最下層の少年 2(紅都)
どこまでも広がる空は、眩しくて涙が出そうだった。
視界を塞ぐ建造物はどこにも無い。
ただそれだけのことなのに。
気持ちが広がっていくのを感じる。
これが、爽快という気分なのかもしれない。
初めて知った。
同時に胸の奥が痛くなるのは、これが、この景色が、自分のものではない、と知っているからだ。
もう見ることはないかもしれない……
胸の痛みをこらえながら、少年は思考する。
「きゃは――」
愉しそうな声に眼を向けた。
チャナが空を見上げ、両腕を鳥のように広げていた。
背筋を伸ばし、胸を反らしている。さほど大きな胸ではないが、少女の胸が形よく膨らんでいることがわかる。腰はきゅっとくびれている。お尻は小さく、足は長い。小柄だが、プロポーションがいい。
立っているのは建物の縁であった。足を踏み外せば、墜落死だ。
それを理解していないのか。風が吹く度に、愉しそうに笑う。
少年はヴォルドルーンに眼を向けた。止めなくていいのか、と訊こうとしたからだが、こちらはこちらで、平然とした横貌だった。
黄金の髪を風に揺らしながら、涼しげな表情を浮かべている。
口許の笑みは変わらない。
「どうした」
ヴォルドルーンが口を開いた。
落ち着いた声である。平然とした笑みを浮かべたまま、少年に視線を向けてくる。
「あの、その、あの子――」
「ああ」
ほとんど言葉にならなかったが、言いたいことを汲み取ってくれたらしい。口許の笑みが深いものになった。
「チャナなら大丈夫だ」
「ヴォ――ル」
チャナがヴォルドルーンに飛びついてくる。
ヴォルドルーンは右腕でチャナを受け止めた。
左腕で少年を抱いているので、自由になるのは右腕だけだ。その右腕で、軽々とチャナを抱き上げて肩に乗せる。体幹はぴくりとも揺るがない。
相当に鍛え抜かれている。
何者だろうか――最初に感じた疑念を思い出した。
戦士か剣闘士のような身体である。上半身の服を少年の包帯に代えてしまったため、発達した筋肉が見てとれる。肩から胸、脇腹から腰、腹にかけての筋肉まで、その名称ひとつひとつが言えるほどだ。とは言え、格闘士や強力士のような重量級ではない。服を着ていた時は、むしろスリムに見えたくらいだ。肩幅は広いが、腹部は絞り込まれている。
これ見よがしの筋肉ではなく、しなやかな獣のような、実戦向きの身体だった。
もしかしたら、王族や貴族とかではないかもしれない。そんな連中が造り上げられるような身体ではない。
視線を感じて眼を上げた。
チャナと眼が合った。ヴォルドルーンの右肩に、猫のように坐っている。
その眼が悪戯っぽく輝いている。
水晶玉のような眼は、何もかも見透かされそうだった。
だが少女は何も言わず、中央の建造物を指差した。
「ね。あれ、なに?」
それは、真紅の建造物であった。
優美にして美しい。明らかに造りが他の建造物とは違っている。
どの建物よりも高く、また他のどの建物とも繋がっていない。
複雑な街を構成する数多の建造物は、入り組みながら、入り乱れた無数の回廊と繋がり合い、最下層を歩こうと、建造物の中を歩こうと、迷路に迷い込むような造りであったが、その建造物は完全に独立していた。
それだけで別格だということがわかる。
見るのは初めてだったが、それが何であるかを少年は知っていた。
「王の居城だよ」
チャナの疑問に答えた。
紅い石を多用して造られた豪奢な王城は、完成までに大量の血が流されたと聞く。
流されたのは使役させられた国民の血だ。
赤はこの国の象徴色だが、血を連想する者は少なくない。
「ルエルラメム――『輝ける紅玉』の王、ゾハル・レグヌム・ルム・ラメムの城だよ」
「ゾハルって?」
「『光輝』という意味だ」
