血闘士 6(群狼)
女の貌が闇に浮かんでいた。
眼の下のラインが、ザクロのようなカーブを描いている。
両眼真紅の女――デーヴァだった。
細かく縮れた髪は闇のように黒い。
女王のように傲然と腕を組んでいるが、直立しているのは樹の先端である。
指よりも細い枝は小鳥が止まってもしなりそうだが、女の足の下で、枝はわずかばかりも撓んではいない。
ドレープの多いドレスが、冷たい風に揺れている。
ザクロのような眼は、地上を見下ろしていた。
闇の中に針のような樹々が生えている。そのほとんどが闇の中に溶けているが、先端の枝葉だけが月の光に浮かび上がっている。白い月とタールのような闇。銀色に光る樹々の枝。白と黒だけで描かれた一幅の絵画のようである。
中腹あたりに、ぽつん、と金色の光があった。炎の明かりだが、距離が有り過ぎるせいか、揺らめきまでは見えない。
「失敗したな」
肉厚の唇が動いた。独り言のような物言いだったが、
「失敗とはどういう意味かしら?」
妖艶な声が応じた。
水のように流れる髪が、別の枝で揺れた。蛇のような白い肌がぬめるような光を放つ。
ぞくり、とくるような美貌は、右眼だけが紅い。
ラージャだった。
「あのぼうやを虜にするのを失敗したな――という意味だ」
ちら、と眼を向けて、デーヴァが言う。
ラージャは血のように紅い唇で笑った。
「失敗してないわ」
「ほう?」
「糸は繋げた。後は『封印』を破るだけ」
ちろり、と唇を舐めて、ラージャが言う。唾液に濡れた唇が笑みを浮かべる。
「破れるのか」
「さあ――」
眼を細めて笑う。妖艶な美貌は、どこまでも愉しそうであった。
「おまえは王と似ているな」
「あらそう? どこがかしら」
「快楽を追い求めるところがだ」
「似て非なるものよ」
「ほう。どう違う?」
「あの方は状況を愉しむタイプよ。退屈を厭い、平穏を嘲笑い、動乱に興じる。あのズァインのぼうやもそのための道具にすぎない。あたしはもっと即物的――」
紅い右眼が、とろり、と濡れたような光を放った。
「あのぼうやで愉しむわ」
かさり、と葉を踏む音がした。
ラカンの手が斧に伸びた。
樹々の間にシルエットが浮かぶ。滑らかな曲線は女のそれだった。
「夢の女か」
斧を握って、ラカンが腰を浮かす。
かさり、かさり――と音が近づき、女の姿が炎の明かりに照らされた。
乱れた衣服が眼に入った。藪にひっかけて破れたのか。剝き出しになった手足にも無数の擦り傷がある。髪は乱れ、くしゃくしゃになっていた。
「ラ、カ、ン」
掠れた声で、女が言った。
ラージャではなかった。
「おめえ――」
ぐらり、と揺らいだ女の身体を、立ち上がったラカンが支えた。
腰を落とし、女を坐らせる。そのままくずおれてしまいそうな女の上半身を腕で抱く。
女の息は荒かった。ふっくらとした頬が小刻みに震えている。
顔色が悪い。
ヴォルドルーンの膝の上で、ぴくん、とチャナの角が動いた。
首を伸ばし、女に眼を向けた。見知らぬ女を不思議そうに見つめる。
ヴォルドルーンも無言でラカンと女を見つめた。
「何があった」
ラカンが女に言った。
「あんた、の、せい」
「……」
「領主、たち、に、勝ち、を、譲れば、よかった、のに。あんな、闘技会、あんた、には、遊び、同然、だった、はず」
途切れ途切れに女が言う。
「人、が、死んだ、わ。領主、たち、が、殺した――」
呪いのように女が言葉を吐き出す。
「闘技場、で、何人も――殺した」
ぶるっ、と女の身体が震えた。
嫌なことを思い出した――と言うように。
「あいつら、は、あんた、を、捜して、いる。あたし、に、知らないか、って。おまえ、の、客、だった、ろうって――」
知らない、って、言ったわ――血を吐くような声で、女が言う。
「でも、あんた、は、この山、に、いると、思った。あたし、が、教えた、から。誰も、入らない、って。こわいもの、が、いるって――」
女の手が、ブラックタイガーの毛皮を掴んだ。
「あいつら、あいつら――」
掴んだ指がぶるぶると震える。指に血の気が無かった。
「たすけて――くれるって、言った、のよ。案内、すれ、ば――」
ヴォルドルーンの肩にチャナが乗った。
樹々の間に、衛士達が立っていた。
甲冑が月の光を浴びている。
頭頂部と肩だけが白く浮かび上がり、後は闇に沈んでいる。
「たすけて、くれるって――」
がしゃり、がしゃり、と甲冑の衛士達が近づいてくる。
身体の前面が、炎の明かりに照らし出された。
甲冑が赤々と輝く。
濡れているように見える。
がしゃん、と音をたて、甲冑が崩れた。がらがらと兜が転がる。中身が無かった。甲冑だけだった。腕も足も、胴の部分も空だった。
甲冑が赤く染まっていた。
べっとりと血に濡れているのだ。
「言った、のに。こわいもの、が、いる、って――」
女の身体が、がたがたと震えている。
