ルエルラメム 5(呪詛)
【警告】食事中は御遠慮ください
闇の中に、咽び泣くような声が響いている。
幾つも、幾つも。地の底から湧き上がってくるような声が、どろりと重い雲に反響し、いつまでも響いて止まない。
男は身体に纏うローブを持ち上げ、鼻を覆った。
腐った血の匂いが周囲に満ちていた。
足の下で、ぐちゃり、と腐肉が潰れ、男は足を引いた。
その瞬間、潰れた腐肉が、ごお、と吠えた。
無数の呪詛の声が、ごお、ごお、と空間を揺らす。
男は周囲に首を巡らした。
眼を背けたくなるような死体が立ち上がっていた。
黄ばんだ骨から肉がずり落ち、湿った音をたてて地面に落ちる。
死体の数はひとつではなかった。百や二百はいるだろう。いずれも立ち上がり、ごお、ごお、と吠えている。その口から、無数の蟲が湧いて出てくる。ぱんぱんに腹を膨らませた白い幼虫が死体の肉を這いずり、すでに蛹と化した塊がぽろぽろとこぼれて落ちる。
「ぐっ――」
男は思わずえずき声を洩らした。
誰ぞ。
女の声が響いた。
男は眼を向けた。
場の中央に女がいた。
細かく縮れた黒髪が、蜘蛛の糸のように風に揺れている。
ザクロのような眼が、男を見下ろしている。
その眼は血のように紅い。
見下ろしているのは、女がいるところだけ土が盛り上がっているからだ。
透けるような薄絹に包まれた豊満な胸。引き締まった腹部。
女体として完璧なプロポーションだが、腰から下が見えなかった。
盛り上がった土の中に埋まっているのだ。
シルエットだけ見ると、巨大な腹を持った女王アリのようである。
《殿堂――と言ってわかるか。死者を操る死の女王よ》
デーヴァじゃ。
肉厚の唇に、女は悠然とした笑みを浮かべた。
その名に、男は肩を動かした。
《最古の地母神と同じ名だが、よもや本人ではあるまいな》
女――デーヴァは答えない。紅い両眼を光らせ、笑みを浮かべているだけだ。
その貌を見上げた死者達が、どろりと濁った眼に恍惚の色を浮かべる。
先ほどまで呪詛の声をあげていたはずが。
神を見るような眼だった。
まさか。この女は本当に――
男は胡乱な眼を女に向ける。
ふ、と女が笑う。
さても聖魔殿堂の導師が妾の隷地に何の用ぞ。
《『隷地』――? 死者までも隷従するという意味か。神を騙る妖女よ。世界の変容は許さぬぞ》
騙る? ぬしらの神仙とやらこそ神を騙っておると思うがの。
胸を揺らして、デーヴァが笑う。男の眼に怒気が浮かぶのを見て、さらに笑う。
許さぬと言うたな。どう許さぬ?
《この不浄の地ごと滅却してくれる》
その瞬間、爆発が生じた。
数十の火柱が生じ、一瞬で辺りを火の海に変えた。死者が炎に呑まれ、デーヴァもまた炎に包まれる。術を放った男の身体もまた炎の中に消えて行った。
遠く離れた地で炎を見つめながら、男は鼻を覆っていたローブを下ろした。
ローブの裾が揺れ、腐臭が立ち昇る。
その匂いに、男は貌を顰めた。
炎の中に消えて行ったのは、男の影であった。
誰ぞ――と言われた時には、すでに影であったのだが、あの場の匂いは今もまだ身体にまとわりついているような気がした。鼻の奥から口の中まで腐臭を感じる。
べっ、と男は地面に唾を吐いた。
「この国全土を浄化せねばな」
「わしの国をどうする気ぢゃ」
どこか浮かれたような声に、男は背後を振り返った。
首を傾け、頭を肩につけた男が立っていた。
首が、ぱくり、と裂けている。
ぷん、と饐えた匂いが鼻を突く。
その状態で、土気色の貌に妙に明るい笑みを浮かべている。
中年のようだが、若輩者の印象が拭えない。しかし言葉づかいは尊大だった。
辺境にしてはやけにきらびやかな服に、領主の紋章が縫い付けられている。
中央から派遣された領主のことは男も知っていた。
その惰弱な気質のことも。
「臆病者の領主は死者になっても隠れ潜んでいたというわけか」
炎から逃れたことを嘲笑し、男は片手を前に突き出した。
「妖女は死んだぞ。貴様も冥府に赴くがいい」
男の手の前で空気が凝縮する。
誰が死んだと?
