ルエルラメム 1(風花)
ルエルラメム
花の香りを感じて、ジハドは貌を上げた。
最下層でも花は咲く。巨大な建造物のせいでほとんど日は当たらないが、それでもわずかばかりの日差しを求め、細い茎を伸ばした花がひっそりと咲いていたりする。
とは言え、珍しいことには違いない。
(かあさんに持って帰ろうかな)
貌を上げると同時に、足下に丸いものが転がってきた。
透明なガラス玉だった。
地面が透けて見える。表面には、白い石の壁と欠片のような空の蒼、自分の貌が映っている。赤に近い髪と赤胴色の眼。少し歪んだ貌の輪郭。
拾い上げると、ずしりと重い。空洞ではない。
これほどに大きなガラス玉を見るのは初めてだった。
(誰のだろう)
転がってきた方向に眼を向けた。
唖然と口を開いたのは、建物の陰から現れたのが、まだ幼い少女だったからだ。
いや。少女に驚いたのではない。その少女の服装に、だ。
見るからに上質の布地だった。その布を何枚も重ねて、スカートを花のように膨らませている。フリルとリボンと高そうな装飾が服を彩っていた。上着は白いファーコート。
平民の恰好ではない。
明らかに上層民だ。
「え。なんで――」
最下層になんか――と言いかけて、ジハドは路地の向こう側に眼を向けた。
人影。複数。
最下層民は二種類の人間に分けられる。家畜のように無気力に生きる人間達と暴力で他人から搾取しようとする連中。
後者の連中だとしたら、上層民の子供に何をするか知れたものではない。
「君。こっち――」
声をかけたが、幼い少女は人形のように反応しない。
駆け寄って手を掴んだ。潰れてしまいそうな小さな手に心臓が跳ねたが、少女の手を引いて路地の影に身を潜めた。
聴こえてくるのは、最下層への不満――それを声高に言い合う男達の声だった。
家畜は喋らない。
(やばっ)
後者だ。
まずいことに身を潜めた路地は行き止まりになっている。
「ちっ。面白くねえ。こんな時に限って誰もいねえ」
「女もいなけりゃ年寄りもいない」
「上に行って、ひとり攫ってくるか?」
「下まで探しには来ねえもんなあ」
男達の笑い声。最悪な連中だ。まともな倫理観を持っているとは思えない。
この子は逃がさないと。
人形のような少女の人形のような手を握る。
「なんか、いい匂いしねえか」
「あ? そういやあ――」
男達の眼が路地の影を覗き込んでくる。
眼が合う――と思った瞬間、ごっ、と空気が鳴った。
あ?――と言いかけた男達の貌が、視界から掻き消える。
(何が?)
起きたのか。
そっと路地から貌を出し、ジハドは息を呑んだ。
折れ曲がった棒切れのように重なる男達の肉体。
その肉体を嬲るように風が渦を巻いている。
瞬間的な突風が襲ったのだ、と理解したが、無数の建造物が複雑に入り組んだ最下層において、風が吹き抜ける――という事象は皆無とは言わないまでも滅多に生じるものではない。
それがこんなタイミングで?
少女の手が、左手に持ったガラス玉の上に乗せられている。
そのことに気がついて、ジハドは少女に眼を向けた。
「これ。君の?」
「……」
少女は答えなかったが、肯定の気配を感じた。
渡しても表情を変えない。両手でガラス玉を抱え、虚ろにそれを見つめる。
ガラス玉のような眼だった。空のように蒼い眼だが、左眼だけ血のように紅い。
足首まで届く長い髪はピンク色だった。染めているのかもしれない。
花の匂いを意識した。
少女の髪が、ほのかな香りを放っている。
先ほど感じたのは、この少女の匂いだったようだ。
「君。迷子なの?」
問いかけたが、少女は何も言わない。
「こまったな」
上層民、それも一層や二層どころではない。どう見ても最上層民だ。
どうして最下層にいるのかわからないが、ひとりで帰れと言っても、帰れるとは思えない。
五歳かそこらの幼女だ。
「最上層まで送るしかないか」
貌を上げると、交錯する空中回廊と欠片のような空が眼に入った。