樹々の奥に黒い影があった。巨大な影である。輪郭がはっきりしない。
ちりちりと月の光が音をたてている。影に触れ、怯えたように光が散る。その音だった。
こぉぉぉぉぉ――と影が啼いた。
獣の声だった。
おう、
おう、――と幾つもの声が続く。
影の背中で、無数の口がかちかちと牙を鳴らした。
ぎょろり、と黄色い眼が動いた。
ひとつふたつではない。幾つもの黄色い眼が影の中で光る。
ず、と影が動いた。べきべきと枝の折れる音。巨大な影が樹を倒しながら近づいてくる。
ずるり、と現れた。
無数の口。無数の眼。無数の貌。狼の貌だった。その全てが、ひとつの塊りになっていた。口のあたりで。頬のあたりで。頭のあたりで。ぐちゃぐちゃと繋がり合っている。口ばかりがかたまっている部分、眼だけがぎらついている部分、どこを見てもまともな貌がひとつも無い。無数の口が、こふう、こふう、と息を吐く。
血腥い息だった。軟体動物のような舌が伸び、血に濡れた牙を舐めては縮む。
「喰わない、って――」
女の眼が見開いた。濁った眼から、ぷつり、ぷつり、と血色の珠が湧いてくる。
「言った、の、に――」
どろり、と血がこぼれた。眼からも、口からも、血が溢れてくる。
「すまん」
女を抱いて、ラカンが言った。
その向こう側で、影が口を開けた。
大量の涎が飛び――その全てが、宙で静止した。
無数の眼が理解不能の色を浮かべる。
その全ての眼に、ヴォルドルーンの姿が映っていた。
影とラカンの間に立ち塞がり、黄金の腕輪を光らせている。
その光が影の動きを止めたのだ、と影が理解したかどうか。
身体の脇に垂らした右手を、ヴォルドルーンは少しだけ身体から離した。
「小僧。おれにやらせろ」
鋼のような声。
ヴォルドルーンはラカンに眼を向けた。
ラカンの身体が、ひとまわりもふたまわりもでかくなっていた。
全身の筋肉が、音をたてんばかりに盛り上がっている。
女を地面に横たえ、ラカンが立ち上がる。
ヴォルドルーンは無言で下がった。腕輪の光が消える。
硬直していた影が動いた。
があ、と吠えた。吐き出した涎が、びちびちと地面に当たって砕け散る。
ぶん、とラカンが腕を振った。ブレイドは天を向いている。地面すれすれから天に向かって振り上げられた戦斧が、影の肉に垂直の線を引いた。本能がブレイドを避けようとしたのだろう。無数の口が、右と左に分かれて逃げようとした。その動きが、裂け目を広げる。
夥しい血が噴き上がった。
「女はよ――」
振り上げた腕を、斜めに振り下ろして、ラカンが言った。
削がれた口と眼が、地面に叩きつけられて血肉を散らす。
「騙しちゃいけねえんだ」
水平に薙いだ斧が軌道上の牙を切断した。
幾つもの眼が斬り裂かれ、幾つもの口が悲鳴をあげる。
逃げようと動いた方向で、別の口が悲鳴をあげた。
ヴォルドルーンがそこにいた。チャナを肩に乗せ、金色の眼を光らせている。
ぎひぃぃぃぃ――
耳障りな悲鳴が響いた。
どん、と音をたて、ラカンが影に乗った。アックスブレイドは影の肉に喰い込んでいる。
「約束したなら守りやがれ。くそったれ――」
叫びながら、ラカンが腕を引いた。
斧が抜けると同時に大量の血が噴き出して、ラカンの胸を濡らした。
構わずにラカンが斧を振り下ろす。
斬撃の音と地面に叩きつけられる血肉の音が何度も響いた。
拳大以上の肉塊が存在しなくなったところで、ようやくラカンの動きが止まった。
全身が血に塗れている。野獣のような巨体が、血色の彫像と化していた。
『血闘士』の名に相応しい姿であったが、途方に暮れた子供のような貌だった。
「冬の祭りだったんだ」
ぽつん、と言った。
「辺境にしては、馬鹿みてえに高額な賞金でよ――」
大量の酒と大量の食事。連日連夜のうかれ騒ぎ――
冬の蓄えにも手をつけて――
「破綻は目に見えていた。それでも領主らが勝てばよかったんだろうが――」
勝っちまった――肩をすくめて、ラカンが言う。
「やべえ匂いを感じて逃げたんだが、まさか――」
殺傷沙汰になっていたとはなあ――女の傍らにラカンは跪いた。
「あげくに女まで巻き込みやがって」
ラカンが女の身体を抱き上げた。
「やわらけえ身体だったのになあ」
女の腕が、からん、と落ちた。
骨だけだった。脂の残る骨に獣の歯型が残る。
「痛かったろうなあ」
――喰わないって。
――言ったのに。
別の獲物を教えれば、とでも言われたのか。
だが、ここに現れた時にはすでに喰い殺されていたのだ。
チャナが不思議そうに女を見たのは死体だったからだ。
ラカンも気づいていただろう。
――約束したなら守りやがれ。くそったれ。
だからあれほどに怒り、
――すまん。
女に謝っていたのだ。
「おれと知り合わなければ死ななかったろうに――」
女を抱いて、ラカンが言った。
「すまなんだなあ」
ラカンの腕の中で、女の貌は白い骨だけになっていた。




