ルエルラメム 4(術式)
「チャナ。来い――」
ヴォルドルーンの声に、チャナがぴくりと反応した。
床を蹴って、ふわり、と飛びついてくる。
肩に乗った時には、少女の姿ではなかった。鳥のように細く伸びた首。全身を覆う白い体毛。頭部には幾つもの小さな角が生え、貌の半分以上を占める眼が水晶玉のような透明な光を放つ。
脱ぎ捨てた服が、血溜まりのような果汁の上に落ちる。
その瞬間、部屋が爆発した。
いや。生じたのは、爆発光だけだった。
ヴォルドルーンの右腕で黄金の腕輪が光を放ち、爆発光ともども光を失う。
爆発のエネルギーは腕輪に封じられ、部屋の空気は塵ひとつ動かない。
《――えたのか》
驚愕の声が響いた。
ヴォルドルーンは視線だけを窓に向けた。
いつの間にか、闇が濃くなっていた。
まだ空には光が残っている。それなのに、ヴォルドルーンの部屋の外にだけ、染みのような闇がわだかまっている。輪郭ははっきりしないが、人の形に見えなくもない。
視線を窓に向けたまま、ヴォルドルーンはベッドまでの距離を測った。ベッドの上には、寝る前に置いた剣がそのままそこにある。
手の届く距離ではない。
あっさりと諦めた。
闇を見据える。
「導師か」
《そうだ》
肉声ではなかった。脳に響く『声』に、否応も無く『あの男』を連想する。
「今のは何のつもりだ」
低い声で、ヴォルドルーンは続けた。
《何の――とは?》
「建物ごと吹き飛ばすつもりだったのか」
腕輪が爆発を封じなければ、そうなっていただろう。中にいた人間ごと吹き飛んだはずだ。
《殿堂は人の命を考慮しない》
「なに?」
《世界よ。静謐であれ。――世界を乱すものは何であれ排除する。騒乱を引き起こすのが人であるなら、人を滅ぼしても構わない》
「本気で言っているのか」
《それが神仙の意志であり、我らの行動原理でもある。空間異常の原因が赤子と知って、殿堂を裏切ったナム・ヤーマとは違う》
「――」
ヴォルドルーンは口を開きかけ、また閉じた。
神仙と話しているような気がした。
人を人とも思わぬ『あの男』と――
神にも等しい存在。意識するしないに関わらず、身近にいる者達への影響力は絶対的と言っても過言ではないだろう。導師の多くが神仙の亜流になったとしても不思議ではない。
思えば、ナム・ヤーマは別格だったのかもしれない。人を喰ったような物言いは、神仙を相手にしても変わらなかった。
《こちらからもひとつ訊こう》
闇が言う。ヴォルドルーンは少しだけ顎を上げた。
《ナム・ヤーマの術式を書き換えたな》
――術式を書き換えたのか。
爆発を封じた直後、驚きとともに響いた言葉がこれだった。
闇が続ける。
《その『封印』は内側に対してズァインを封じ、外側に対しては被術者に危害をもたらす物理的現象を封じている。被術者に危険が迫れば、自動的に起動して被術者を護る術具だ。そこに意思は存在しない。貴様の身体に到達する爆風や熱を封じても、爆発そのものを封じるものではない。だが、実際には封じられた。つまり、爆発の前に、『封印』が起動したということだ》
闇の奥から、覗き込むような気配。
《信じられないことだが、自らの意思で『封印』が起動するように書き換えたな》
「だとしたら?」
《愚かな》
「――! 」
背後から果実の種が飛来する。床に散らばっていた数百の種。それらが弾かれたようにヴォルドルーンを襲ってきた。小指の先ほどの種だとしても、硬い種皮は石の礫と変わらない。当たれば、肉を貫き、骨まで穿つ。
ヴォルドルーンは左手を床に叩きつけた。
壁のように噴き上がった果汁が、種を呑み込み、ざあ、と滝のように落ちる。
ひとつが滝を突き破った。見開いた眼に迫る。
