最下層の少年 1(邂逅)
最下層の少年
「はあ――」
少年は、誰からも見捨てられたような路地裏で息を吐いた。
複雑な街路の一角だった。
この街に、道のための道は存在しない。
巨大な石の建造物が幾つも繋がり合って街を構築している。建造物と建造物の間、あるいは建造物の中の通路が道の代わりだった。
見通しは悪く、袋小路は数限りなく存在した。陽はあたらず、白かったはずの石畳は、薄黒い黴に覆われている。
湿っぽい、腐ったような匂いが鼻をつく。
最下層――と呼ばれる街だった。
どんよりとした倦怠感が街の空気を支配している。
配給品はあるが、充分な量があるとは言えない。誰もが飢えて、疲れている。
無気力だ、と言ってもいい。
そうでないのは、暴力で配給品を奪っていく輩だ。
「つぅ――」
右足の脛が、じぃん、と痺れている。
さっきまで気づかなかったが、肌の色が青黒く変色していた。
骨をやられたかもしれない。
路地裏で、老人から配給品を奪う男を見た。思わず足をひっかけてやったが、激怒した男に全身を殴られた。腹と頭は庇ったが、最後に足を蹴られた。
配給品を奪われた老人はすでにどこにもいない。
――だからあんたは馬鹿だっていうのよ。
姉の言いそうな言葉が頭の奥で響いた。勝気そうな眼も脳裏に浮かんだ。
この足を見れば、きっと怒るに違いない。そして、次にこう言うのだ。
――かあさんが心配するじゃないの。
それを言われると何も言えなくなる。
母はあまり怒るタイプではなく、その分を姉が怒っているわけだが、子供達が怪我をしたりすると、哀しんでしまう人であった。元は上層民であったらしく、なぜ最下層民になったのかを口にすることはなかったが、そのせいか、最下層では特殊な倫理観を持っていた。
曰く、自分より弱い者から奪ってはいけない――だ。
奪うことはいけない、とは言わなかった。だが、弱い者を狙うな、というのは、実質、奪うな、と言われているに等しかった。まだ七歳の少年に、強い相手から何かを奪ってくるような力は無い。
もっとも、この言葉は、少年よりも父に向けられたものだ。
大人である父がその気になれば、誰かから配給品を奪ってくることは可能だろう。
だが。
――弱い人間から奪わないでください。
母は言った。
どれほど生活が苦しくても、そう言い続けられる母の信念が、少年には誇りであった。
姉もそうだろう。
父も――
家族でさえ、ひとかけらのパンを前にして争い合うことも稀ではないという最下層において、『誇り』を口にできるのは、偏に母のおかげであると言っても過言ではない。
その母を哀しませたくなかったが……
少年は足に手を伸ばし、びくり、と手を戻した。
火のように熱かったからだ。見れば、左足に比べて、異様に腫れている。
「う……あ……」
骨折は初めてだった。痛みよりも、恐怖が湧き上がる。
ぺたり、と尻をついた。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「落ち着け」
声がかけられた。
ひやり、と冷たい手が、少年の足に触れた。
いつの間にか、少年の傍らに男が跪いていた。
「だ、誰――?」
咄嗟に足を蹴った奴の仲間だと思った。
「ヴォルドルーン――」
男が名乗った。
「『黄金の光』――?」
大仰な名前に絶句しかけたが、見れば、これ以上に相応しい名前は無かった。
鮮やかな黄金の髪。眼の色も金色だった。
黄金の髪はフレアのような輝きを放ち、金色の眼は光を嵌めこんだかのようである。
よく陽に焼けた肌は生気に満ち溢れ、これもまた小麦色に輝いている。
一瞬、路地裏に光が射したかと錯覚したほどだ。
十八歳くらいだろうか。
男と言うより、若者と言った方がいいかもしれない。
精悍な貌に、不敵な笑みを浮かべている。
若者にしては、剛胆な笑みだ。
何があっても動じないような、そんな空気を身に纏っている。
何者だろうか――と思ったが、少なくとも、弱い者をいたぶって悦ぶような輩には見えなかった。
敵ではなさそうだ。ほっ、と息を吐く。
少年の身体から力が抜けたのに気づいたのだろう。
若者が、に、と笑った。
その瞬間、激痛が少年の足に走った。
「ぎ――」
「大丈夫だ。ずれを戻した」 (←作者注 作中行為です。真似しないでください)
若者が言った。左手で少年の膝を押さえ、右手で少年の足首を握っている。
「ず、ずれ――?」
悲鳴を呑み込んで、少年は訊いた。激痛はすでに消えている。疼くような痛みは消えていないが、我慢できないほどではない。
若者の眼の奥に、ほう――、と感心したような光が生じた。
「骨が折れて、ずれていた。そのままにしておくと、神経と血管が圧迫されて壊死する。場合によっては足を斬り落とさなければならない」
