血闘士 7(妖術)
赤い炎が闇の中に広がっていた。
炎は夜の空まで赤く染め、大量に湧き上がった煙が街の中に垂れ込めている。
悲鳴のような叫び声が幾つも上がり、建物の倒壊する音が、どーん、と響く。
「ひいいいいい」
部屋の中で、男は悲鳴をあげた。
線の細い男だった。すでに中年に達しているが、若輩者の印象が拭えない。
精神年齢が低いのだ。眼の色に落ち着きのなさが如実に現れている。
「わしのせいじゃないぞ。わしのせいじゃない」
両手で耳を塞ぎ、子供のように首を振る。
だだをこねる子供のようだ。
室内に、うんざりとした空気が流れている。
男だけが椅子に坐り、少し離れた位置に数人が立っている。
身なりからして文人であった。さらに離れた入口付近には甲冑姿の衛士が控えている。
立っている者達には椅子は用意されていない。男の方が身分が上だということだ。
それなのに、辟易とした空気は立っている者達から出ている。
さすがに口には出さないが、あんたのせいだ――と考えているのだ。
これが領主か――とも。
忠誠心に欠けるのは、この男が国主ではないからだ。男は宗主国から派遣されてきた貴族であった。言うなれば、お仕着せの領主である。表向きは従っても、心から――とはいかない。
上っ面だけの忠義を、男もまた敏感に感じ取っていたのだろう。
闘技会に桁外れの賞金をかけて近隣諸国に告知したのも、権威を示したかったのかもしれない。
それなら最後まで主催者としての立場を貫けばよかったのだ。
公正な立場で優勝者に賞金を支払えば、それなりに度量を示せたものを。
男は賞金の支払いを惜しんだ。
幾人もの子飼いの闘士を闘技会に参加させ出来レースを仕組んでいたが、優勝したのは流れ者の闘士だった。
勝者を讃えるべき席で、男は闘技会の中止を告げた。
無かったことにしようとしたのだ。
怒号と罵声が飛び交う中、優勝者は逃亡。観客は暴徒と化した。
獣のように吼えながら、闘技場に置かれた賞金に群がろうとした。
男は、止めさせろ――と命じた。
観客と衛士がもみ合い、その中で、衛士が剣を抜いた。
密集に近い状況での抜剣である。
噴き上がった血飛沫が降り落ちる中で、何人かがくずおれた。
悲鳴が上がった。逃げようとする者となお賞金を手にしようと殺到する者達の間で、何人も、あるいは何十人もが倒れ、踏み潰された。
凄まじい血の匂いと潰れた肉の匂い。
ぐちゃり、と響く嫌な音。
その瞬間、何かが崩壊した。
人々の意識か。理性か。あるいは秩序か。
衛士の剣が暴徒の首を刎ね、大量の血を撒き散らした。その衛士に幾人もの暴徒が群がり、甲冑の上から狂ったように殴打する。拳が砕け、骨が剝き出しになっても、鋼の甲冑が歪み、中の衛士が圧死するまで殴り続ける。
誰も彼もが叫び声をあげていた。
なぜか女の哄笑が響いていたが――
気にする者は誰もいなかった。
もはや混乱を収める術は無く。
――殺せ。殺せ。殺せ。
逃げながら叫び続ける領主の命令に応えるように火矢が放たれ、狂乱する暴徒は赤く燃えるマグマのように闘技場から溢れ出た。
強奪と暴力の炎が街を襲った。
「あいつは、あいつは捕まえたのか」
震える声で、男は言った。
闘技場から逃げたこの男は、暴徒の鎮圧を命令すると同時に、闘技会の優勝者を捕えろ――と配下に命じた。
騒乱の責任を、逃亡した優勝者に押しつけようというのだ。
男にしてみれば、辺境に飛ばされた時点で後が無い。騒乱の責任を被せられるわけにはいかなかった。
「わしのせいじゃない。わしの――」
何度目かの繰り言が、不自然に途切れた。
部屋の全員が貌を上げた。
ぞわり、とするような女がそこに立っていた。
蛇のように妖艶な女だった。
ぬめるような白い肌が脳髄を直撃する。
紅い唇。血のように紅い右眼。
血のついた指を舐め、蛇のように眼を細くする。
男の首が不自然に傾いていた。
腕は肘掛けに置かれ、背中は背もたれに預けている。右の頬が、肩の線についていた。首が、完全に右側に傾いているのだ。
喉笛から耳まで、ぱくり、と肉が裂け、びゅう、びゅう、と血が噴き出していた。
「不味い血だこと」