意味を答えたのはヴォルドルーンだった。
鮮やかな黄金の髪が太陽の光を反射し、彼にこそ『光輝』の名は相応しいかもしれないが、ヴォルドルーン――『黄金の光』も相応しさで負けてはいない。
親は――と少年は思う。
生まれたばかりの彼を見た親は、光のようだ、と思ったに違いない。
「この国は――闇だよ」
ヴォルドルーンに抱かれたまま、少年は呟いた。
ヴォルドルーンの眼が少年に動いた。
「自由が無いんだ」
闇に閉ざされているようなものである。
「ここは王都で、ぼく達は王都民であるわけだけど――」
実体は家畜と変わらない気がする。
生活は保証されている。ぎりぎりな量ではあるが、食糧は配給される。
しかしその行動は著しく制限されている。
住民は階層で分けられ、住む場所も決められている。住む高さと言った方がいいかもしれない。建造物のほとんどが、最低でも五階層の建物だ。下から、最下層、下層、中層、上層――と呼ばれる。
その呼称が、そのまま住民の階層であり、居住階層だった。
階層ごとに差がつけられ、上層民の生活は下層民より優遇されている。
でも。
「街の外に出ることを許されていない」
その点において、扱いに違いは無かった。
上層民は下層民を蔑み、下層民は上層民を妬みもするが、所詮は同じ階層民に過ぎないということだろう。士族のように武器を持つことは許されず、貴族のように金品を扱うことも認められてはいない。
この時、少年の中にひとつの疑問が生じた。
王から見れば、貴族も階層民も同じなのではないだろうか。
階層民かれ見れば、貴族は雲上人だ。上層民よりもさらに上の階に居住し、行動も自由が認められている。だが。
王城に住むことを認められているわけではない。
それは、最下層では決して至らなかった認識だ。
「出たいと思うか?」
ヴォルドルーンが言った。
「え?」
「その気になれば、おまえひとりくらいを外に連れ出すことは可能だろう」
「どうして?」
「この骨折が、暴行を受けた痕だということは見ればわかる。子供を暴行するような場所が、まともだとは思わない」
「……」
ヴォルドルーンの胸に、護られるように抱えられている足を見つめた。
「今は、いい」
「今は?」
「もっと大きくなって、かあさんを護れるようになったら、その時考える」
出るなら、家族みんなで、だ。
「母親がいるのか」
「父さんと――」
「――と?」
「怒ってばかりいるねえさんもいるよ」
「怒る?」
「かあさんに心配かけるなって――」
「なるほど。いい姉さんだな」
ヴォルドルーンが眼の端で笑う。
骨折の手当をしながら、泣くような子供には見えない、と言ってくれた時の眼だ。
――だからあんたは馬鹿だって……
姉の声が聴こえた。少年とよく似た貌の前で、人差し指を立てている。
「馬鹿だよ。――ごめん。下りよう」
少年は言った。ヴォルドルーンの眉が軽く動いた。
「ここにぼくの家は無い。来ちゃいけない場所なんだ。ここは――」
ひゅうん、と風が鳴った。
それ以前にヴォルドルーンの立ち位置が変わったのに少年は気がついた。
ヴォルドルーンの貌の前を、赤い矢が疾り抜けた。
それは、少年の貌の前でもあり、ヴォルドルーンの肩に坐ったチャナの腹の前でもある。
「きゃ、は――」
チャナが白い喉を天に向けて笑った。
水晶玉のような眼が、愉しそうな光を放っている。
「矢を射ったよ。敵だよね。ヴォル――」
嬉しそうな声に、ヴォルドルーンが苦笑を浮かべる。
「ほどほどにしておけよ」
言い終える前に、チャナの姿が消えていた。
いや、衛士の前に移動していた。二の矢を継げる間もなく、衛士の身体が横にふっ飛んでいく。すらりと伸びた白い脚が、小気味よく回転していた。服の丈は短い。お尻を隠すくらいの長さしかない。
