血闘士 1(羅漢)
血闘士
男は、分厚い胸の奥から大きな息を吐き捨てた。
白かった。気温は氷点下である。鼻で息はできない。鼻の奥が凍るのだ。口のまわりの不精ひげにも、氷の粒がごわついている。
それにしては、男の恰好は無謀であった。
獣の皮を肩にかけているが、その下は全裸に近い。腰布と、靴を履いているだけである。普通なら凍死するような恰好だが、これほど凍死とは無縁に見える男もそうはいない。
獣のような男であった。
全身の筋肉が荒縄のように盛り上がっている。
身長はさほど高くはないが、幅と厚みが並みではない。
首が埋まって見えるほどに、僧帽筋が発達している。太い腕は、成人男子の太腿よりもなお太い。
盛り上がった胸に、獣の前肢が垂れている。肩にかけた毛皮には、四肢がついていた。男が自分で剥いだのかもしれない。まだ獣臭が残っている。
黒い獣の皮は、白色の縞が走っている。
四肢の先は白い。肉球のある巨大な手足に、鋭い爪が残っている。首と尾は落とされているが、ブラックタイガーの毛皮であった。寒冷地の山間部において、食物連鎖の頂点に君臨する獣の王者だ。
その王者の毛皮を剥いだ男は、ならば、獣の王よりも強いということか。
張り出した額は、不気味に盛り上がっている。
必殺の頭突きのために、何度となく、硬いものにぶつけたに違いない。
髪は短い。黒い毛を、短く刈り上げている。
鼻は潰れ、御世辞にも整った貌だとは言えない。
夜道で会えば、女は悲鳴をあげるだろう。
よく見れば、どことなく愛嬌があるのだが。
眼は垂れ気味だった。眼光こそ鋭いものの、笑えば、人好きのしそうな貌になりそうだ。
唇は太く、酷薄さや陰湿な印象は無い。
「くそったれ。寒いじゃねえか」
吠えるように放った声は、罵りながらも、どこか明るい。
凍りついた枯草に腰を下ろし、無精ひげに張りついた霜を、ぼりぼりと指で掻いている。
その動きが止まった。
何気なく眼をやった先に大岩があり、その上に人がいたのだ。
す、と男の手が、傍らに伸びた。
草の上に、斧があった。戦斧である。片腕用だ。柄の長さは、腕の長さとほぼ同じ。投擲にもぎりぎり使えるサイズだが、半円形のアックスブレイドは接近斬撃用だ。
柄を握った瞬間、男の右腕に、ぎちり、と力が漲った。
警戒モードをすっ飛ばして、戦闘モードに入ったのは、大岩の存在から気配が感じられなかったからである。
そもそもいつからいたのか。
男がこの草むらに腰を下ろす前からいたのか。
男が腰を下ろしてから、やって来たのか。
どちらにしても、気づかなかったことに、ぞっとする。
『こいつ』がその気になれば、何でもできた、ということを意味するからだ。
男は、左手を地面に置いた。そっと重心をかけ、腰を浮かせる。
草が白い。凍りついた霜が、白々と光を反射している。
天空に月があった。
皓々とした光が、大岩を照らしている。
金色の光が眼に入った。鮮やかな黄金の髪が、月の光を浴び、輝きを放っている。
彫りの深い横貌だった。男の方を見てはいない。
金色の眼が、月を見ている。
若い貌だ。十八、九、といったところか。
長身である。スリムに見えるが、肩幅がある。肩から足首までもある黒いローブのせいで身体つきはわからないが、姿勢を見れば、身体能力はある程度測れる。
並みのレベルではない。
偶々気づかなかったという可能性を男は捨てた。
音も無く、男は息を吐いた。
腕を引く。
その瞬間、
「いい月夜だな」
大岩の上で、若者が口を開いた。
落ち着いた声であった。緊張の色は微塵も無い。不敵な響きさえある。
男は小さく舌打ちをした。
「年寄りみてえな挨拶をするんじゃねえよ」
若者の眼が、男に向いた。
金色の眼に、知己に出会ったかのような笑みが浮く。
「そうかな」
「何が、いい月夜――だ。こんなにはっきり月が見える夜は、かえって糞寒いんだ」
「ああ」
若者の眼が、また月に動いた。
「そうだな」
口許に、悠然とした笑みが浮いている。
男は腐ったように鼻を鳴らした。完全にタイミングを外された。
意図してそうされたのは間違いない。相当に、できる。
何者だ。こいつ――
胡乱な眼で若者の全身を視野に入れる。
ぎくり、と眼を見開いた。