女の貌にも髪にも血が飛んでいる。その血が、次の瞬間には消えている。
「あなた達の血はどうかしら」
ぬらり、と濡れた眼が文人達に向けられる。
「ぎぃっ」
叫んだのは、文人達ではなかった。
入口にいた衛士が剣を抜いていた。叫びながら距離を詰め、斬りつけた――相手は女ではなかった。
「な、何を……」
肩から胸までを斬られた文人が、仰向けに倒れていく。がたん、と床を鳴らし、倒れた身体の上に、自らが噴き上げた血がびたびたと雨のように落ちる。
「な……」
別の文人が声を上げる。獣のように反応した衛士が、さらに剣を振った。
血飛沫を尾のように引きながら、文人の首が飛ぶ。
ひとつ。ふたつ。一方的な虐殺である。
「あらあら」
愉悦に満ちた眼で、女は笑った。首の転がる血溜まりに足を踏み入れる。
素足だった。
白い足が血に濡れる。
ず、と何かを吸い上げるような音が響いた。
床に流れていた大量の血が消えていた。
「美味しくないわ。やっぱり――」
ぞわり、とするような眼を衛士に向ける。
「男は血を熱くしてくれるようでなければね」
衛士の手から剣が落ちた。捨てたのだ。
甲冑も脱ぎ捨てた。腰布だけの姿になる。
荒い息を吐きながら、女を見つめる。主人からの褒美を待つ従者のように。
「ふ――」
紅い唇に笑みを浮かべながら、女が近づく。
女の唇が衛士の唇に重なった。舌を吸い合う音。
「ぐっ」
くぐもった声が衛士の口から洩れた。
衛士の口からどろりとした血が溢れ、女の唇を濡らした。
女の喉が鳴った。衛士の血を呑んでいるのだ。唇から垂れた血が、女の喉に血の筋を引いていく。紅い唇は端が吊り上り、ぞっとするような笑みを浮かべている。
衛士の身体が震えた。しかし、動かない。いや、動けない。眼だけが下に動いた。
裸の上半身。剝き出しの胸に、女の右手が埋まっていた。
手首まで肉の中に入り込んでいる。
ぐちゃり、と心臓が潰れた。
握られた残骸が、ずるずると引き抜かれていく。
「ぐ、ふっ」
呻きながら、衛士が膝をついた。
女の貌を見上げる。問うような視線だった。
女は血に濡れた手を蛇のように舌を出して舐めた。
「そうね。幾らかはマシだと言ってあげるわ」
衛士の貌に喜悦の色が浮かび、そのまま蹲るように床に貌をつけた。
穴の開いた胸から、血が水のように床に広がる。絶命したのだ。
ふ、ふ、ふ――
女が喉を震わせて笑い出した。
紅い右眼が、血のような光を放つ。
天を仰いだ。
「ズァインのぼうや。あなたの血はどんな味かしら」
すでに衛士の死体には眼もくれない。
愉しそうな含み笑いが哄笑に変わる。
聴く者の心を狂わすようなその声は、闘技場で響いていたそれであったが、それを指摘できる者はもうこの部屋には存在しなかった。
闘技場には闇が訪れていた。
暴徒の姿は無い。全員が街に向かった。残るのは――
潰れた死体と斬られた死体。
夥しい死体がそこにあった。
血の匂いが渦を巻いている。まだ腐臭には至っていない。
石で造られた観客席がぐるりと闘技場を囲み、空気の流れが滞っている。そのせいで、いつまでも血の匂いが消えない。
闘技場の中心に、ゆらり、と女の姿が現れた。
両眼真紅の女――デーヴァであった。
豊満な胸。大きく張り出した腰。引き締まった腹部。
完璧な女体。
ザクロのような眼を周囲に巡らし、ふむ、と鼻を鳴らした。
「考えて煽っていたなら大したものだが」
円型の闘技場に、狂気と恐怖の匂いが染みついている。
闘技場で暴徒があそこまで狂い、衛士があそこまで簡単に殺傷に走ったのは、ラージャの哄笑に人間達の意識が煽られたからだ。
「あの快楽主義者にそこまでの思慮があったかどうか。いずれにしろ――」
肉厚の唇が、きゅうっと吊り上がった。
「妖術の発動条件としては申し分ない」
ずぶり、とデーヴァの下半身が沈んだ。
ルエルラメムの妖霊デーヴァの名において――
両手を地面につけて言う。
その瞬間、闘技場の地面は泥と化した。浸み込んだ大量の血が、泡のように噴き上がっては、破裂する。凄まじいまでの血臭の中で、死体が泥の中に呑み込まれていく。
デーヴァの両眼が血光を放った。
これよりこの地は我が『隷地』なり――




