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ルエルラメム 3(噂話)

 

 血の匂いがした。

 いや。それが血の匂いだと認識していたわけではない。

 鼻の奥を刺激する匂いだった。眼に染みるせいか、見開いたままの眼から涙が溢れてくる。

 耳は粘ついた音を聴いていた。

 視界を遮る岩壁と岩の天井が生肉のように蠢き、互いに擦れ合っていた。その音だった。

 岩肌を這う樹の根のような筋が、蛇が鎌首をもたげるように岩から遊離して、ゆらゆらと揺れる。ふいにそれらが鞭のように伸び、そこにいる人間達に絡みついた。

 骨の砕ける音。悲鳴。ずぶずぶと泥と化した地面に生きたまま引きずり込んでいく。

 肉の潰れる音が響いた。


 ぐちゅり――



 眼が覚めた。

 木の壁と木の天井が視界に入った。

 ぐちゅぐちゅと、肉の潰れるような音が響いている。

 床にぺたりと坐るチャナの背中が眼に入った。

「何をしている」

 声をかけると、チャナが貌を向けてきた。

 幾つもの三つ編みが揺れる。愉しそうな貌だった。

 その貌が、赤く濡れている。血飛沫のように見えたが、匂いが違った。

 部屋中に甘い匂いが充満している。

 チャナの手と床の間で、大量の果実が潰れていた。

 血溜まりのような果汁の中に、無数の種が転がっている。

「ヴォ――ル」

 手も足も服もぐっしょりと濡らし、きゃは――と子供のように笑う。

「まいったな。これは」

 ベッドから身体を起こし、ヴォルドルーンは首を巡らした。

 壁にも調度品にも果汁が飛んでいる。床に流れた果汁は階下まで垂れているだろう。いずれ宿屋の亭主が怒鳴り込んでくるに違いない。

 ヴォルドルーンは右手で前髪を掻き上げた。

 指先に額の古傷が触れる。

 少し頭が重かった。それほど深く眠ったつもりはなかったが、この状況に気づかなかったのだから、思いのほか熟睡していたのかもしれない。

 夢を見ていたような気もするが、意識を向けようとすると、闇の中に消えていった。

「だめなことだった?」

 チャナの声に眼を向けた。愉しそうだった貌が、しゅん、となっていた。

 ヴォルドルーンは額から手を放し、少しだけ微笑んだ。

「そうだな。後で謝りに行こう」

「あやまる?」

「悪いことをしたら、ごめんなさい――をするものだ」

「ごめん、なさい?」

 猫のように首を傾げて言う。意味はわかっていないだろう。

 ヴォルドルーンは苦笑しながらベッドから腰を上げ、チャナの近くで片膝をついた。膝が濡れるが、どのみちどこも濡らさずに歩けるような状態ではない。

「それにしても、随分と潰したものだな」

 転がっている果実のひとつを指でつまみ上げた。

 小さな赤い実は、山の麓で見かけたものだった。

 道すがらチャナが幾つか採っていたが、ここにあるのはその程度の量ではない。ヴォルドルーンが寝ている間、何度となく採りに行ったと思われる。人の足であれば二日はかかるような距離も、チャナがその気になれば数刻とかからない。ドアを開け閉めして出て行けば、さすがに気がついただろうが――

 開いたままの窓に眼をやって、出入りはここからか、と苦笑する。

「あのね。美味しくなるんだよ」

 チャナが無邪気な貌で言った。

「美味しく?」

「潰して、筒に入れておくと、美味しくなるぞ、って――」

「なるほど。ラカンの入れ知恵か」

 酒の造り方をチャナに教えたようだ。まさか宿屋の床でチャナが酒造りを始めるとは思わなかっただろう。

 そのラカンの姿だが、今は無い。

「ラカンはまだ戻らないか」

「うん」

 ヴォルドルーンは窓の外に眼を向けた。夕闇が訪れようとしている。

 ラカンは、情報を集める――と出て行った。その『情報』とやらに強い興味を抱いたが、行先の見当がついたので、ヴォルドルーンはチャナと宿屋で待つことにした。

(あそこで『ズァイン』が出てくるとはな)

 山中での一件を思い浮かべる。 

 混ざり合い、なお生きている狼の姿にズァインを連想しなかったわけではない。

 だが、ラカンの口から聞かされるとは思わなかった。


 ――秘術を繰り返してるという連中がいるらしい。

 ――秘術?

