聖魔殿堂 10(散花)
空はほのかな光を帯びている。
透明な空気は藍色に染まっているが、地平線の辺りは薄いピンク色だった。
夜明けが近い。
ヴォルドルーンは金色の眼を細くした。
闇に包まれていた大地が急速に彩りを浮かび上がらせていく。
膝辺りまで伸びた草が、どこまでも広がっているようだ。
風が、ひんやりと冷たい。
草を揺らす風が、ヴォルドルーンの黄金の髪も揺らす。
ヴォルドルーンは視線を左手に落とした。
剣の鞘を握っていた。剣は鞘に納められている。納めた覚えは無い。ナム・ヤーマがそうしたのだろう。
――護りたいもののために使え。
そう言って、渡された剣だった。
――……ら、会いに来い。
少年の時、別れ際に聞いた言葉は今ならわかる。
護りたいものができたら――だ。
音も無く、ヴォルドルーンは剣を抜いた。
冷ややかな空気の中で、一切の不純物を削ぎ落とされた剣が、白々とした光を放つ。
この剣を渡すために、あの空間でヴォルドルーンを待っていたのだろうか。
あの空間は、余人では見つけられない。
『封印』を持つヴォルドルーンだけが見つけることができる。
術者の位置を非術物が感知するからだ。
だが。
――虚構が……解……れたのは、……が……目覚……め――た
(虚構が解かれたのは、神仙が目覚めたからだ)
ナム・ヤーマの術を破る神仙が目覚めれば、あの空間は発見される。
ナム・ヤーマは知っていただろう。
神仙が目覚めれば、虚構が解かれることを。
聖魔殿堂がヴォルドルーンの滅却に動くことを。
同時に、自分もまた、ただでは済まないだろうことを。
――子を犠牲にする親はいない。
滅却される気は毛頭ない。
だが。
あなたを犠牲にする気はなかったぞ。
背後で、空気が動いた。
視線を向けると、ほっそりとした樹の下で、白い獣が半身を起こしていた。鳥のように細い首を伸ばし、水晶玉のような眼を周囲に向ける。
ヴォルドルーンに気づき、その姿は少女に変わった。白に近い髪はエメラルドのような光沢を放ち、八つも九つもある三つ編みが風に揺れた。
「ヴォル――」
きゃは、と笑う。
「ここ。どこ?」
「さあ。どこだろうな」
剣を鞘に納め、ヴォルドルーンは言った。チャナが、不思議そうに首を傾げる。
「おれも知らない」
草の色は黄色だった。どこまでも、黄色い草原が広がっている。
森のような、樹の密生地は存在しない。
細い樹々が点在している。すらりとした樹は細かな葉をつけている。青白い葉だった。裏側は完全に白い。その葉が、風が吹くと、花びらのように散る。
夜明け前の藍色の空間に、無数の葉が舞っている。白と青が乱舞している。
知らない樹だったが、南の樹ではない。
植生から考えると、かなり北に来ている。街道らしきものは、近くに存在しない。ルエルラメムは王都周辺の街道を整備していた。つまり、王都から相当に離れた場所にいるということだ。どこだかはわからない。
ナム・ヤーマが運んだのだろう。
あの爆発の瞬間――
ここまで転移させた。
「何かあったの?」
チャナが言った。
何が――とは訊いていない。
何か、ヴォルドルーンにあったのか――そう訊いている。
「なぜそう思う?」
「眠そうに見えるよ」
「……」
「寝る? 抱っこしてあげるよ」
草の上に坐り、両腕を前に伸ばしてくる。
仔犬のような真っ直ぐの眼を見つめ、ヴォルドルーンは息を吐いた。少しだけ笑った。
「重いぞ」
「平気だよ」
無邪気な貌で、チャナが笑う。
ヴォルドルーンはチャナに近づき、その前で膝をついた。片手を地面に突いて、身体を横にする。チャナの膝に頭を乗せた。
「これは抱っこじゃないよ?」
「これでいい」
腕を組んで言う。剣の鞘は胸に抱え込んだ。眼は閉じなかった。
チャナの手が髪に触れた。髪の間に指を潜らせてくる。そのまま好きにさせる。
「寝ないの?」
チャナが囁いた。
「……」
返事はしなかった。
花びらのように落ちてくる葉が、白く光っていた。陽光を反射している。
夜明けだった。
息をのむように気温が下がる。
やわらかな感触が背中に重なった。
首を捩じる。チャナと眼が合った。
瞳孔を持たない水晶玉のような眼がヴォルドルーンを見ている。
幾つもの角が、触覚のように震えていた。
あたたかい?――と言っているようだった。
「そうだな」
ヴォルドルーンは腕組みを解いた。伸ばした手でチャナの毛に触れる。
「あたたかい」
チャナの眼が細くなり、小さな頭がヴォルドルーンの腰に乗った。
よかった――と笑ったように見えた。
青白い葉が花びらのように落ちてくる。
ひらひらと、裏返って、白い裏側を見せる。
その葉が、チャナの眼に映っては消えていく。
世界は、どこまでも静かだった。