ヴォルドルーンの手首で黄金の腕輪が光を放ち、種がぎりぎりで静止した。
《間に合わなんだな》
嘲笑の響き。ヴォルドルーンは闇に眼を向けた。
眼の下に鋭利な刃物が走ったような感触。ぬらり、と頬が濡れていく。
腕輪が種を防ぐ前に、その障壁をすり抜けた一粒が存在したのだ。
《起動が遅れれば、『封印』は貴様を護らない。愚か――と言うたのは、だからよ》
ヴォルドルーンは肩をすくめた。
「愚かかどうかは自分で決める」
《ほう。ならばこれをどうする》
果汁の中から無数の種が宙に浮き、ヴォルドルーンを襲った。同時に再び生じた爆発光が部屋を包む。光は瞬時に消え、腕輪の光もまた消失する。ヴォルドルーンが先に爆発を封じると計算しての同時攻撃か。次の起動まで種を防ぐことは叶わない。種がヴォルドルーンの肉体を貫こうとする。
その刹那、ヴォルドルーンの手には剣があった。
直前までは手にしていなかったはずの剣。
爆発を封じながら、ヴォルドルーンは右腕を伸ばしていた。その先にはベッドに置かれたままの剣。届く距離ではない。ヴォルドルーンの手は。しかし腕に乗ったチャナの前肢は別だ。細長い四本の指。長く伸びた爪。その爪が鞘に巻かれた紐を引っ掛ける。
引き寄せられた鞘を左手で掴み、ヴォルドルーンは唇の端を上げた。
旋風が生じた。
剣を抜きざま、ヴォルドルーンは身体を回転させた。
剣風が種を弾き飛ばす。
右足で回転を制動。回転エネルギーが腰に溜まる。すでに鞘は捨てている。両手で柄を握り、軸足に体重を移すや、ヴォルドルーンは窓に対して突きを放った。
剣先は窓にも届かない。だが、剣圧は窓の外の闇を貫いた。
ヴォルドルーンは無言で闇を見据えた。
闇に穴が生じ、背後の景色が見える。だが、闇にダメージがあるようには見えなかった。もとより致命傷は与えていない。輪郭の定かでない闇の、それでも頭部と身体の中心と思しき位置は避けたからだが、それ以前に手応えそのものが無かった。
ヴォルドルーンは剣を下ろした。
「そうか。実体は別か」
《然り。貴様の攻撃は効かぬということだ》
闇の言葉に、軽く鼻を鳴らす。
「そちらも手詰まりだと思うが?」
腕輪と剣がある限り、ヴォルドルーンの防御を崩すことはできない。
《今はな。だが――》
床を鳴らす音が響き、ドアが開いた。
「おい。小僧。今、部屋が光って――なんだ。てめえ」
入って来たのは、ラカンだった。一瞬で緊迫の空気を読んだらしい。ヴォルドルーンの背後で、闇に向かって叫んだ。闘士としての勘か。並みの闘士ではない。人ならざる闇を『人』――それも『敵』だと認識したのだ。
闇の意識がラカンに向いた。探るような気配が生じる。
ヴォルドルーンは闇とラカンの間に身を移した。
「おい――」
ラカンが怒りの声を洩らす。
ヴォルドルーンは振り向かなかった。
窓の外がざわついている。人が集まっているようだ。ラカンが見た爆発光は、当然他の者達も見ただろう。
人が集まったということは、それだけ巻き添えになる人間が増えたことを意味する。
「続けるか?」
ヴォルドルーンは剣先を闇に向けた。
ちりちりと――
抜き身の剣が耳鳴りのような音をたてる。
《いや。今回はこれまでとしよう。目的は別にあるのでな》
「別――?」
《貴様には関係の無い話だ。それよりも自分の心配をするのだな》
捨て台詞のように闇が言う。
《今後は貴様の意思の及ばぬ時と場所を狙う。おちおちと寝てもいられなくなるぞ。『封印』の守護を手放すということはそういうことだ。ナム・ヤーマの術式に手をつけたことを後悔するがいい》
霧のように闇が薄れていく。
ヴォルドルーンは片手を上げた。後を追おうとしたチャナが動きを止める。
闇が完全に消え、窓の外に何の変哲も無い夕闇が広がる。