「斬り落とす……」
茫然と繰り返すと、若者の眼が少年の貌に向けられた。
「泣くようには見えなかったからだが。きつかったか?」
「あ。ううん。大丈夫だけど」
若者が眼の端で笑う。
「ヴォル――これでいい?」
若者の背後から声が聴こえた。
女の声だったが、無邪気な響きは、まだ若い、少女のそれだった。
若者――ヴォルドルーンの背後から、少女が貌を覗かせた。
十五、六歳の少女だった。大きな眼が少年を見つめる。
水晶玉のように澄んでいるが、どこか愉しそうな光を放っている。悪戯好きの子猫のような眼だ。
「もう。放っておけばいいのに――」
ぷう、と子供のように頬を膨らませながら、少女が言う。
ヴォルドルーンは苦笑を浮かべた。
「そう言うな。チャナ」
チャナ――と呼んだ少女から、ヴォルドルーンは数本の棒を受け取った。
上等だ、と言いながら、二本を選んで少年の足に添える。
どうやら、通りすがりに少年を見かけ、その時点で少年の足が折れている、と判断したらしい。少年に声をかける前に、少女に添え木を捜させていたようだ。
少女がこれでいい? と訊いていたのは、この棒でいいか、という意味だったのだろう。
少年の前で、ヴォルドルーンは上半身の服を脱いだ。歯を使って服を裂き、細長い布に変えると、少年の足から膝上まで、棒ごと少年の足を固定していく。
その様を、チャナ、と呼ばれた少女が興味深そうに見ている。
小さな舌で唇を舐めているのを見ると、餌を前にした子猫のようだ。
白い肌に白い髪だった。
色素が薄いのかもしれないが、不思議な髪の色だった。白いのに、どうかすると、エメラルドのような光沢を放つ。長さは、たぶん、肩くらいまでだろう。たぶん、と言うのは、髪の毛を八つか九つかの束に分け、その全てを三つ編みにしているからだ。
分け方は無造作で、それぞれが好き勝手な方向に向いているので、あちこちに向いて生えた角のように見える。
髪をおろせば、可愛いだろうに――そう思ったが、口にしなかった。
眼が合った瞬間、少女――チャナが盛大なあかんべーをしてきたからだ。
思えば、放っておけばいい、と言っていなかったか。
「チャナ――」
ヴォルドルーンが口を開いた。
背後を見なくても、少女が何をしたのか悟ったのだろう。嗜めるような口調だった。
ぷい、とチャナがそっぽを向く。
叱られて、拗ねた子猫のようだ。
どういう関係だろう。そう思う。
「腫れが引くまで動かすなよ」
それきりチャナには何も言わず、ヴォルドルーンは少年に対して注意事項を口にした。
「その後は足をついてもいいが、添え木は外すな」
「あんた、医者?」
「真似事だ」
一瞬不安を覚えるが、どのみち最下層では医者は望めない。手当してもらえただけでも、ありがたいと思うべきだろう。
「この国の人間じゃないね?」
「来たばかりだ」
「ふうん」
だからか――と思う。この国の人間なら、最下層民を救おうとはしない。
「家まで送ろう」
少年を抱いて、ヴォルドルーンが立ち上がった。
片腕だけで抱き上げられ、少年の眼線がヴォルドルーンの貌と同じ高さになった。
ヴォルドルーンの額が眼に入った。
前髪の下に、白い筋が見えた。小麦色の肌だが、そこだけやけに白い。
「ああ。――古い傷だ」
少年の視線に気づいたのだろう。少年を抱いていない方の手で前髪を掻き上げて言う。
額を縦に割ったような痕であった。
「ふうん……」
同じように呟きながら、少年はもうその傷を見ていなかった。
ヴォルドルーンの手首を見ていた。
正確には、手首に嵌められた腕輪を――
重そうな黄金の腕輪だった。太い鎖のような紋様が、レリーフになっている。
視線を落とせば、少年を抱き上げているもう片方の手首にも嵌めている。
下層民が持てるようなものではない。貴族か王族、少なくとも富裕層でなければ買えないような装飾品である。
金持ちの道楽か……
女連れで遊び歩くような貴族が、気まぐれでたすけてくれた――そんな構図が浮かんだ。
「家はどこだ?」
ヴォルドルーンが言った。
「家は――」
少年は、乾いた貌で指を上に向けた。
「あの上だよ」
建造物のひとつを指差した。
指の先に、切れ端のような青い空が見える。
両側にそびえる建造物と幾つもの空中回廊によって切り取られた空とも呼べない空。
そのわずかばかりの空に、光が満ちている。
その光は決して最下層まで届かない。
(作者注 現実に骨折の手当をすることがありましたら、患部を固定し、すみやかに病院に連絡してください。折れた骨を不用意に元に戻そうとすると、かえって悪化させます。治療は専門医に任せてください)