若者の胸のあたりに白い貌があった。少女の貌だ。十五、六歳くらいか。若者の、ローブの合わせ目から貌を出している。
大きな眼は、好奇心の強い猫のようだ。
「出てもいい?」
三つ編みを揺らし、少女が言った。
「寒いぞ」
「平気。平気。平気――」
歌うように言って、若者のローブの中から少女が出てくる。
薄着だった。すらりと伸びた足は生足だった。服の丈が、脚の付け根辺りまでしかない。
だが、男が眼を剥いたのは、その恰好にではない。
少女が若者から離れた瞬間、少女の気配――猫のような気配を感知することができたからだ。
それが何を意味するか。
男は即座に悟った。
少女の気配を、この若者が隠していた――ということだ。
自分の気配だけではなく、懐に入れた他人の気配まで隠す――
ただの人間に、そんな真似ができるわけがない。
「何者だ。てめえ――」
「ヴォルドルーン」
平然と若者が言う。
「誰が名前を訊いたよ。敵か。味方か。――って、何が可笑しい」
若者――ヴォルドルーンは笑みを浮かべていた。
「いや。チャナと同じだと思ってな」
「チャナ?」
それが、ローブの中から現れた少女のことだということはすぐにわかった。
大岩の端で、少女が両手を岩につけた。四足獣のように身体を低くする。
なぜ、そんな姿勢を――と思うが、背中の毛が、ブラックタイガーを前にした時のように、ちりついた。なんだ。この少女は。
男を見つめる眼は、水晶玉のように透明だったが。
主人の敵かどうかを見極めようとする飼い猫のように、その視線は男を捉え、離さない。
飼い主が、敵だ――と言えば、猫のように跳びかかってきそうだ。
「この嬢ちゃんと一緒だってか?」
猫と同じ、と言われた気がしたが、こっちは敵かどうかを見極める前に、問答無用で斬りかかろうとしたのだから、反論できない。
だから。
「そうだな。仲良くしよう」
そう言われて。
「……」
絶句した。
夜の山中で出会った、おそらくはわけありに見えるだろう男に対して、仲良くしよう?
平然と。親しみを込めた笑みさえ浮かべて。
正気か。こいつ――
ひとのことを猫呼ばわりしてくれたが(実際に呼ばれたわけではないが)、こいつの神経こそ、尋常ではないと言いたい。
唖然とはしたが、同時に興味も湧いた。
十八、九――となれば、男より五つほど年下である。
それでいて、この不敵さ――か。
男に気配を悟らせなかったことといい、ただ者ではない、なさすぎる。ならば。
どれほどのものか――
ゆらり、と肉の裡に生じた闘気は、平然とした笑みの前に、さらり、と受け流された。
ちっ、と舌を鳴らす。
普通、こちらが敵意を放てば、反射的に敵意を生じさせるものだが。
この若者には、それが無かった。
まるで、風に揺れる草のようだ。
挑みかかるタイミングが掴めない。
男は眼を細めたが、少しして、息を吐いた。斧から手を離し、腰を下ろした。
若者の、金色の眼が男を見ている。
「仲良くしよう、ってんなら――」
不精髭を指で掻きながら、男は言った。
「なんか食わせてくれ。したら、いい奴だって思ってやる」
――思ってやる。
思い切り上からな言い方に、あるいは怒るかと思ったが、ヴォルドルーンと名乗った若者は、苦笑にも似た笑みを浮かべて、懐から取り出した糧食を投げて寄こした。
チャナと同じだ――と言った時の笑みに似ている。
「ははあ」
干し肉を手にして、男は得心した。
少女――チャナの眼が、肉を見つめている。
男は肉をちぎった。ほれっ、と投げると、チャナが両手で受け取った。
「いい奴だろ。おれは」
片目を瞑る。きゃは――、と少女は笑った。
「いいひと。いいひと。いいひと――」
大岩の上で、ぴょん、ぴょん、と跳ねる。
その横で、若者が、今度こそ本気で苦笑を浮かべた。
「なるほど。その嬢ちゃんがおめえのアキレス腱か」
肉を齧って、男は言った。
少女が、きょとん、と首を傾げ、若者が、まいったな、と言いたげに肩をすくめる。
「得体が知れねえ、と思ったが――」
普通に人間らしいじゃねえか――はっはあ、と男は笑った。
当然のことながら他意はなく、
若者が軽く眉を動かしたが、男は気づかなかった。
「おれは、ラカン――『血闘士』だ」
笑いながら、男――ラカンは言った。
「仲良くしようか。小僧」