 ――『ズァイン』の増殖。

 ――……

 ――と。怖い貌をするな。あくまでも噂話だ。そんなものが成功していれば、世界はとっくに混沌の坩堝だ。だがよ。

 身体をゆすってラカンは続けた。

 ――得体の知れねえ化け物を大量に生み出していると聞くぜ。


 くちゅり、とヴォルドルーンの指の間で果実が潰れた。

 果肉の潰れる粘ついた音に、ヴォルドルーンは微かに眼を細くした。

 ぴく、とチャナが貌を上げた。

「ヴォル?」

「何でもない」

 一瞬、夢の残滓が脳裏をよぎったが、形になる前に霧散した。



「怖い話?」

 髪を掻き上げて女が言う。ぷくりと膨らんだ胸に汗をかいている。

「ああ。何か知らねえか」

 ラカンはベッドで仰臥していた。頭の後ろで手を組んでいる。

「そうねえ。あんた、隣国から来たって言っていたわね。山を抜けて来たって、ほんと? 噂じゃ、あの山には化け物がいるって話だったけど」

「らしいな。うまいこと遭わなかったんじゃねえかな」

 あっさりととぼけ、ラカンは女の貌を見上げた。

「他にねえか」

「他にねえ。怖い話ってのとは違うかもしんないけど。戦になるかもしれないわね」

「戦――?」

 ラカンは頭から腕を下ろした。

「隣国で暴動が起こったのよ。最初は闘技会で観客が暴れた。それが街中に広がった。街は破壊され、誰も彼もが殺し合い、その狂気は国中に飛び火した。――知らなかった? じゃあ、あんたが山に入った後ってことだわね。でも、話はすでにこの街まで伝わってるわ。馬なら、山を迂回しても、徒歩より速いしね。鳥を飛ばした人もいたんでしょうね。貴族や商人の中には、この街から逃げ出そうとしてる人達もいるわ」

「逃げる? この国と戦になるってえのか」

「どうかしらねえ」

「仲が悪かったのか」

「国同士? まさか。仲は良い方だったわよ。『狂気』――って言ったでしょ。これまでの関係は一切おかまいなし。民衆も衛士も貴族も領主も、狂ったように殺せ――と叫んでいるそうよ。その狂気の矛先がどこに向かうのか予想がつかなくて。だから、戦になるかもしれないし――」

「ならねえかもしれないってわけか」

「そう。正直わからないってところね。今のところ、逃げずに残っている方が多いわよぉ。あたしらも、こうして客を受け入れてるしね」

「ふむ」

「でも、なあに? 怖い話を知りたいって。何かあるの?」

 ベッドから下りながら、女が言う。

「いや。まあ。化け物の話とかに興味があってな。ここに化け物がいるとか、化け物を生み出しているとか――そんな噂があれば、聞きたいと思ってな」

「生むってねえ。そんな赤子のように化け物が生まれたら困るじゃない。ああ。でも、噂っていうか、女が消えるとまことしやかに囁かれることがそれっぽいかしらね」

 椅子に掛けてあった薄い布を腰に巻く。たっぷりとした腰付きだった。

「それっぽい?」

 ラカンは身体を起こし、床に足をつけた。

「――気をつけろ。化け物の子を生ませるために攫っていったぞ」

「――」

「そんなわけないじゃないねえ」

 椅子に坐って足を組みながら女が笑う。

「大方、奴隷商人が攫って行ったとか、貴族が慰みものにするために連れて行ったとか、そんなところでしょうけど、――だから、夜道をひとりで歩くな、と戒めるために誰かが言い出して、それが広まったんだと思うわよ」

 噂なんて、そんな風に簡単に生まれてしまうものよ――と女は貌の前で手を振った。

「そいつはなかなかにうがった見方だがよ」

 ラカンは立ち上がって、女に近づいた。

「化け物の子を生ませる――なんて、滅多やたらに出てくるもんじゃねえ。何か元になった出来事があったんじゃねえか」

「さあねえ。あったとしても、10年か20年は昔の話でしょうよ。あたしなんて子供もいいとこ。憶えてないわ」

「いやあ。20年前でも、もう十分大人――」

「なんか言った?」

「あ。いや」

「ふん。まあ、あんたがしばらく通うってんなら、他の女達に話を聞いといてあげるわ」

「そうだな。よろしく頼むわ」

 椅子の肘掛に手をかけて、ラカンは女に貌を近づけた。

「これ以上は追加料金よ」

「ちぇ」

 肩をすくめて、ラカンは貌を離した。女から離れて、服を身に着ける。

「噂が簡単にできるって話だけどさ」

 その姿を見つめながら、女が言う。

 ラカンは女に眼を向けた。

「隣国の領主も衛士も民衆も、もうとっくに死んでるって噂されているわ」

「……」

「狂った死者がさらなる死を望んでいる――ってね。あまりにも突然な隣国の暴走に、何かしらの理由をつけたのね。ねえ。怖い話なんて、簡単に生まれると思わない?」



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