霊――


 両眼真紅の女の口が動いた。

「よ、妖、……れい――?」

 そう聞いたとしても、もはや脳は正常に動いていない。言葉の意味が浮かばない。ただ。

 人ならざる存在――とだけは認識した。

 神のような――と感じたのは、女から放たれる気配のせいか。

 意識ではない。身体が感じる。

 生き残りの眼から涙が溢れた。

 女の口に慈母のような笑みが浮いた。

 女の手が伸びてくる。女の指が生き残りの顎に触れた。


 ルエルラメムに血の祝福を――


 女が口を開き、次の瞬間、真紅の血飛沫が広がった。

  



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