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最下層の少年 3(空震)

 

「今の、チャナもできたよ」

 逃げて行く三人目を見送りながら、チャナが言う。

「ああ。できただろうな」

 ヴォルドルーンが応じた。

「どうしてさせてくれなかったの?」

「おまえは剣を止めないからだ」

「止めないと、だめなの?」

「だめだ」

「ふうん」

 首を傾げながら、鼻を鳴らす。

 幾つもの三つ編みが揺れる。

「ふうん。ふうん。ふうん――んんん?」

 身体を揺らしているうちに、別のスイッチが入ってしまったらしい。きゃは、と笑いながら、くるくると踊り始めた。風と戯れる子猫のように、無邪気な貌を天に向けている。

 たぶん、ヴォルドルーンの言葉を半分も理解していないだろう。殺すということがどういうことなのかも理解していないように見える。ヴォルドルーンが止めなければ、自分が衛士を殺したことも――

 子供よりも幼い。

「まだ常識がなくてね」

 少年の視線に気づいたらしく、ヴォルドルーンが言った。

 口許に苦笑を浮かべている。困りもののペットに手を焼く飼い主のようだった。

「ごめんなさい」

 少年は謝罪した。

 ヴォルドルーンの眼が少年に動いた。

「ここは貴族の居住区で、階層民が来てはならないんだ。ぼくは、あなたが困るだろうと、もしかしたら捕えられるかも――と思いながら、ここに案内した」

「殺されるかも――とは思わなんだか?」

 ヴォルドルーンの言葉に、少年は、びくん、と身をすくめた。

 衛士は誰何すらしなかった。ヴォルドルーンでなければ、殺されていただろう。

「貴族ならそれはないと思った。思っていた。他国の貴族でも、それなりに扱われるから」

「おれを貴族と思ったのか」

「腕輪……」

 ぽつり、と少年は言った。

「そんなのつけてるから」

「ああ」

 ヴォルドルーンは右腕を軽く上げた。黄金の輝きが陽光を反射する。

「そうだな。だが。これには意味がある」

「意味?」

「これがあるから、おれは生きていられる」

「――?」

 何を言っているかわからない。

 ヴォルドルーンが唇の端で笑う。

「ひとつ訊こうか」

「な、なに?」

「おれが捕えられた場合、おまえはどうなった? どうなると思った? この足では逃げられんぞ」

「殺された、だろうね。でも――」

「でも?」

「空が見たかった」

 生まれてからずっと、かけらのような空しか見たことが無い。

 一度でいい。壮大な、全天に広がる空が見たかった。


 たとえ、殺されたとしても――


「捨て鉢な考えだな」

 ふん、と鼻を鳴らして、ヴォルドルーンが言う。

 憮然とした響きは、命を大事にしろ、とでも言いたいのかもしれない。

 少年は小さく笑った。

「もうしない。死ぬの、やっぱ怖いや」

 ぼくは――と続ける。

「あそこで笑うなんてことできないよ」

「あそこ?」

「殺すつもりで矢を射ったな――と笑って言っていたでしょう? 普通の心臓だったら、あそこで笑えないよ」

 ヴォルドルーンの口許に愉快そうな笑みが浮いた。

「言うなあ。おまえもなかなかの心臓だと思うぞ」

「へへ――」

 少年はもう一度笑った。


 おい。

 こっちだ。


 がしゃがしゃと、甲冑の触れ合う音が響く。

 逃げた衛士が仲間を引き連れて戻ってくるのが見えた。ざっと見て二十人は下らない。

「どうするの?」

「どうしたものかな」

 笑いながらヴォルドルーンが言う。武器を持った衛士の小隊に貌色ひとつ変えない。武器は先ほど奪った剣ひとつ。おそらく、素手でも平然としているだろう。

 不敵な笑みを浮かべている。

 その頬が、ぴく、と動いた。

 首を巡らした。空に眼を向ける。

「なに?」

 少年も視線を追って空に眼を向けたが、どこまでも広がる空に不穏なものは見当たらない。細い筋のような雲が、刷毛で掃いたかのように涼しげな筋模様を描いている。

 それだけだ。

「チャナ。これは来るな」

 ヴォルドルーンの言葉に、少年はチャナに視線を向けた。

 いつの間にか、チャナは踊るのを止めていた。

 無邪気な貌を天に向け、さらに愉しそうな笑みを浮かべている。

「来るよ。来るよ。来るよ――」

「逃げろっ」

 びりびりと響く声に、衛士達が足を止めた。怪訝そうな貌。表情が見える距離だ。

 ヴォルドルーンが剣を持った右手を天に伸ばした。人差し指で天を指す。

「来るぞ。――空震だ」



 空が震えた。

 前触れはそれだけだった。

 ごっ、という音は、幻聴だろう。何も聴こえない。だが、聴こえたような気がした。