女の含み笑いを聴いた瞬間、男の身体は闇と化した。
実体を遠ざけ、あらゆる攻撃を無効にする。
――そうか。実体は別か。
――然り。貴様の攻撃は効かぬということだ。
ズァインに見せた術である。
実体を捉えられない限り、男の身は安全だ。そのはずだが。
たった今声をかけられたではないか。
どこへ逃げても逃げられないような追われるような感覚が男を捉えて離さない。
「よもやこれほどの相手とは……」
――目的は別にあるのでな。
辺境に生じた空間の乱れ――その調査と原因の排除が男の使命であった。
死者が生き返っている状況には驚いたが、術者ごと始末すれば済むことだと思った。
だが。
対峙してわかった。あの女の妖気は人間のそれではない。
まさか本物の神とまでは思わないが。
あの爆発で始末できなかったのだ。
一人では手に余る。殿堂に連絡して、何人か回してもらわねば。
ズァインのことも報告して……
そこまで思考して、男は舌を鳴らした。
あれを見つけたのは偶然だった。まだ報告はしていない。自分の手柄にするつもりであったからだ。初撃で始末できなかったが、『封印』の守護を手放している以上、さほど労せずに始末できるはずである。こちらを片づけてから始末するつもりであったのだが。
どちらも完遂できなかったことが、無性に苛立たしかった。
そのせいか。足がもつれる。
男は視線を地面に落とした。
そこに、女がいた。
地面が氷のように透けて見えた。
その地面の中で、女が笑っている。
豊満な胸。くびれた腰。完璧な女体。
反射的に逃げようとしたが、身体が動かなかった。
足首に、樹の根が絡みついていた。地面から生えた根が、蔓のように伸びていた。
足だけではない。腰にも、腕にも、するすると首にまで絡みついてくる。
女の身体が地面から起き上がってくるのを、男は成す術も無く見つめた。
「なぜ……実体の場所がわかった」
戦慄を覚えながら、男は口を開いた。
「腐肉を踏んだであろう。その足で地を踏んでいる限り、妾から逃れることができない」
両眼を紅く光らせて、女が笑う。
男は足に眼を向けた。爪先に腐汁がついている。
「のう。のう。そやつもわしの臣下になるのぢゃな」
男の背後から、領主の声が近づいてくる。男にしては甲高い声が耳障りだ。
男は首を巡らした。根が絡みついているため、半分も動かない。身体を捩じって、視線を背後に向けた。
領主の死体が立っている。
その周囲にいるのは民衆の死体か。腐敗が進み、人相も定かではない。ただ纏っている服装から身分だけが分かる。平民。衛士。貴族。生前は領主を馬鹿にしていたと聞くが、今や唯々諾々と従っているようだ。領主の声に喜色が混ざるのはそれゆえか。
「おまえも仲間になるとよい。聖魔殿堂の導師が臣下に加われば、この領主にも箔がつくというものぞ」
慈母のように眼を細めて、女が笑う。
「誰が貴様の思い通りになど。殺したければ殺すがいい。だが、死後のわしを操れるとは思わんことだ」
「契約はすでに完了している」
「なに?」
「自ら唾を吐いたであろう」
「――」
口中の不快感に耐えかねて、思わず地面に唾を吐いた。
あれが……
「供物は受け取った。妾の祝福を受けるがよい」
「『地母神』デーヴァ――」
男は呪うように叫んだ。
開いた口に、樹の根が入り込んだ。
喉を下り、胃の中まで降りてくる。腹の中でぐるぐると蠢く。
次の瞬間、腹が破れた。胃液と血液に塗れた樹の根が男の腹から飛び出してくる。
口を塞がれた男は悲鳴をあげることもできない。
湯気を上げる贓物が地面に叩きつけられ、男の意識は途絶えた。




