聖魔殿堂 9(菩提)
深い森であった。
巨木には太い蔓が絡みつき、樹々は歪なシルエットを浮かび上がらせている。
太い根と根の間に、その男は坐していた。
高い鼻梁。高い頬骨。滝のように流れる髪と波打つ白い髭。
二重瞼の両眼がゆるりと開き、その瞬間、黒々とした森は黎明の輝きに満たされた。
神仙ヌー・ムンディン・ムーであった。
巨大な貌と化してヴォルドルーン達の前に現れたが、今は等身大の人の姿である。
す、と背骨が伸びている。細い身体だが、皮膚には張りがあった。深緑色の袈裟を纏い、両足を組み合わせて坐っている。
虹彩は鋼色であったが、緑青のような斑点がちらばっている。
石膏像のようであった貌と違って、色彩がある。それでも、闇のような瞳孔の色は変わらない。
その眼が、険しい光を放った。
《やら、れた》
怯えたように森がざわついた。
神仙?
神仙――
神仙――
ざわざわと森が不安の声をあげる。
森羅さえもひれ伏すさまに、神仙の意識は瞬時に静まった。同時に森もまた、静寂の空気を取り戻す。この森そのものが神仙であり、また神仙に隷従する空間でもあった。
従順なる下僕を前にした神のように、神仙は独白した。
《死んだか。ナム・ヤーマ――》
生体エネルギーごと叩きつけてきた。
術者の肉体も爆散しただろう。あれは、そういう技だ。
己の命と引き換えに。
敵を消滅させる。
だが、神仙には意味が無い。本体はここにある。
知っていたであろうに。
『あれ』を逃がすためだけに。
命を捨てたのか。
愚かな。
とだけ思う。
《『あれ』は――》
どこだ――と、視線を虚空に向け、神仙は眉を顰めた。
視界にノイズが混ざっていた。意識は急速に乖離しようとしている。
――暫し眠ってもらうぞ。
これが狙いか。
ナム・ヤーマの言葉を、神仙は鼻で嗤った。
《すぐに目覚める》
何の意味がある?
幾ばくかの時間稼ぎにしかならないはずだ。
目覚めて。
その時こそは――
《この手で滅却してくれる》
今回そうしなかったのは、十八年前、滅却を指示したはずのズァインが今なお存在していた事実に驚愕――そう、驚愕したからだった。小指の先程度の大きさで、砂漠ひとつを泥沼に変えるズァインを、成人男子のサイズに誰が肥大化させた――
確かめずにはいられなかった。
すぐにナム・ヤーマであることを知ったが、その事実に、神仙はまた困惑した。
聖魔殿堂最高導師。
ズァインの危険性は承知しているはずだ。
それが、なぜ――?
理由を知りたかった。
ズァインの始末を導師に任せ、自身はナム・ヤーマに会うことを優先した。導師が仕損じるとは思っていなかった。
ナム・ヤーマが育てただけはある――ということか。
――心がある。だから育てた。
戯言を。
人間の姿をしていても。
人間ではない。
ズァインだ。『あれ』は――
がちがち、と餓狼のように歯が鳴った。膝に置いた手が、枯れ枝のような音をたてる。
限界が来たようだ。
《あの封印――》
明滅する意識の底で思考する。黄金の腕輪が脳裏に浮かぶ。
あれは、外的要因からズァインを護ると同時に、ズァインの発動を抑えている。
あれがあれば、よほどのことがない限り、ズァインが発動することはないだろう。
危急の事態ではない。そう判断した。
よかろう。暫し――の猶予だ。
神仙の眼から光が消えた。
森に闇が訪れた。
樹々の間に、蛍火のような明かりが生じた。
淡い蛍火を手にした影が、ゆらゆらと現れる。
老人達であった。
「眠られたか」
ひとりが、神仙の身体に蛍火を近づけた。
そこには、死後数百年を経た木乃伊が坐していた。
変わらないのは、滝のように流れる白髪と波打つ白い髭。しかし、身体はひとまわりもふたまわりも縮み、背骨の曲がった骨格に、皮が張り付いているばかりだ。
貌は黒ずんだ褐色の頭蓋骨と化し、眼窩も鼻孔も、黒い穴でしかない。
なぜか笑みを浮かべているように見える口は、黄ばんだ歯が剝き出しになっている。
「次はいつ目覚められるか」
「明日やもしれん。あるいは――」
「百年先やもしれん?」
「そうさな」
さわさわと、老人達が囁きを交わす。
空気が抜けるような声音は、神仙の眠りを妨げるのを怖れているようだった。
「ズァインはどうする?」
誰かが言った。
「まさか存在していたとは」
「ナム・ヤーマが」
「最高導師が」
「殿堂を裏切っていたとは」
「神仙が目覚めねば」
「いまだ欺かれたままであったか」
「疾く滅却せねば」
「よいのか?」
「と、言うと?」
「御自身で始末したいようであったぞ」
「滅却せよ――というのが絶対のご意志だ」
「では。滅却を」
「滅却を」
蛍火のような明かりが消える。同時に、老人達の姿も消えた。
太い石柱が、森の中に点在している。樹よりも高い柱が、遥か高みにあるアーチ状の天井を支えている。
森に見えたが、そこは巨大な建造物の中であった。
聖魔殿堂。神の真理と魔の叡智を秘する殿堂――
その中央で、神仙は眠る。
死後数百年の木乃伊と化して。
神仙ヌー・ムンディン・ムー。
死してなお、不滅であった。




