聖魔殿堂 8(爆裂)
巨大な貌がナム・ヤーマに眼を向ける。
その瞬間、小屋の空気が外に向かって膨れ上がった。
空気が、この存在から逃げようとしたのだ。
だが、出ていくことはできない。
ここは、ナム・ヤーマの空間だ。
真空になることを、ナム・ヤーマが許さない。
ぎしぃ、と撓んだ木材が悲鳴を上げた。小屋の壁と天井が、巨大な風船を呑み込んだかのように湾曲していた。今にも弾け飛びそうだが、ぎりぎりのところで耐えている。
ナム・ヤーマと巨大な貌。ふたつの視線が絡み合った。
子供のように澄んだ眼と闇のような瞳孔。そこに何が交錯したか、ヴォルドルーンにはわからない。
《何年ぶりかな。ナム・ヤーマ》
うわん、と『声』が響いた。
直接脳髄に響く。声ではない。思念だった。
ぞっとするほど穏やかな『口調』だが、親しみめいた響きはかけらも無い。
「十八年ぶり――じゃな」
肩をすくめて、ナム・ヤーマが応じた。
《十八年、謀ってくれたわけだ》
「ぬしがおらなんだからの。おかげで術が成立した」
しゃあしゃあと、ナム・ヤーマが言う。子供のような声。子供のような貌である。
その貌を、巨大な貌が見下ろす。表情は変わらない。
《理由くらいは聞かせてもらえるのだろうな。なぜ――》
巨大な眼が、ヴォルドルーンに向いた。
《ズァインを滅却しなかったのか》
チャナの毛が逆立った。闇よりも昏い眼だった。
ヴォルドルーンは平然とその視線を受け止めた。
ほう――と、巨大な貌が、初めて表情を動かした。その眼を細くする。
《我を前に自我を保てる者はそうはいない。――惜しいな》
ヴォルドルーンは無言のまま、金色の眼を光らせた。
「心がある。だから育てた」
ナム・ヤーマが言った。
ヴォルドルーンと巨大な貌の眼が、囲炉裏の端に動いた。
子供のような身体が鎮座している。皺だらけの貌の中で、子供のように澄んだ眼が、星の光を放っている。
《心――?》
巨大な貌が言った。
《それが理由か。ナム・ヤーマ》
「他に理由が必要かな。――ヌーよ」
ナム・ヤーマの半眼が真っ直ぐに巨大な貌を見る。
無表情にそれを見下ろす巨大な貌。
永劫とも思える数瞬がたった。
《我を名前で呼ぶのはぬしだけだった。――残念だよ》
びくん、とチャナが硬直した。
空気が変わったからだ。氷塊が生じたかのように、冷たく、重くなった。
明晰な殺意だった。息まで白く変わる。
ヴォルドルーンの肩に、チャナの爪が喰い込んだ。
水晶玉のような眼が、巨大な貌を映している。
眼を逸らせないでいる。
ヴォルドルーンは右手を伸ばし、チャナの眼を覆った。
ふ、とチャナの身体から力が抜けた。肩から落ちてくるチャナを、ヴォルドルーンは右腕で抱きとめた。
やわらかな身体が、腕の中で丸くなる。
「神仙――と言ったか」
金色の眼を細めながら、ヴォルドルーンは口を開いた。
低い声に、神仙が顎を上げた。白い虹彩と漆黒の瞳孔が下方に移動する。虫けらを見るような眼差しだった。
ヴォルドルーンの眼は燃えた。
「神の如き仙人という意味か。にしては、術がえげつないぞ」
泥を吐き出した老人達のことだ。
その口からは、なお泥が止まらない。虚ろな眼からは涙が溢れ、泥を吐きながら、身体は痙攣を繰り返している。苦痛を味わっているのは間違いない。だがすでに意識が無い以上、意識を奪って楽にしてやることもできない。
当然術者は知っていただろう。その苦痛を。
知りながら、術をかけた。
ナム・ヤーマの小屋に入る駒として使うために。