チャナが鳥のように首を曲げ、ヴォルドルーンの頬を舐め始めた。
「後悔? 自分だけが護られて、誰がよしとする」
指の先でチャナの喉を撫でながら、ヴォルドルーンは胸の裡で呟いた。
ヴォルドルーンの危機に機械的に反応する『封印』では、近くにいる者は『封印』が弾き返す物理攻撃をまともに浴びることになる。
子供の頃、ナム・ヤーマと別れたヴォルドルーンは、ほどなくその危険性に気がついた。しかし、すでにナム・ヤーマの居場所は何処とも知れず、独力で何とかするしかなかった。今なら術具を用いて術者の位置を探ることも可能だが、当時はそんな方法があることすら知らなかった。
別れて数年、ナム・ヤーマの術式を読み解くことに費やした。
『封印』の起動式を見つけた時は、思わず、これか――と叫んでいた。
同時に、喉を鳴らしてヴォルドルーンは笑った。
見つけてみれば、書き換えを前提にしたような術式だったからだ。
おそらく、ナム・ヤーマは最初から承知の上だっただろう。
ヴォルドルーンが術式を書き換えようとすることを――
おかげで術式の何たるかを理解することができた。
そこまで含めて、ナム・ヤーマの掌の上だったかもしれない。
子供のように笑いながら聖魔殿堂を手玉に取っていた。養い子の考えることくらい、お見通しだったに違いない。
ただ、何層にも及ぶ複雑な術式は、今もって全容を理解し切れてはいない。特にズァインを封じている部分と、『封印』を解除する部分については、わざと難解にしてあるとしか思えなかった。
絶対遊んでいるだろう――稚気たっぷりの貌が眼に浮かぶ。
今のところ解ったことと言えば、『封印』の解除はナム・ヤーマでなければ無理だろうということくらいである。
「おい。小僧。何だ。今のは」
ラカンが言う。怒気を孕んだ声だった。
ヴォルドルーンはラカンに身体を向けた。
「すまない。おれの事情にあんたを巻き込んだ」
「そんなことはどうでもいい。おれが怒ってんのはな、おめえがおれを庇おうとしたことだ」
闇の意識がラカンに動いた瞬間、ヴォルドルーンは闇とラカンの間に入った。
ラカンはそのことを言っていた。
「おれを女子供のように扱いやがって。いいか。小僧。相手がおれを認識し、おれも相手を捉えた。その時点で、あれはおれの獲物になったんだ。今度、横から入ろうとしたら、ただじゃおかねえぞ」
歯を剥き出して、ラカンが言う。
相手は導師なのだが、それを言ったところで、それがどうした――と言うだろう。
闇と化して現れる相手が、ただの人間であるはずがない。
ラカンにもそれはわかっている。
その上でなお、おれの獲物だ――と言っているのだ。
「悪かった。あんたを侮辱するつもりはなかった」
「おう。わかればいい。次はおれが前に出るからな」
子供のように相好を崩す。嬉々とした貌は、強敵の存在を喜んでいるようだ。
ヴォルドルーンは苦笑し、床に落とした鞘を拾った。
剣を収めながら、口を開く。
「ここを出よう」
周りの人間のことを考えると、このまま宿屋にいるわけにはいかなかった。
「ふむ。まあ、しゃあないな。宿代は払ってあるが、半金くらいは返してもらうとしよう」
ラカンが同意する。
「いや。たぶん、宿代は戻らない」
ばたばたと床を鳴らす音。
「ちょっと、お客さん。何をこぼしているんですかっ」
宿屋の亭主が怒鳴り込んできた。チャナが潰した果実の汁が、下の階に到達したらしい。
手にした燭台を掲げ、ひっ、と息を呑む。
チャナの白い毛が、炎の明かりを反射したからだ。
「獣? な、なにを連れ込んで――」
チャナが、にこり、と笑うように小首を傾げたが、
「で、出て行けっ」
悲鳴とも怒声ともつかぬ声で叫び、亭主はドアの外を指差した。




