ルエルラメム 2(風花2)
「かくれんぼをしよう」
人形のような少女にジハドは言った。
少女の表情は変わらなかったが、それでも眼が動いた。
初めて聞いた言葉だと言うように。
「誰にも見つからずに上まで行けたら、ぼく達の勝ち。見つかったら負けだから、その時は全力で逃げる。絶対に後ろを見ちゃだめだよ」
「……」
少女は何も言わなかった。
理解したのかどうかはわからない。でも。
「行こうか」
手を差し出すと、ガラス玉を左手で胸に抱え、右手を出してきた。
「ぼくはジハド。君は?」
建物の中に入り、階段を見つける。登りながら少女の名前を訊いた。
「……」
少女は答えない。
ガラス玉のような眼で、足下を見つめている。
(もしかして――喋れないのかな)
少女の手を引きながら、ジハドは思った。
人形のような反応が気になったが、まるで無反応というわけではない。
ガラス玉に手を乗せてきたし、かくれんぼ――という言葉に眼を動かした。
なにより、差し出した手を握ってきた。
ちゃんと意思がある。
「後で教えて欲しいな」
そう言うと、少女が貌を上げた。
ガラス玉のような眼は変わらなかったが、その眼にジハドの貌を映した。
赤銅色の髪と同色に輝く瞳の少年は、屈託なく笑った。
「初めて眼が合ったね」
かくれんぼをしよう――と言ったのは、貴族の少女にとって、どの層の住民も安全ではないからだ。
下の者は上の者を、上の者はさらに上の者を妬み、憎み、隙あらば貶めようとする。
そういった害意を熟成させるような街なのだ。ここは――
憎悪を抽出し、醸成させるような――
迷子の貴族少女なぞ格好の餌食だ。
むろんそのような人間ばかりではない。
「あらあら~。可愛らしい子と――」
女の声がした。ぎくり、と振り返る。
「平民の子ね」
四層。ここまで来ると、住民は富裕層民と下級貴族になる。
豊満な肉体にゆったりとしたドレスを纏った女だった。塔のように結い上げた髪にも、太い指にも宝石をつけている。
「平民がどうしてこの階層にいるのかしら」
「この子を上まで送りたい」
どちらだろう。この女の人は――
「あなたが送り届けてくれるなら、ぼくは下に降りる」
少女を預けても大丈夫か。
「あらあ。降りなくてもいいわよ。一緒にくればいいわ」
笑みを浮かべて女が言う。
その笑みは――
「その子の親がお礼してくれるわよお。娘が最下層民といた事実を隠すために――ねえ」
「逃げて。こっちを見ないで」
欲望に満ちた女の貌。ジハドは少女に向かって叫んだ。
女の背後に控えていた男達が動いた。
ひとりがジハドの腕を掴み、残りが少女の退路を断つように回り込んだ。
少女の表情は変わらない。ガラス玉のような眼を虚ろに開いている。
「離せ」
足を振り上げて男の手を蹴った。
男の手が緩む。頬に衝撃を感じた。手を放すと同時に、男の拳が貌に炸裂したのだ。
床に叩きつけられ、一瞬、息が詰まる。
「殺してもいいわ。死体でも十分脅迫材料になるから」
「どう……して。そんな――」
悪意を持つんだ。
最下層に比べたらずっとずっと裕福なのに――
「そういう街よ。ここは」
笑いながら女が言う。
男が近づいてくる。
その向こう側で、少女は人形のように立っている。
少女の肩に、男達が手をかけようとする。
「その子に――」
さ、わ、る、な。
少女の口が動いた。
ごっ、と風が鳴った。
(え?)
眼の前に空が広がっていた。
建物の中にいたはずなのに。
浮遊感と重力に捉われた落下物としての感覚。
突如、建造物の中に発生した暴風が、ジハドの身体を掴んで、開いたテラスから外に投げ出した――状況は理解したが、なぜそうなったかはわからない。
青い空を見つめながら、落下していく。
ピンク色の髪が、風に広がるのが眼に入った。
花びらが開くように。
「……きれいだ」
少女の左眼が紅い宝石のように光っている。
背中の下で、尾を引く悲鳴と肉の潰れる音が響いた。
途切れる直前まで響いていたのは、喉が破れるほどの女の声と男達の声。
あの場にいた全員が建物の外に放り出されたようだ。
女達はすでに地面に落ち、自分もすぐに同じ運命を辿るわけだが、不思議と恐怖は感じなかった。
少女と見つめ合う。
距離が開いていく。
少女の身体は宙に留まっているのだ。
風が、少女の周囲で渦を巻いている。
「そうか。君の力だったんだね」
最下層の路地裏で風が吹き抜けたのも。
建物の中に暴風が生じたのも――。
地面が近い。
叩きつけられる音は聴こえなかった。
ふわり、とやわらかな風が身体を包んだ。
そっと地面に降ろされ、ジハドは貌を上げた。
シルファ――
少女の口が動いた。
花の名前だった。
それが少女の名前だと気づいた。
――後で教えて欲しい。
その言葉を覚えていてくれたのか。
スカートが風に揺れ、少女の身体が遠ざかっていく。
建物の向こう側に少女の姿が消え、ジハドの身体を包んでいた風も消えた。
花の匂いだけが微かに残っていた。