次の瞬間、チャナの身体が縦に回転した。
手も使わず、足が天に跳ね上がる。
ふっ飛んでいった衛士の隣で、別の衛士の顎が天を向いた。跳ね上がったチャナの足が、衛士の顎を砕くと同時に天の方向に向けさせたのだ。
急所(喉仏)が顕わになる。
運動エネルギーをバック宙に変えたチャナが、着地と同時に右手を伸ばした。
「そこまでだ」
ヴォルドルーンが口を開き、ぴたり、とチャナの動きが止まった。
揃えた四本の指は、喉仏の前で止まっている。
「敵――だよ?」
どうして止めるの、と言いたげだ。
「判断するのはおれだ。おまえは、まだ、だめだ」
低い声に、チャナが指を引いた。
バックステップするように身を引いて、ヴォルドルーンの横に戻った。
「き、きさま――」
唖然としていた残りの衛士――三人が剣を抜いた。
距離を詰めてこないのは、チャナの体術を警戒したからだろう。
華奢な身体なのに、野生の獣のような動きであった。
身長はヴォルドルーンの胸のあたりまで。身幅にいたっては、甲冑を着込んだ衛士らの半分も無い。それでいて大の男をふっ飛ばした。
並みの運動神経ではない。
ヴォルドルーンが好きにさせるわけだが、とは言え、衛士がこれで引くはずはなかった。
むぅ、と衛士らの身体に気が満ちた。
剣を握る手が白い。
気合が迸る直前、す、とヴォルドルーンが右手を前に出した。
掌を相手に向けた、いわゆる「待て」の所作だ。
普通なら、それで止まるものではない。不用意な動きは逆に攻撃の契機になりかねないのだが、衛士らは、ぴりっ、と肩を動かしただけで、動くのを止めた。
ヴォルドルーンの口許に、平然とした笑みが浮いている。
不敵な笑みであった。
「殺す気で矢を射ったな」
笑みを浮かべたまま、さらりと言う。
「だが、こちらも怪我を負わせた。このままお互い様で手を引かぬか」
お互い様――対等な立場以上でなければ言えない言葉だ。
「きさま……貴族か?」
衛士のひとりが口を開いた。
「いや」
「ならば、問答無用で斬り捨てられても文句の言えない立場だ」
「つまり?」
「お互い様にはならない」
「なるほど」
ヴォルドルーンは唇の端を上げた。
身体の前に出していた右手を引いた。
誘われるように衛士らの身体が動いた。
彼らは考えるべきであった。なぜ最初に動きを止めたのか、を。
彼らは誤解したのだ。貴族かもしれない、と思ったから自分達は動きを止めたのだ、と。止めたのは、自分達の意思であったのだ、と。
そうではない。
彼らは止めさせられたのだ。
ヴォルドルーンの右手ひとつに。
気がつけば、三人の内のふたりが戦闘不能になっていた。ひとりは腕を折られ、ひとりは悶絶していた。最後のひとりはその首の横で、ひたり、と剣の刃が止まっていた。
肉眼では追い切れない動きだった。
ヴォルドルーンに抱かれ、ほぼ同じ視点でいた少年だからこそ、見えたのかもしれない。
斬りかかってきた衛士のひとりに右腕を絡め、一瞬で折ると同時に、剣を奪っていた。逆手に握った剣の柄。その柄頭でふたり目のこめかみを殴り、流れるように三人目の首を薙ぐ。いや、薙ぐ直前で、剣を止めた。
「あ……」
三人目が、喘ぐような声を洩らした。
悲鳴をあげることもできない。
力量差が有り過ぎた。
なぜヴォルドルーンの右手ひとつで動きを止めたのか、止めさせられたのか、今さらながらに悟っただろうが、もはや遅いとしか言いようがない。
「お互い様――としようか」
平然とした笑みを浮かべ、ヴォルドルーンが言う。
先ほどと同じ提案だが、これに否と言えやしないだろう。剣は衛士の首に触れている。
「あ、……ああ」
衛士が頷く。
ヴォルドルーンは、に、と笑って、剣を引いた。