神仙の眼がヴォルドルーンを見下ろしている。
惜しいな――と言いながら、その眼は、石か何かを見るようだった。
残念だ――と言いながら、かけらも気にしているようではなかった。
えげつない――と言ったところで、何も感じはしないだろう。
言葉は通じているが、同じ言葉を話しているとは思えない。
「ナム・ヤーマ――」
神仙を見据えたまま、ヴォルドルーンは言った。
「チャナを頼みます」
右腕を振った。チャナの身体を、猫のように投げた。
踏み込んだ足が床を鳴らす。同時に剣を抜いていた。閃光を放ったのは、黄金の腕輪か、鞘から放たれた剣の意思か。
巨大な貌の顎から左眼までを斬った。剣圧は天井まで達した。天井も屋根も裂け、その向こうに夜空が覗く。その時には、ヴォルドルーンの身体は宙にあった。床を蹴り、剣を振り上げていた。弧を描いた剣先は触れずして小屋の梁を斬り、巨大な貌の額を両断して、その眉間で止まった。
天井が崩れ、がらがらと床に落ちた。
囲炉裏に落ちた塊が、火の粉と灰を噴き上げる。
神仙の眼が動いた。
斬った跡が泥のように癒着している。
動いた眼がヴォルドルーンを捉えた。
眼のサイズだけで、ヴォルドルーンの頭よりも大きい。
その眼が言う。我を倒せると思うたか――と。
言葉にしなくても、意思が伝わる。
ヴォルドルーンも眼で応じた。
思わんよ――と。
彼我の差は絶大だ。その気になれば、ヴォルドルーンの身体など、小屋ごと粉砕できるだろう。
ナム・ヤーマの空間であっても、だ。
最初に小屋の破壊を抑えたのは、ナム・ヤーマではない。
拮抗しているように見えて、あれには歴然とした差があった。
内部に入られた時点ですでに勝負はついていた。終わらせなかったのは、強者の傲慢さか。あるいは、他愛ない会話――あの通じない言葉を交わそうと思うだけの何かが、ナム・ヤーマとの間にあったのか。
わかりはしない。だが。
「その余裕が――」
巨大な貌の眉間で、ヴォルドルーンは口を開いた。剣の柄を握り、足は巨大な貌の鼻梁を踏んでいる。
「詰めの甘さを招いたな」
神仙の視線が床に動いた。火のついた枝が散らばり、床に燃え移ろうとしている。
そこには誰も残っていない。
ナム・ヤーマもチャナも。泥を吐き出した老人達さえも。
神仙の眼がヴォルドルーンに戻った。
《己と引き換えに逃がしたか。よかろう。ならば消滅するがいい》
神仙の髪が白い光を放ち、灼熱が貌を叩いた。
視界全てが白熱の光に覆われていく。
その光の中で、ヴォルドルーンは眼を閉じなかった。金色の眼は、揺るぎもせずに、白い光を直視する。
一瞬、チャナは泣くだろうか、と思った。
まだ泣くのを見たことがない。
子供よりも幼い『小鬼』――
もし泣いたとしても。
ナム・ヤーマなら上手くなだめてくれるだろう。
いいや。養い子よ。
凛、とした声が響いた。子供のように高い声が、白い光を切り裂いた。
「子を犠牲にする親はいない」
小さな影が、光の中に出現した。巨大な貌の額の前で、ナム・ヤーマの手が開く。
「ヌーよ。暫し眠ってもらうぞ」
《ナム・ヤーマ――! 》
思念の叫び声。
それは同時にヴォルドルーンの叫びでもあった。
次の瞬間、爆発が生じた。
超新星の輝きよりも強烈な光がヴォルドルーンの意識を弾き飛ばした。
喪失の闇に呑み込まれる直前、少年のヴォルドルーンに、ナム・ヤーマが別れ際に言った言葉が、陽炎のように浮かんだが、意識もろとも闇に沈んだ。
――……ら、会いに来い。




