妖霊 1(視線)
妖霊
天空に煌めくエメラルドの光を、その男は冷然と見つめていた。
長身の男である。
真紅に塗られた石柱に背中を預け、両腕を胸の前で組んでいる。足首までの長衣。腰にサッシュを巻いただけのラフな格好だった。
背中まで流れる銀色の髪。肌は白い。彫像のような身体は、美しい筋肉に覆われている。
彫りの深い貌は二十代に見えたが、若者と呼ぶには眼の色が酷薄すぎた。血を浴びて、なお白々と光を放つ銀剣のような、凍てついた光を放っている。
それでいて、口許に浮かぶ笑みは、どこか面白がっているような、他人を揶揄するような笑みだ。
どうされました。ゾハルさま――
女の声が響いた。妖艶な、背筋がぞくりとするような声だ。
しかし、姿はどこにも見えない。
男はテラスに立っている。テラスのこちら側は豪奢な部屋が広がっているが、赤を基調としたその部屋のどこにも、誰も存在しない。
だが、男の笑みは変わらなかった。
「面白いものが見える」
笑みを浮かべたまま、声に応じる。
面白いもの――ですか。
「ああ。人間ではない」
ま。それは。それは――
興味を覚えたらしく、女の声が愉しそうに響く。
「喰うなよ。先に私が愉しむ」
あら。残念。可愛らしい子のようですのに――
くふふ、と女が笑う。
女の姿は見えないが、女からは外が見えるらしい。
テラスに置かれた台の上で、グラスの中の液体がゆらゆらと揺れる。
男が手を伸ばし、グラスをとった。口許に運んで、ふん、と鼻で笑う。
「血の匂いがするな」
大勢死にましたもの――
ふふふ、と女が笑う。
潰れた臓腑を撒き散らし――
ちぎれた手足で地面を掻きむしり――
大量の血を流して流して流しましたもの――
とろり、と血に濡れたような声で、酔ったように、歌うように女が言う。
今宵は宴ですわ――
男はグラスを傾けた。
血のように朱い液体が喉を滑り落ちていく。
さあ、と風が吹いた。
血臭が染みついている。
冷ややかな貌に、一瞬、愉悦の色を浮かべ、男――ゾハルは笑った。
「退屈しなくて済みそうだな」
ヴォルドルーンは背後に眼を向けた。
真紅の王城が視野に入る。
「どうしたの?」
左腕に抱いた少年――ジハドが言う。
痩せた身体は五、六歳にしか見えなかったが、利発な物言いはそこまで幼くない。
貌は、汚れていたが、整った顔立ちだった。
赤に近い褐色の髪と赤銅色の眼。その眼が聡明な光を放っている。
「視線を感じた」
ヴォルドルーンが答えると、
「特別な視線なんだね」
そう言った。
ヴォルドルーンは唇の端を上げた。
光の膜のようなチャナの羽は、すでに注目の的だった。地上からも、崩れなかった建造物の屋上やテラスからも、無事だった者達が指をさしながら見ている。
それらの視線とは別だ――とすぐに理解した。頭の回転が速い。
「何者かは知らんが――」
地上に降り立ちながら、ヴォルドルーンは言った。
「いらぬ興味を抱かれたようだな」
ふわり、とチャナがその横に降りた。体高はヴォルドルーンの腰にも及ばないが、細長い首を伸ばすと、頭部はヴォルドルーンの肩まで届く。今は首を鳥のように曲げているので、チャナの口先がヴォルドルーンの手の辺りにある。
チャナの舌がヴォルドルーンの指を舐めた。
エメラルド色の羽は今はもうどこにも見えない。
「どうするの?」
ジハドが言った。
「逃げる」
「逃げる?」
意外だ――と言いたそうな貌に、ヴォルドルーンは口の端で笑った。
「今なら逃げるのが一番だ。それで諦めてくれれば、誰も傷つかない」
「追って来たら?」
笑みを浮かべると、ジハドが、ああ、と言った。
「来ると思っているんだね」
「読むなあ。おまえは――」
軽く笑ってから、ヴォルドルーンは真顔になった。
「こいつはわざと視線を見せつけている。こちらがどう反応するか、探っている。逃げたからといって諦めはしない」
「それでも逃げるの?」
「退路を断たれる前なら逃げる方が有利だ。好きな場所に誘い込める。もっともそんな戦術が通用するかは不明だがな」
「それほどの相手なの?」
「相手――じゃない。連中だ」
「え?」
ヴォルドルーンは背後に視線を向けた。この位置からだと王城は見えない。崩れかけた建造物の向こう側に、塔のような先端が見えるだけだ。
ヴォルドルーンは金色の眼を細くしてから、唇の端を上げた。
「視線はひとつじゃない」




