最下層の少年 4(変身)
どこまでも澄んだ空が、どこまでも広がっている。
瑠璃色に輝く大気には塵ひとつ無い。
何もかもが吸い込まれたからだが、感動している場合ではなかった。
最上階で風に攫われ、上空に開いた穴に吸い込まれようとしていたのだ。
穴が消えた今、舞い上げられたあらゆるものは、重力の奴隷だ。
ばらばらと堕ちていく。
崩れた建造物の瓦礫が。大量の池の水が。数えきれないほどの人間の身体が。
遥か下の地上に向かって。あの王城でさえ、小さなダイスのようにしか見えない。
ヴォルドルーンの身体も同じだ。
風を斬りながら、落下していく。
「このままだと地面に叩きつけられるね」
愉しそうな口調でチャナが言った。
「叩きつけられるだろうな」
平然とヴォルドルーンが返す。
落下が始まると同時に、ヴォルドルーンは空中で身体を入れ換え、背中を地上に向けていた。左腕で少年を抱き、右手でチャナの手首を握っている。チャナはヴォルドルーンの身体の上で、両膝をヴォルドルーンの腹に乗せ、両手をヴォルドルーンの胸に置いていた。
チャナの貌が、ヴォルドルーンの貌に近づいた。
「たすけて欲しい?」
「たすけて欲しいな」
「じゃあいつものようにチャナを呼んで」
子猫のように笑いながら、チャナが小さな舌でヴォルドルーンの唇を舐める。
ヴォルドルーンは唇の端を上げた。
「チャナ。おれの可愛い『小鬼』――」
呪文のように言う。
たすけろ――
びいん、と空気が震えた。
少女の身体がエメラルド色の光を放った。
光の中で少女の身体の線が変化していく。
首が細長く伸びていく。小さな頭部。その頭には、何本もの角が生えている。耳は無い。鼻のようなものも見当たらない。
水晶玉のような眼が、貌の半分近くを占める。口は小さい。
少女の服が、二つに裂けて落ちていった。サイズに大きな変化は認められなかったが、骨格の変化に布地が耐えられなかったようだ。しなやかな身体が顕わになる。胸の膨らみとくびれた腰が少女の特徴を残しているが、手足の付き方は四足獣のそれだった。白い毛が全身を覆っている。少女の髪と同じ――白いのに、エメラルドのような光を放つ不思議な体毛である。先に行くほど細い尾が、身体よりも長く伸びていく。
異形であった。
見たことの無い生き物である。
少年はこの国から出たことがなかった。この世にどのような生き物がいるか、あるいはいないのか――知識として持ってはいない。だが、眼の前の生き物が、違う、ということは本能でわかった。
この生き物は、この世のものではない。
そもそも、少女が変身した時点で、有り得ないだろう。
いや。逆か。
この異形の生き物が、少女に変身していたのか。
愉しそうに眼を細めながら(その眼の光だけは少女の時と変わりない)、異形の生き物がヴォルドルーンから離れた。
ヴォルドルーンが右腕を身体の横に伸ばす。
異形の足がその腕を掴む。指の数は四本だった。異様に長い。その全てに鋭い爪が生えているが、ヴォルドルーンの皮膚を傷つけようとはしない。
エメラルドの光が広がった。
「わあ――」
巨大な光が、異形の背中から空に広がった。
羽だろうか。透き通った光の向こう側に瑠璃色の空が重なって見える。
「きれいだ」
思わず呟いていた。
「同感だ」
ヴォルドルーンが言う。
その眼はまっすぐに異形の生き物を見ている。
光を嵌めこんだような金色の眼が、さらに光を放っているようだった。
「飼い主とペットみたいだと思ったけど――」
口を開くと、ヴォルドルーンが視線を向けてきた。
「そうじゃないね。かあさんを見る父さんの眼とおんなじだ」
「――」
ヴォルドルーンの眉が、片方だけ跳ね上がった。
口許に苦笑が浮き、次の瞬間、く、く、と喉を鳴らして笑った。上空で、異形の生き物が不思議そうに首を傾げる。
「内心を読まれたのは初めてだ。――名前は?」
「ジハド」
「『誇り』――か。いい名だ」
ヴォルドルーンが口許で笑う。
不敵な、それでいて気持ちの好い笑みに、少年――ジハドもまた笑みを返した。
「うん。ぼくもそう思う」
エメラルドの光が眩しい。
その向こう側に広がる雲ひとつない空。ぐるりと地平線まで広がる蒼穹を眼に映す。
ヴォルドルーンに抱かれたまま、ゆっくりと降下しながら思う。
いつか。
いつかこの空をもう一度見よう。
みんなと――