 なぜなら、空に穴が開いたからだ。

 巨大な、深淵のような穴だ。暗く、不気味な穴が、ぼかり、と口を開けた。

 そんなものが、音も無く開くということに、感覚の方がついていけない。

 だから、耳は、地鳴りのような音を聴いた。


 ご、ご、ご、ご、ご――


 巨大な穴の周囲で、雲が渦を巻き始める。

 ひょおお、と風が鳴った。これは幻聴ではない。凄まじい風が生じていた。

 ヴォルドルーンの髪が激しく揺れる。

 額に浮かぶ白い傷も顕わになる。

 次の瞬間、突風が襲った。

 一瞬、ふわり、と感じた浮遊感が、錨を呑み込んだかのように消える。

 ヴォルドルーンの右手が剣の柄を握っていた。剣の部分は、その八割方が石畳の中に埋もれている。正確に言うなら、石畳と石畳の間に、だ。無論のこと、剣を差し込むような隙間は存在しない。その有りもしない隙間に、ヴォルドルーンが剣を突き刺していた。剣を握ったまま天に振り上げていた腕を、風を感じると同時に振り下ろした。それだけで、剣が入ったのだ。

 普通なら、弾かれる。剣が欠ける。下手をすれば折れる。

 こんな、最初から、剣の柄を生やしたような、オブジェのような形にはならない。

「すごい――」

 感嘆の声を少年は洩らした。

 その横を、甲冑を着た衛士の貌が通り過ぎていく。

 限界まで見開かれた眼は、恐怖と絶望の色に染まっている。

「無理だ」

 ヴォルドルーンが低い声で言う。横貌は変わらなかったが。


 ああ。たすけたいのだろうな。――少年にはわかった。


 問答無用で矢を射かけてくるような相手でも、この若者は理を説いて手を引かせようとしていた。手加減をしない、あるいはできないであろうチャナに、最後までやらせようとしなかった。

 最初からどうなってもいいと思うなら、『空震』が来る――と警告したりしない。

 可能なら、たすけたいに違いない。

 でも。

 二、三度跳ねた衛士の身体が宙に浮き、振り回す腕も虚しく、空に舞い上がっていく。

 その身体が凄まじい勢いで穴に向かう。

 深淵のような闇に――

 ずぶり、と闇に消える。

 それきりだ。

 その衛士だけではない。縦横無尽の風に翻弄され、身体を固定できなかった者達の身体が宙に浮く。浮いてしまったら、それで終わりだ。凄まじい風と共に穴に向かう。

 これは、ひとの力でどうにかできるものではない。

「吸い込み――」

 少年は闇を見つめた。


 おおおお――


 地獄のような穴に向かって、ねじれた竜巻が幾本も生じている。竜巻の先端は闇の中だ。

 穴が空気を吸い込んでいるのだ。

 宙に浮いた人間など、ひとたまりもない。

 木の葉のように風に煽られ、穴に向かう。

 きらびやかな衣装が見えた。建造物の上層部は貴族達のエリアだ。屋上で寛いでいた者も少なくなかったはずだ。建造物の屋上は、上層部の住人にとっての地上と同じだ。膨大な量の水が引かれ、川や池まで造られている。池の周りには花が咲き乱れ、木々まで植えられている。

 それだけの重量を支えるには、巨大な土台と武骨な石柱が必要であり、それらが最下層から街としての機能と光に満ちた空を奪っているのだが。

 上層部には、だから、憎悪さえ感じているのだが。

 ざまあみろ、なんて言えない――

 貌を伏せると、チャナと視線が合った。ヴォルドルーンの足にしがみついている。

 無邪気な貌は、この状況でも愉しそうだった。

 八本も九本もある三つ編みが、風の中で、ぱたぱたと動いている。

「ヴォル――」

「ああ。もう保たない」

 何が、と問う間も無かった。

 ごきり、という音が響いた。

 がらがらと何かが崩れる音と共に身体が傾いていく。

 ヴォルドルーンの足の下で、石畳が崩れた。

 強烈な風に建造物が耐えられなかったのだ。支柱が折れ、壁が崩れた。斜めになった建物は脆い。石の壁と床がばらばらに崩れ、地上に落ちるより先に空に吸い上げられていく。

 ヴォルドルーンの身体が宙に浮いた。

 剣はすでに握っていない。崩れた石畳は、もはやアンカーの役には立たない。

「チャナ。来い」

 ヴォルドルーンがチャナに右手を伸ばした。

 その手を握り、するり、とチャナが身を移す。ヴォルドルーンの足から胸に。

 愉しそうな貌は変わらない。

「あの向こうに何があるか――」

 ヴォルドルーンの口許にも笑みが浮く。

 矢を射られても浮かべていた不敵な笑みだ。

 その背後に闇が迫る。

「だが。どうやら時間切れだ」

 ふ、と闇が消えた。

 現れた時と同じように、音も無く開いた穴は、音も無く消えていた。



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